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「悪女について」を読んで、ニーチェの言葉を反芻する

ドラマ・映画好きなキャリアコンサルタント xyzです。

これまでに「キャリコン視点で楽しむ」をテーマに据えて、ドラマや映画についてあれこれ書いてきましたが、実は本やアニメ、音楽、その他ありとあらゆるエンタメにキャリコン視点で楽しめるものがいーっぱい!

……ということで、今回は初めての試みでを取り上げようと思います。キャリコン視点で楽しむ読書!

第一回目は有吉佐和子の小説「悪女について」です。

語る人、語られる人

有名な小説なので、読んだことある方も多くいらっしゃるかと思います。

あらすじはこちらで↓

女性実業家・富小路公子が突然、謎の死を遂げる。公子は持ち前の美貌と才能を駆使して、一代で財を成した一方で数々のスキャンダルを起こしたことから、マスコミからは「虚飾の女王」「魔性の女」などと悪評を書きたてられていた。物語は、そんな公子と関わった人物27人へのインタビューを綴ったものである。
Wikipediaより

小説家が女実業家死亡事件の取材のために27人の関係者にインタビューをする、という態で物語は進みます。取材対象一人のインタビューにつき、一章が費やされていて、さながらオムニバス形式の一人舞台を観ているような感覚です。

小説の中に富小路公子本人および彼女自身の話す言葉、彼女の視点は出てきません。登場せずとも、周りの人々の語りから次第に「公子」像を浮き彫りにしていく手法です。

またインタビュアーである小説家の視点も一切ありません。つまり、さまざまな人から見た公子についての聞き書きを集めた、いわば複眼的な人物考察ドラマです。

27人の語りから、読者が自分なりに公子という人物像を徐々に結んでいく、という面白さがあります。

ページを繰るたびに、それまで抱いていた公子のイメージが覆され、彼女の新たな一面を知り、その新たなイメージも更に覆され、それも更に覆され……の連続。
公子という人を、彼女の人生を知りたくて、読み進める手が止まらなくなります。

公子を一言で表すなら、ミステリアス

昭和の女実業家

公子に出会った人々は、彼女に魅了され翻弄され、骨の髄まで吸いつくされた人も、人生が変わってしまった人もいます。

時に人を踏み台にして成功への足掛かりをつけ、時代の波に乗り事業で成功をおさめ、マスコミにも華々しく取り上げられて一躍時の人となりました。

ちなみに平成、令和時代なら女性の活躍はさほど珍しくないですよね。女性社長も多くいます。2021年、全国の女性社長は54万919人で、調査を開始以来、初めて50万人を超えたそうです。(東京商工リサーチ調べ)

「女が自分の欲望に忠実に、夢を叶える」「実業家として大成する」ことは今や特別な女性にだけ許されることではありません。

しかし、この小説の舞台は終戦後まもない昭和。貧しく若いひとりの女性が、男性優位の社会で孤軍奮闘しながら自分の夢を叶え、実業家として成功をおさめるのは稀有なことでした。

公子は真面目で人一倍向上心があり機知に富んだ女性でしたが、成功するためには時に汚い手や嘘を使ってのし上がったであろうことを想像させるような話もありました。恨みをかうことも憎まれることもあったようです。しかし、それもどこまで本当なのかは、読者には分かりません。あくまでも公子の知人の一方的な話ですから。

かたや、欲のない人、美しいものを愛する無邪気な人、と思われていた公子。「守ってあげたい」と思わせる健気さや弱さ、いつまでも少女のような可憐さや可愛らしさを持ち合わせていたようです。恋愛感情を抜きにしても、庇護欲をかきたてられるようなひたむきさが、きっと公子にはあったのでしょう。まあ、それもどこまで本当なのかは、読者には知る由もありません。あくまでも公子の知人の一方的な話ですから。

主観というフィルター

人は自分の見たいものを、見たいようにしか見ないと言われます。

見えているものはほんの一部にも関わらず、人は自分が見聞きしたものがが全てであり、それが正しいかのように思ってしまうものです。だから、自分の知らなかった一面を知ると、裏切られたと感じたり、動揺したりするのかもしれません。

自分の見聞きしたものは全て自分の「主観」というフィルター越しに受け取ることしかできません。また、そのフィルターが装着されていることに無自覚でいることが多いのです。自分の見方に囚われてしまうと、視座、視点をずらして多角的に物を見ることが難しくなります。

自分のフィルターに自覚的になること、それは柔軟な物の見方に必要なことですね。

見方によって見えるものが変わる……わたしはルビンの壺を思い出しました。

何が見えますか?

多義図形、反転図形としても有名なルビンの壺の絵。

ルビンの壺では白地(つまり壺のように見える部分)を図として認識すると、黒地(つまり2人の横顔のように見える部分)は地としてしか認識されず(逆もまた真である)、決して2つが同時には見えない。
Wikipedia「ルビンの壺」より

一つの見方に囚われていると、見えるはずの別の物に気付けなくなります。視点を意識的にスイッチすればもう一方を見ることはできても、二つの物を同時に見ることはできません。
(しかし、この絵が「壺」と名付けられているのはなぜ?このタイトルで「壺」の形に意識がひっぱられてしまうのでは……もしルビンの「顔」というタイトルならば……などとわたしは思ってしまいます)

藪の中

しかし、本を読み進めるにつれ、ヒロイン公子がどんな人なのかわからなくなるのですよ。

知れば知るほど、情報が増えるほどに、謎が深まるのです。最近久しぶりにこの本を読み直したのですが、若い頃に読んだ時とは違う部分が気になったり、また新たな謎が生まれたりで、やはりわからないまま。

一体、公子という人はどんな人なのだろう?どんな思いを抱えて生きてきたのだろう?そして、どんな思いで死んでいったのだろう?

先ほど、複眼的と書きましたが、それぞれの人が彼女について語っていることがあまりにも食い違っていて、同一人物について語っているとは到底思えない……。彼女の外見についても印象は様々。出来事一つとっても、語る人によって全く真逆な受け取り方をしているのです。これも個々人のフィルターを通した語りの為せる技。

どちらが事実なのか、どちらも事実ではないのか。真相は藪の中です。

インタビュアーはそれぞれの語りをジャッジすることなく、ただ語られるままを聞く姿勢です。矛盾も疑問もそのまま、記録していきます。

インタビュアーは極力自分のフィルターを透明にしようと試みている様子が窺えます。それでも、インタビュアーが発する問いかけが話し手(インタビュイー)にある程度の影響を与えてしまうことは避けられませんが……。

錯誤なのか、誇張なのか、そう信じ込んでいるのか、騙されているのか……、27人が語る「公子」は、そのどれも公子であり、またどれも公子ではない、と言えます。
なぜなら、それはあくまでも他人の目から見た公子に過ぎないからです。

生前の公子に会って、直接彼女からいろいろな話を聞きたかった!と思ってしまいます。

聖女か悪女か、女王か詐欺師か

人々の公子に対する印象は大きく二分されています。

やり手だが、悪辣非道。とんだ食わせ者。

心が清らかで優しい。曲がったことが嫌いな潔癖な人。

聖女か悪女か。
女王か詐欺師か、はたまた教祖か。

まるで多重人格のように思える公子ですが、どこまでが素の彼女で、どこからが本人が意識して見せている部分でどこからが他人が勝手に投影した部分なのでしょうね。

矛盾する要素をひとりの中に共存させているのも人の不思議さであり、複雑さであり、面白さでもあります。

インタビュアーは公子の真実の姿に迫ろうとしますが、そもそも真実の彼女って何なのでしょう。
真実は彼女と関わった人の数だけあるー小説を読み終わってその思いを新たにしました。

事実と真実、そして解釈

 事実と真実。
つい混同して使ってしまいがちな言葉ですが、事実は、実際に起こった事柄、真実にはその事柄に対する人の解釈が加わっています。事実が客観的であるのに対して、真実は主観的。真実とは、解釈とも言えますね。

事実は、誰が見聞きしても同じ(※実はこの部分についてもニーチェは懐疑的なのですが話を進める便宜上ここではこのように書きますね)ですが、同じ事(事実)を見聞きしても見方や受け取り方、感じ方は人それぞれであるように、「解釈」は人によって異なります。

この物語におけるたったひとつの事実は「キミコと名乗る女が死んだ」。

その事実の受けとめ方のバリエーションが解釈であり真実。

解釈は、人の数だけあり、それを誰もジャッジすることはできない、ということです。

事実と解釈、と聞いて思い出すのは哲学者ニーチェの言葉です。

あるのはただ解釈のみ。

「事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである。」

ニーチェの言葉として知られていますが、これは一部分のようです。もう少し長めに抜粋してみます。

Against that positivism which stops before phenomena, saying “there are only facts,” I should say: no, it is precisely facts that do not exist, only interpretations.

現象に立ちどまって「あるのはただ事実のみ」と主張する実証主義に反対して、私は言うであろう、否、まさしく事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみと。
ニーチェ「力への意志」より

精密機械のレンズである対象物を映しとるように、人の目を介してある対象物を見ることはできません。

人は何かを認識する時に主観、感じ方というフィルターを完全に排除することはできないからです。

しかし、そのフィルターこそ「その人らしさ」「個性」でもあります。
また、あえて違うフィルターを装着してみることもできたら、世界の見え方も大分変わりそうです。

排除できないならば、それを逆手にとってうまく利用できたら武器にもなりそうです!

自分のフィルターに自覚的であること。
自分の「真実」だけが唯一無二と思わないこと。
それぞれの解釈を尊重し、ジャッジしないこと。

キャリアコンサルティングに置き換えて考えてみます。

相談者と接する時にキャリコン自身のフィルターに自覚的になる。「聴く」という行為に潜んでいるフィルター。「問いかけ」、その前段階の「言葉選び」という行為に潜んでいるフィルター。無色透明であることに越したことはないけれど、そうあることは難しくても、せめて自分のフィルターは「無色透明ではない」とわかっていること。

相談者の語りもまた、相談者自身のフィルターを通したアウトプットであることをわかっていること。

フィルター越しの「認識のズレ」に気づくこと。

フィルターに注意深く意識を向ける、これもキャリコンの傾聴姿勢に必要不可欠だと思いました。

キャリアコンサルタントの資格を得てちょうど一年。
面談の前には、このニーチェの言葉とともにフィルターの存在を忘れないようにしようと思うわたしです。

今日はこの辺で。
この本についてはまだまだ語りたいことがたくさんあるので、別の切り口で記事を書くつもりです。

最後までお読みいただきありがとうございました^^