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「信頼」は大きな痛みを伴うことを覚悟する感覚。

先日、仕事の出張で岩手の花巻に出向いた。少し前、ーそこに行くことに決まった時のことだー、周辺の地理を調べてみると、どうやら宮沢賢治の記念館があるようだった。当日、出張の帰りに、私は少し寄って帰りたいと思ったので、仕事を終えた後にふらっと赴いた。それに触発されたので、帰り道、賢治の代表作である『銀河鉄道の夜』を買って帰ることにした。家に着いた後、積読が溜まっている関係で、買った本はまず本棚にしまうのが最近の私のセオリー。私が購入した本棚は引き戸式のもので、ずっしりと重みを伴っているので、引き出しを開けるにも少し力がいる。戸棚は3つあり、海外文学と日本文学と実用書&専門書で分けている。日本文学の戸棚を引いて、『銀河鉄道の夜』を置く場所を見定めているうちに、ふっと『人間失格』が目に入った。太宰は胸の内にある人間のどよめく感情・薄暗い感覚をあまた表現しているゆえ、私の大好きな作家の1人である。すかさず私はそれを手に取り、パラパラとページを捲ると、このフレーズが目に止まった。

神に問う。信頼は罪なりや。

太宰治 『人間失格』

大人になる前、人間は「信頼」が大事だってよく言われてきたのだけど、大人になるに連れて分かったのは「信頼」は大きな痛みを伴うことを覚悟する感覚であるということ。

随分と前、といっても一年前のことになるが、私は交通事故に遭った。いや起こしてしまった、と言った方が適切なのかもしれない。信号の交差点での衝突だった。私が自転車で、相手がバイク。当初は相手が赤信号なのにもかかわらず勝手に突っ込んできたと思い込んでいて、当時の書留(私が赤信号で突っ込んだ)に対して警察に抗議をした。しかし後々判ったのは、それはとんだお門違いで、私の方が赤信号で直進していた。その証拠ビデオを突きつけられた時、私の勝手な思い違いだったことに、とてつもない罪悪感と、どうしようもなくいたたまれない気持ちが一気にこみ上げてきて、なにふり構わず全力で相手にお詫びをしたことを鮮明に覚えている。とんだ思い違いで私は相手を巻き込んでしまった。不毛な証拠確認のために相手にとって貴重な時間を浪費させてしまった。あの時の私は、間違いなく自分勝手なクズだったのだ。

警察署で事実確認をしなければいけないために、会社も欠勤しなければいけなかったので、その旨を上司に言った。そういえば当時の上司は、5分に一回のペースで絶え間なく話をしている、典型的なお喋り人間だった。そんな人だったが、交通事故の件に関して話さないと欠勤の話も進まなかったので、渋々ながら言った。検証が終わった後、結果も苦悶しながら伝えた。その時の私はひどく自己嫌悪に陥っており、事故のことが絶え間なく脳内で再生されていたので、辛い状態が続いていて、周りには一切知られたくなかった。ゆえに「周囲にこの件に関しては言わないで欲しい」とかなり念を押して申した。流石に個人的なことだし、かなりナイーブになっていたので、<絶対に言わないだろう>と思っていたし、大の大人であるから(当時50代だったと記憶している)そこは弁えているだろうと信頼した。しかしその1ヶ月後、その上司がいない時に近くの社員から耳にしたのは、その事実を周囲に漏らしていたことだった。そこに悲しみという感情は存在しなかった。八つ裂きにしたいほどの怒りに駆られ、失望極まりなかった。<あぁやっぱりあなたはそういう人か>とある種その人を諦めた。その時、私は人を信頼することの代償を食らった。ひどく痛かった。それ以来、その上司とは極力できるだけ心の距離をとって、なるべく直接話さないようにした。今振り返っても、あの時の判断はきっと間違ってなかったんだと思う。私は正しかった。

しかし思い返せば私はその人を信頼した結果だとも思う。<さすがにこんなことは人に言わないだろう>という私の枠組みの中でその人を測っていたのかもしれない。自分のフレームワークで人を測る悪しき癖は今でもある。人は自分が一番可愛い生き物なので、自分の網膜に映る相手の印象と、鼓膜に響く言葉をもとに、「この人ならきっと私にこうしてくれるだろう。あれはしないだろう」という勝手な信頼を、勝手に寄せる。その思い込みから外れた瞬間、その人に対して勝手に信頼をやめ、勝手に距離を取る。それが自分が作ったフィルターを通り抜けた人であるために、話をややこしくする。そういったことを大なり小なり繰り返して、私たちは一喜一憂し、勝手に苦しんだり、勝手に烈火の如く怒ったりしている。

つまるところ「信頼」は、基本的に自分目線の単語で、相手の今と過去から判断し、その人との未来の関係性を想像して、期待を寄せたり、安心感を見出す感覚だと思っている。だとするとこの言葉は一方通行なのだろうか?現に、たとえ自分が信頼をしているとしても、相手はそう思っているとは必ずしも限らない。逆も然り。「信頼関係」という単語はもしかしたら成立しないのではないだろうか?かといって「信頼している」と口に出すのも違う言葉。その言葉を空気に放り投げた途端、<あたかも自分は信頼されていないのか?>と猜疑心を生む契機にもなるので、なんとも面倒な言葉である。だとしたら自分が傷つかないために、そもそも信頼をしないことが自分を守る防衛線となるのだろうか?いや、それが正しいとは思わない。私の答えはシンプルで、信頼をしなければ、相手からの信頼は得られない。自分のことを話さなければ、相手も自分のことを話さないのと同じように、信頼をしないと信頼されない。信頼することを放棄してしまうと、人間の集団から蒸発してしまって、暗闇の中で独りポツンと取り残されてしまうと思う。だから信頼するスタンスを捨ててはいけない。その際、この人を信頼すると決めた瞬間に、一定の覚悟が必要なんだと思う。

太宰の言うように、信頼って罪深いことなのかもしれない。人を信頼することって簡単なようで難しいし、痛みも伴う。けれど、そこから逃げずに向き合っていきたいと最近は思っている。

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