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【つの版】度量衡比較・貨幣111

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 欧州諸国が三十年戦争や清教徒革命で揺れていた頃、オランダは海外貿易によって世界経済を牛耳り、黄金時代を迎えていました。英国はオランダとの経済摩擦に苦しめられ、英蘭戦争を引き起こすことになります。

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黄金時代

 オランダ/北ネーデルラントの歴史を振り返ってみましょう。この地域は英国・フランス・ドイツの中間に位置し、ライン川の河口部にあることから、古くから海と河川を介した国際貿易が盛んでした。15-16世紀には神聖ローマ皇帝であるハプスブルク家の所領として繁栄しますが、プロテスタントやユダヤ人が多かったためカトリックによる宗教弾圧が行われ、経済先進地であることから重税が課せられます。反発した北部ネーデルラント諸州は連合してハプスブルク家に反旗を翻し、英国やフランスと同盟します。この独立戦争は1568年から1648年まで80年も続きました。

 初代オランダ総督(stadtholder/統領、事実上の国家元首)のオラニエ公ウィレム1世が1584年に暗殺されると、次男マウリッツが跡を継ぎ、1625年まで40年間在任しました。彼は軍事と政治の才に溢れ、南ネーデルラントを支配するスペイン軍と激闘を繰り広げて領土を広げるとともに、東インド会社西インド会社証券取引所銀行を設立して経済を振興しました。マウリッツの異母弟フレデリック・ヘンドリックがその跡を継ぎ、1647年まで22年間在任します。彼はドイツ諸侯や英国王室と婚姻関係を結んで外交を強化しつつ、スペインとの戦争を継続して領土を広げました。

 領土が小さく人口も資源も乏しいオランダが、超大国スペインとハプスブルク家を向こうに回して長年戦い続け、経済大国となることができた理由は様々にあります。特にカトリック世界で迫害されていたプロテスタントやユダヤ人が大量に移住し、その才能が活用されたことは大きいでしょう。オランダは人材確保のため宗教的には(カトリック以外には)寛容で、商業や金融、先進的な科学技術や文化・芸術の振興にも熱心でした。カネと思想や学問の自由があるところには人が集まります。

 1575年に設立されたライデン大学は、ヨーロッパじゅうから学者たちを招き寄せ、育成しました。ブラバントからは人文学者リプシウス、フランスからは哲学者デカルトが訪れ、法学者グローティウスは自然法に基づいて国際法の基礎を作り、画家のレンブラントは絵筆を振るい、晩年のガリレオの著作もオランダで出版されています(彼が望遠鏡を作ったのもオランダの望遠鏡の噂を聞いてのことでした)。その後もユダヤ系の哲学者スピノザ、数学・物理学・天文学者のホイヘンス、顕微鏡を発明したレーウェンフック、画家のフェルメールなどがオランダから輩出され、近代西洋の文明と文化に大きな影響を与えています。

 対外的には英国やフランス、北欧諸国やドイツのプロテスタント勢力とも手を結んでいますし、バルト海を介して食糧や木材も大量に輸入可能です。国内には運河網が張り巡らされて安価・大量に物資を輸送でき、風車によって風力エネルギーを得られ、海を干拓すれば農地を増やして商品作物も作れます。こうしてオランダはヨーロッパにおける経済の中心となったのです。

 さらにオランダの商船は大西洋・インド洋を越えてアジアや南北アメリカに進出し、スペインとポルトガルによる貿易独占体制を破壊します。商売敵の英国も締め出され、貿易によって得られた莫大な富がアムステルダムへ流入しました。1640年にポルトガルがスペインから独立すると、スペインの勢力はますます弱まり、フレデリックが逝去した翌年の1648年にはついにオランダ(ネーデルラント連邦共和国)の独立を承認しました。

先物取引

 この頃のオランダでは経済が過熱し、1630年代には有名な「チューリップ・バブル」あるいは「チューリップ・マニア(狂熱)」が起きています。これは記録に残された最初の「投機バブル」「バブル経済」であるといいますが、投機熱を批判するため後世に誇張された点が大きく、オランダの経済はその後も順調に発展を続けています。とはいえそのような事件が起きたことは事実のようですから、一応見てみましょう。

 チューリップはアナトリア地方や中央アジアを原産地とする植物で、ペルシア語ではラーレ(lale/赤い花)といいます。1554年に神聖ローマ帝国の使者としてスレイマン大帝治下のオスマン帝国に赴いたブスベックは、このラーレの球根や種子をウィーンへ送りましたが、報告書に「ターバンのような(Tulbend)」と書いたため、ヨーロッパ諸国ではこれが訛った「チューリップ(フランス語tulipe、スペイン語tulipan、イタリア語tulipano、ドイツ語Tulpe、オランダ語tulp)」の名で広まることになります。

 フランス北部・フランドル地方のアラスで生まれた医師・植物学者のシャルル・ド・レクリューズ(ラテン語名カロルス・クルシウス)は、1573年から76年までウィーンの帝国医学農園に勤めており、この頃にブスベックからチューリップの球根を分け与えられています。彼は植物学者として各地で活動したのち、1592年にオランダのライデン大学に招かれました。

 彼はライデン大学に植物園を作り、チューリップの球根を植えて花を咲かせることに成功します。異国からもたらされた珍しい花は評判となり、すぐに英国でも栽培が始まり、多くの品種が作られました。チューリップの花は毎年4-5月に咲きますが、花を咲かせる球根を種子から作るには7-12年もかかります。しかし球根は毎年花が終わるたびに収穫でき、秋冬の間に保管して運搬できるため、これが市場において取引の対象となりました。

 当初は球根の現物が花屋と卸売の間で現物で取引されていましたが、取引の需要に供給が追いつかなくなると、「球根が収穫されたら規定の数を売買する」とした文書が作成され、公証人の前で署名して契約するようになります。このやり方(現物の先渡取引)は16世紀のアントウェルペンやロンドンの取引所でも行われていましたが、病気や天候不順で球根が不作なら高騰しますから、収穫時の球根の取引価格を先に契約で決めたり(先物取引)、価格を決定する権利を取引したり(オプション取引)するようになり、さらには現物を売買せずに取引の権利だけを売買(空売り)することも行われ始めます。これらの取引に投資・投機マネーが流れ込みました。

泡沫熱狂

 オランダは早くも1610年に政令によってチューリップの空売りを禁止し、契約執行不能であると定めましたが、1621年、1630年、1636年にも同じ命令が出されており、あまり効果がなかったようです。1634年からフランスでもチューリップの需要が高まるとバブルは膨らみ、1635年には球根40個が10万ギルダー、1個平均で2500ギルダーにも高騰したといいます。当時のギルダーは英国の1/4ポンドに相当し、およそ現代日本円で2.5万円に当たるとすれば、2500ギルダーは6250万円、10万ギルダーは25億円にも達します。熟練職人の年収が150ギルダー(375万円)といいますから桁違いの額です。

 この頃のオランダの物価では、小麦2ラスト(last/船荷)が448ギルダー、ライ麦4ラストが558ギルダー、チーズ1000ポンドが120ギルダー、バター2トゥン(tun/樽)が192ギルダー、ビール2トゥンが32ギルダー、ワイン2ホッグスヘッド(hogsheads/大樽)が70ギルダー。家畜1頭では肥えた羊が10ギルダー、豚が30ギルダー、牡牛が120ギルダーでした。

 当時のアムステルダムでの度量衡では、1ポンド=494.09gで、1000ポンドは494.09kg。1ラストは4000ポンドですから1976.36kg≒約2トンです。1トゥンは252ガロンにあたり、1ガロン(ワインガロン)は3.785リットルですから、953.82リットルにあたります。重さにして約1トンですから、1ラストの半分、2000ポンドです(メートル法の「トン/tonne」は1トゥンの容量の水の重さを基準値とします)。ホッグスヘッドは1/4トゥン=63ガロン=238.455リットルで、重さにして500ポンドに相当します。つまり、
1ラスト=2トゥン=8ホッグスヘッド=504ガロン=4000ポンド≒2トン弱
1トゥン=4ホッグスヘッド=252ガロン=2000ポンド≒1トン弱
1ホッグスヘッド=63ガロン=500ポンド=247.045kg

となります。2ホッグスヘッド=1000ポンド=0.5トゥンです。

1630年代オランダの物価 単位:ギルダー(G)
飲食品                            1トゥンあたり
 ビール  2トゥン         32G(80万円)    16G(40万円)
 ワイン  2ホッグスヘッド     70G(175万円)   140G(350万円)
 チーズ  1000ポンド=0.5トゥン  120G(300万円)   240G(600万円)
 バター  2トゥン         192G(480万円)    96G(240万円)
 小麦   2ラスト=4トゥン    448G(1120万円)  112G(280万円)
 ライ麦  4ラスト=8トゥン     558G(1395万円) 69.75G(174.375万円)

1ポンド(494.09kg)=1/2000トゥンあたり(安い順)
 ビール:200円
 ライ麦:872円弱
 バター:1200円
 小麦 :1400円
 ワイン:1750円
 チーズ:3000円

家畜
 肥えた羊  1頭          10G(25万円)
 肥えた豚  1頭          30G(75万円)
 肥えた牡牛 1頭          120G(300万円)

その他
 銀の杯   1個          60G(150万円)
 上等な衣服 1揃い         80G(200万円)
 上等なベッド1台          100G(250万円)

 これらの取引は取引所での公的なものではなく、居酒屋での私的なやり取りで行われていたため、正確な数値はよくわかっていません。しかし取引をすれば儲かるというので投機家は借金してでもカネを注ぎ込み、1個の球根に数百ギルダーの値がついたり、1日に10回も同じ球根が取引されたりしたといいます。しかし1637年2月、バブルは突然弾けました。ペストの流行で買い手が定期的な球根取引の場に現れなくなり、価格が急落したのです。

 この月、オランダの花屋ギルドは「1636年11月末から春の現金市場の再開までの間に締結された先物取引契約は、全て選択権取引(オプション取引)契約である」と決定し、先物取引を行った買い手は購入義務が免除され、契約金額の1/30の違約金を支払うだけでよい、と定められました。オランダ議会はこれを事後承認し、ここにチューリップ・バブルは終わったのです。後世には「これによりオランダでは多くの者が破産し、何年も不況になった」と吹聴されましたが、実際には被害は大したことはなかったようです。またチューリップ・バブルにカネを注ぎ込んだのは裕福な商人や熟練職人など中産階級ばかりで、貴族や大富豪はびくともしませんでした。

無総督期

 さて、オランダ/ネーデルラント連邦共和国は7つの州から成り、法律上は連邦議会での票決権は各州平等でしたが、ホラント州は国の全人口の半分を占め、政府予算の58%を負担していました。またアムステルダム市はホラント州議会の予算の44%を占め、他の市を抱き込んで州議会と執行機関を主導していたため、アムステルダムを牛耳る特権的豪商レヘント/Regenten、執権)が議会の実権を握っていました。共和国とはいえ民主政ではなく、ローマやヴェネツィア、ポーランドのような寡頭政治(オリガルキア)です。

 彼らはオランダ総督のオラニエ=ナッサウ家およびその派閥と対立し、1650年に総督ウィレム2世が24歳で病没すると総督職を廃止したため、オランダは「無総督時代」に入ります。清教徒革命ほどの大乱とはなりませんでしたが、オランダも英国も議会が国家を運営する時代になったのです。ただ英国がクロムウェルを護国卿としたように、オランダではヨハン・デ・ウィットが事実上の国家元首となります。

 彼はレヘントのひとつビッカー家の出身で、父はドルトレヒト市長を6期連続で勤めた名門でした。1653年に28歳でホラント州議会の法律顧問に選出され、以後1672年まで連続して選出されます。英国は、護国卿時代から王政復古期にかけて、このヨハン・デ・ウィットを指導者とする強大な経済大国オランダと戦うことになりました。

◆黄金◆

◆時代◆

【続く】

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