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【つの版】度量衡比較・貨幣129

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 フランス国王ルイ14世は孫フィリップ/フェリペをスペイン国王に即位させることには成功しましたが、フランスは英国・オランダ・オーストリア等に袋叩きにされ、多大な犠牲を支払う羽目になりました。各国との講和条約締結の後、1715年にルイ14世は崩御します。そして各国には莫大な軍事費負担がのしかかり、経済は混乱に陥りました。

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金銀比価

 この頃、英国では造幣局長官アイザック・ニュートンが大量に銀貨鋳造を行い、通貨偽造人の逮捕に精力的に取り組んでいました。彼は部下を変装させて贋金製造組織に潜入させ、その首領であった詐欺師ウィリアム・シャローナーを1699年3月に絞首刑に追い込んでいます。シャローナーは銀貨や金貨、果てはイングランド銀行券までも偽造して大金を稼ぎ、郊外に邸宅を購入して裕福な紳士として生活していたといいます。

 ニュートンの努力にも関わらず、相次ぐ戦争のための出費と重税がのしかかり、英国経済と財政は相変わらず危機に陥っていました。鋳造された銀貨は片っ端から国外へ流出し、代わってポルトガルからブラジルで産出された大量の金が流入します。民衆は銀貨改鋳により財産が目減りするのを嫌い、手元の銀貨を競って金貨に交換しました。

 当時の英国の金貨はギニーといい、西アフリカのギニア地方(黄金海岸)で産出された黄金を用いていたことに由来します。古くはクラウン、ノーブル、エンジェルなど多様な金貨がありましたが、1663年にギニーに一本化され、銀1ポンド=20シリング銀貨と等価と定められます。重量は1/44.5トロイポンド=129.438グレイン=8.385gで、品位は22/24ですから純金11/44.5トロイオンス=7.69gにあたります。ところがシリング銀貨の品質低下により、17世紀後半にはギニー金貨は22シリングから30シリングにも高騰していました。ニュートンはこれに歯止めをかけるため金銀比価を設定します。

 1702年、ニュートンは当時の欧州における様々な貨幣の重量と交換比率を計測した報告書を作成しました。整理すると以下のようになります。

1ポンド=20シリング=240ペンス≒10万円
1シリング≒5000円、1ペンス≒417円として

フランス
金貨 ルイ・ドール: 6.7g   ≒206.8ペンス≒8.6万円
銀貨 エキュ   :27.15g  ≒54.13ペンス≒2.26万円=3リーブル
銀貨 リーブル  : 9.05g ≒18.04ペンス≒7524円=20スー
銀貨 スー    : 0.4525g=1/60エキュ ≒0.9ペニー≒377円
1gあたり金1.28万円、銀832円 金:銀=1:15.38

スペイン
金貨 ピエトレ  : 6.7g ≒206.8ペンス≒8.6万円
銀貨 ピアストル :27.03g≒53.88ペンス≒2.24万円
銀貨 レアル   : 3.38g≒1/8ピアストル≒6.735ペンス≒2800円
1gあたり金1.28万円、銀828.7円 金:銀=1:15.46

ポルトガル
金貨 モエダ   :10.66g≒329.1ペンス≒13.7万円
銀貨 クルサード :17.21g≒34.31ペンス≒1.43万円
銅貨 レイ    :1/400-1/480クルサード≒30-36円
1gあたり金1.285万円、銀831円 金:銀=1:15.46

オランダ・ドイツ・イタリア・北欧・東欧
金貨 ドゥカート : 3.7g≒114.3ペンス≒4.76万円
銀貨 3ギルダー  :31.33g≒62.46ペンス≒2.6万円=60ストゥイバー≒10蘭シリング
   リクスダラー:26.22g≒52.28ペンス=50ストゥイバー など
   蘭シリング : 3.13g≒2600円
   ストゥイバー: 1/6蘭シリング≒433円 など

 統一国家であるフランス・スペイン・ポルトガルはともかく、連邦であるオランダや神聖ローマ帝国などでは地域ごとに流通する貨幣の重さや価値に違いがあり、極めて混沌としていました。両替商/銀行はこうした様々な貨幣の相場を見極めて交換し、手数料を取っていたわけです。

 この研究をもとにして、ニュートンは英国の金銀比価を設定しました。すなわち「1ポンド=金1/4オンス(7.78g)=銀20シリング(120.4g)」で、金銀比価は1:15.4756ほどです。この頃の1シリング銀貨は1/62トロイポンド(6.02g、純銀11.1/62トロイオンス=5.57g)で、銀1gを1000円相当とすると1ペニー≒464円、1シリング≒5570円、1ポンド≒11万円となります。植民地で金銀を産出するスペインやポルトガルに比べて金が若干安く、フランスやドイツに比べると金が若干高くなっています。

 しかし、英国からの銀の流出と金の流入はとどまるところを知りませんでした。10年後の1712年には銀価格をやや値上げし、「金1オンス(31.12g)=銀3ポンド17シリング9ペンス(933ペンス=466.5g)」とします。これは金銀比価にして1:15.21に相当し、1ポンドは金8gになります。さらに1717年には「ギニー金貨1枚は21シリング銀貨にあたる」と定めました。

 当時の金銀相場では、これは銀に対して金が高くなり、かつ銀貨を鋳潰して銀塊にした方が高く売れてしまいます。意図的にやったのか計算ミスなのかはさておき、結果的にこの「ニュートン比価」は英国から銀を流出させ、事実上の金本位制を成立させることになりました。

南海泡沫

 スペイン継承戦争末期の1711年、英国では「南海会社(The South Sea Company)」という勅許会社が設立されます。当時の英国の財政状況は軍事費および債務の返済・利払いだけで歳出の9割以上を占め、債権や証券がダブついていたため、公債の一部をこの会社の株式に強制的に転換させ、産み出されるであろう利潤によって公債を整理するのが目的でした。業務は「南米およびその周辺諸島と英国との貿易を独占すること」とされますが、主な交易品は西アフリカから大西洋を横断して運ばれる黒人奴隷です。

 この大西洋奴隷貿易は、スペインやポルトガルによって早くから行われており、南北アメリカ大陸からは奴隷労働によって得られた安価な商品作物(砂糖や綿)が欧州へ送られ、欧州で加工された商品(ラム酒や衣服、武器など)がアフリカへ輸出されるという「三角貿易」が成り立っていました。オランダや英国・フランスも遅れて参入し、また私掠・海賊行為によって利益を横取りしています。そしてスペイン継承戦争の講和条約により、英国はスペインからこの貿易に関するある程度の権利の獲得に成功しました。

 ところが、スペインは条約を反故にしようとして英国と対立し、1718年には戦争が始まったため、南海会社の貿易活動はうまくいかなくなります。そこで南海会社は利益を出すため「富くじ」の発行を行い、金融事業に参入し始めました。翌1719年には3000万ポンド(3兆円)に及ぶ国債引受の見返りに株式を発行する許可を獲得し、「南海計画」を実行に移します。

 これは「株式は額面等価で発行する。株式と国債の交換は時価で行うが、発行許可株数は交換額に応じる」という仕掛けに基づいていました。株価が額面100ポンド、市場価格200ポンドであれば、国債200ポンドと等価交換できますが、株は実際に交換した200ポンドぶんを発行できるので、差し引きで時価200ポンドの利益になります。利益が出れば株価が上昇しますから、理論上は無限に利潤が出て、国債はたちまち整理されるという錬金術です。

 これにより、英国には空前の投機ブームが巻き起こります。1720年1月には1株100ポンド(約1000万円)強だった南海会社の株式は、2月にスペインとの戦争が終わるや暴騰し、5月には700ポンド、6月24日には1050ポンド(1億円以上)にもなりました。またイングランド銀行や東インド会社など他の株価も高騰し、これに便乗せんと無許可の株式会社も乱立し、多額のマネーが株式に注ぎ込まれていきます。

 事態を重く見た政府は6月24日に「泡沫会社規制法(Bubble Act)」を発布したため、あらゆる株価は暴落し、南海会社の株価は数ヶ月で120ポンドに下落しました。17世紀オランダでのチューリップへの投機熱はオランダ経済にはさしたる影響を与えませんでしたが、この「南海泡沫事件」は本物のバブル経済とバブル崩壊で(実際この事件がその語源になっています)、多くの破産者や自殺者が出たといいます。

 造幣局長官のアイザック・ニュートンも、このバブル崩壊で多額の損失を被った一人でした。彼は給料と特別手当をあわせ年収2000ポンド(2億円)もの収入を得ていましたが、数学的知識を活かして株式や国債に堅実な投資を行い、1720年1月までに3.2万ポンド(32億円)もの金融資産を所有していました。南海会社に対しては1712年6月から株式を購入しており、1720年には所有株が1万ポンド(10億円)にも達しました。彼はこれを一旦売却して7000ポンド(7億円)の利益を確定しましたが、その後も株価が上昇し続けたため再び株式を購入してしまい、バブル崩壊によって2万ポンド(20億円)もの損失を受けたのです。当時77歳の高齢だったニュートンは破産こそしませんでしたが大きなショックを受け、1727年に逝去しました。

 南海泡沫事件の影響は政界や王室にも波及し、南海会社から多額の賄賂を受け取っていた政治家に対して怒りの声が浴びせられます。この混乱の後始末を行ったのがホイッグ党議員ロバート・ウォルポールでした。彼は事務的処理で混乱した経済を回復軌道に乗せる一方、お偉方の政治責任を見事うやむやにします。この功績により、彼は翌1721年4月に第一大蔵卿に就任し、事実上の首相として20年に及ぶ長期政権を維持しました。

印度計画

 南海泡沫事件とほぼ同じ頃、フランスでは「ミシシッピ計画」という同種のバブル崩壊事件が起きています。スコットランドの実業家ジョン・ローはフランスの財政再建のためとして1716年に王立銀行を設立し、悪鋳で価値が下落した金属貨幣や乱発される国債に代わって不兌換紙幣(銀行券)を発行しました。翌1717年にはミシシッピ会社を購入して西方会社と改名、北米と西インド諸島における貿易権を独占しました。1719年にはフランス東インド会社等を併合して「インド会社」と改め、王立銀行も所有下に置きます。

 ローは英国の「南海計画」と同じく、フランスの国債をインド会社の株式に転換することで解消しようとします。株価が上昇すれば王立銀行の発行する紙幣(貨幣)の量も増え、国内景気が回復するという完璧な計画です。彼の計画に乗ってフランスにも投機ブームが起こり、インド会社の株式は1株500リーブル(約376万円)から1万リーブル(7524万円)にまで高騰し、歳入の10倍を超える16億リーブル(12兆円)もの国債を株式転換することに成功します。しかしインド会社が貿易で利益を上げているわけではなく、実態のないバブル経済そのものでした。

 1720年6月に英国で南海バブルが破裂する1ヶ月前、この「ミシシッピ計画」も信用不安から取り付け騒ぎが起き、ついに株価が暴落します。インド会社の株は500リーブルまで下落し、ローは会社を倒産させて国外へ逃亡しました。同時に彼が流通させていた銀行券は紙くずと化したのです。しかしフランスはこの会社を翌年復活させ、貿易や専売等に関する特権を与えて保護しています。

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【続く】

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