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【つの版】度量衡比較・貨幣130

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 相次ぐ戦争により欧州諸国の経済は混乱し、英仏両国では投機バブルが破裂して大きな被害を出しています。この頃、カリブ海では海賊が黄金時代を迎えていました。

◆Pirates of◆

◆the Caribbean◆


海賊周航

 カリブ海の海賊は、16世紀には活動を開始しており、17世紀には「バッカニア」と呼ばれる海賊たちが猖獗を極めました。これはカリブ海がスペインの植民地(メキシコ、ペルー、フィリピン)からもたらされる大量の金銀財宝の通り道だったためで、英国・オランダ・フランスなどスペインを敵国とする諸国は海賊たちに私掠免状を与え、莫大な財宝を掠奪させました。

 しかし、1690年代にはカリブの海賊たちの活動が一時弱まります。英国はスペインと手を結んでフランスと対立したため、同盟国に対して攻撃を許可するわけにはいきません。また1692年には地震で海賊の拠点ポート・ロイヤルが潰滅しています。フランス系の海賊たちは英国・スペインの海軍に圧迫されて活動が難しくなりますし、スペインの植民地や航路は海賊の襲撃のために消耗していました。とはいえ海賊による収入が途絶えれば英国の植民地もやっていけなくなるため、彼らは活路を求めてカリブ海を飛び出します。

 海賊たちの向かった先は、金銀財宝の収入が見込める東洋、すなわち紅海とインド洋でした。彼らは北米東岸の英国植民地群と手を組み、食糧や酒、火薬や銃器などの支援を受ける代わりに、掠奪した奴隷や財宝を横流しする契約を結びます。また中継地点として水や食糧が豊富なマダガスカル島が選ばれ、海賊たちは現地の内戦に加勢して拠点を設立し、紅海やインド洋を通るイスラム教徒の巡礼船を襲撃したのです。これにより北米植民地は年間100万ポンド(1ポンド≒10万円として1000億円)もの利益をあげました。

 しかし、これは現地住民との交易で儲けていた英国東インド会社にとって不利益でした。17世紀初めに設立されたこの会社は、東南アジアや日本からはオランダと対立して締め出されたものの、インドとイランにおいては活動拠点を維持し、巨万の富を英国にもたらしていたのです。その株式は投機の対象となり、240-450%もの配当利回りを誇りました。事態を重く見た英国は、インドとアラビアを往来する巡礼船に護衛船をつけることを取り決め、この海域における海賊行為を取り締まり始めます。

 この頃に活動していた海賊が、トマス・テュー(1695年に戦死)、ヘンリー・エイヴリー(1696年以後行方不明)、そしてウィリアム・キッドです。彼らは巡礼船や商船を襲撃し何十万ポンドも財宝を掠奪した悪党たちで、エイヴリーとキッドは英国から賞金首として指名手配され、「自首すれば恩赦を与える」という海賊たちへの通達からも除外されました。

 1699年、キッドの支援者であったニューヨーク植民地総督のベロモント伯は、ボストンに入港したキッドを騙して逮捕し、財宝を没収します。そしてキッドには海賊行為や殺人罪で絞首刑の判決が下されました。キッドは英国下院議長に手紙を書き送り、「私は10万ポンド(100億円)の財宝をどこかに隠してあります。処刑を免除して下さればそこへ案内しましょう」と命乞いしますが聞き届けられず、1701年5月に処刑されました。その死体は晒し者とされ、海賊への戒めに用いられたといいます。いわゆる「キャプテン・キッドの財宝」とはこれに基づいた伝説で、類話は多く伝わっています。

 この頃、ウィリアム・ダンピアという人物が活動しています。彼は英国の私掠船に乗り込み、中米でスペインの船や植民地を掠奪していましたが、1683年に南米南端のホーン岬を回って太平洋に遠征し、ペルーやガラパゴス諸島、メキシコなどを襲撃しました。1686年には太平洋を越えてマニラに到達し、チャイナや香料諸島、ニューホラント(オーストラリア大陸)などを訪れています。1688年にはニコバル諸島に置き去りにされますが、小さな船を作って脱出し、大冒険の末に1691年に英国に帰還しました。彼の手記は英国で話題になり、1699-1701年にはオーストラリアやニューギニアへの探索に派遣されます。しかし乗組員を虐待したとして訴訟され、海軍を解雇されて私掠船長に戻りました。彼の船の船員であったアレキサンダー・セルカークは、1719年に英国で出版されたダニエル・デュフォーの小説『ロビンソン・クルーソー』の主人公のモデルではないかと言われています。

拿騒海盗

 1701年にスペイン継承戦争(北米ではアン女王戦争)が勃発し、英国はフランスおよびスペイン(ブルボン朝)と再び敵対関係に入ります。紅海とインド洋から締め出された英国海賊たちはカリブ海へ舞い戻り、私掠免状を授かって合法的な海賊稼業に精を出します。植民地同士でも戦争が勃発し、その軍資金を稼ぐためにも海賊もとい私掠船は必要でした。

 この頃、英国の海賊・私掠船の拠点となったのが、キューバの北、フロリダ半島の東に浮かぶバハマ諸島です。1492年にコロンブスが到達・発見したこの諸島には4万人に及ぶ先住民がいましたが、1520年までに全員が他の島へ連行されるか疫病で死に、スペイン人も住み着かず無人島となりました。17世紀半ばになって英国人がここに目をつけ、入植を開始します。ここはスペイン船の航路に近く、しばしば難破船が漂着したので、それを襲撃して積荷を奪えば実入りは充分に見込めました。そのうち入植者らは海賊・私掠船員と化し、積極的にスペインの船や入植地を襲撃しはじめたのです。

 バハマ諸島植民地の中心地は、ニュープロビデンス島に築かれた港町でした。かつてはチャールズ・タウン、のちウィリアム3世の家名(ナッサウ)にちなんでナッソーと名付けられたこの町は、17世紀末には海賊・私掠船の一大拠点となり、植民地総督も彼らを取り締まると称して裏で手を結び、大いに私腹を肥やしました。1703年と1706年にスペインとフランスの連合艦隊がナッソーを襲撃し、総督が統治を放棄すると、残された者たちは「私掠船/海賊共和国」を形成し、勝手にスペイン船やフランス船を襲撃し続けます。

 1713年にスペイン継承戦争が終結すると、英国はスペインの植民地との貿易権を獲得し、私掠船は免状を没収されて海賊に戻ります。また戦乱で荒廃した欧州諸国からは一攫千金を求めてお尋ね者たちが流出し、海賊の数は数千人にも膨れ上がりました。これがいわゆる「海賊の黄金時代」の到来ですが、彼らは私掠免状を持たない全くの無法者アウトローで、カリブ海や大西洋を通る商船を襲撃して商品を掠奪し続けたため、各国の海軍は海賊の取り締まりを強化しました。しかし海賊と手を組んで私腹を肥やす領主や総督もおり、海賊退治は一筋縄ではいかない難事でした。

海賊列伝

カリブ諸島

 1715年9月、キューバ北西部の港町ハバナを出港したスペインのガレオン船12隻がハリケーンに遭遇してフロリダ沖で沈没しました。その積荷は銀貨1400万ペソ(1ペソ/ピアストル=8レアル≒2.5万円として3500億円)にも及び、ハバナの総督は積荷を回収させるべく作業船を送り込みます。英国のジャマイカ総督ヘンリー・ハミルトンはこれを聞きつけ、財宝を私掠させるためにヘンリー・ジェニングスを派遣しました。

 彼は首尾よく35万ペソもの銀貨を奪い、ついでにスペイン船を襲って6万ペソを手に入れ、意気揚々とジャマイカへ凱旋します。ところがハバナ総督はジャマイカ総督に抗議を申し入れ、「スペインと英国は平和条約を結んでいるのだから、海賊と積荷を引き渡してもらおう」と要求します。処罰を恐れたジェニングスらはジャマイカを立ち去り、各地で船を襲撃しながら仲間と財宝を増やしつつ、安全な根拠地を目指してナッソーに向かいました。

 この頃、ナッソーの「海賊共和国」を仕切っていたオヤブンはベンジャミン・ホーニゴールドでした。彼は1713年頃にナッソーに現れ、「フライング・ギャング」と名付けた海賊団を組織し、フロリダ海峡やキューバで海賊行為を繰り返し、半年で1万ポンド以上の掠奪品を獲得します。しかしジャマイカ総督には賄賂を要求されるからと掠奪品を持ち込まず、近隣の悪徳商人と独自に取引して売りさばいていました。彼の手下にいたのが「黒髭」ことエドワード・ティーチ、サミュエル・ベラミーなどです。

 1716年にナッソーに現れたジェニングスは、ホーニゴールドらを「私掠免状を持たぬ海賊である」として武力で威嚇し屈服させ、戦利品を接収してジャマイカ総督に送り、バハマ総督からの抗議をうやむやにしてもらいます。そしてホーニゴールドら「フライング・ギャング」と共闘関係を結び、スペインやフランスの船を襲撃して次々と掠奪します。彼らは仲間割れしながらも莫大な財宝を獲得しますが、スペインやフランスは英国に激しく抗議し、英国はジャマイカ総督ハミルトンを逮捕して交替させ、ジェニングスらを英国の法に従わぬ海賊であると断定しました。そして英国は、ウッズ・ロジャーズなる人物をバハマ諸島の海賊鎮圧のために送り込みます。

 彼は上述のダンピアの知人として私掠船に乗り込み、世界周航を行いながらスペイン船を襲撃し、また1709年にセルカークを回収して英国に連れ帰った男でした。しかし訴訟や遠征費用、出資者への配当金の分配などで無一文どころか借金まみれになり、出版した手記の印税でもおっつかず破産状態に陥っていました。そこで新たな事業を起こしてカネを儲けようと企み、1713年にマダガスカル島の植民地化を政府に提言します。これはこの島に定住していた海賊たちに恩赦を与えてまるごと指揮下に置くというものでしたが、東インド会社が難色を示したため取りやめとなります。そこでロジャーズは同じことを西インド諸島でやると提言し、承認されたのです。

 当時のバハマは文字通りの無政府状態で、総督/領主は10年以上も不在状態が続いており、海賊たちが独自の掟を敷いて支配下に置いていました。ロジャーズは1718年1月に英国王ジョージ1世より遠征隊の総司令官およびバハマ植民地総督に任命され、「同年9月5日までに降伏すれば全ての海賊行為を赦免する」という勅命を授かりました。彼は7隻の船、100人の兵士、130人の入植者と食料等の物資を準備し、同年4月にテムズ川を出航します。この遠征により12年間存続した「海賊共和国」は滅亡し、海賊の黄金時代は終わりを迎えることになりました。

◆Pirates of◆

◆the Caribbean◆

【続く】

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