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【つの版】度量衡比較・貨幣81

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 1580年、スペインはポルトガルと同君連合となり、領土を繋げば地球を一周する「太陽の沈まない帝国」となりました。しかし、その落日も急激でした。オランダ英国がスペインの敵として立ち上がったのです。

◆和◆

◆蘭◆

低地諸国

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Gaule_Belgique.png

 西ヨーロッパ北東部、ネーデルラント(低地)と総称される地域は、古代には南部がベルガエ(Belgae)と呼ばれ、ケルト系とゲルマン系の住民が混ざり合って存在していました。ユリウス・カエサルによってローマに征服されたのち、ベルガエは属州ガリア・ベルギカとして南に広げられ、北部と東部はライン川沿いの属州ゲルマニアに分割されます。おおよそ現在のベルギーとオランダの境にあたり、言語的にも南部はガロ・ロマン系のロマンス諸語、北部は低地ゲルマン諸語が浸透していきました。

 3世紀頃、ベルガエ地域にはフランク人と総称される部族連合が誕生し、やがてガリアとゲルマニアにまたがるフランク王国となりました。さらにはイタリアやイベリア北部にも拡大し、国王は西ヨーロッパの盟主として「ローマ皇帝」の称号をローマ司教(教皇)から贈られましたが、分割相続で解体します。結局、西部がフランス王国(西フランク王国)、東部が神聖ローマ帝国(東フランク王国/ドイツ)となりましたが、中部は諸侯が分立してまとまりませんでした。しかし英国・フランス・ドイツの中間にあることから国際的な交易や交流が盛んで、豊かな経済的基盤の上に華やかな先進文化が花開きました。15世紀から16世紀にかけ、ハプスブルク家は婚姻政策などによって、これらの地域の封建領主の地位を併せ持つことになります。

 南北ネーデルラントの境に位置した都市アントウェルペン(英語名アントワープ、フランス語名アンヴェルス)は、中世後期から近世初期にかけて、ヨーロッパ有数の経済的・文化的先進地でした。英仏百年戦争においては英国側について毛織物取引で繁栄し、南ドイツから香料商人が取引に訪れ、ケルンやスペインやポルトガル、穀倉地帯であるポーランドとの結びつきも強まり、それまで栄えていたブルッヘ(ブルージュ)に代わって経済の中心地となっていきます。

 この都市の繁栄は、地元出身の商人の活躍によるものではなく、欧州各地からやってきた国際商人の活動によるものでした。そのため宗教的にも寛容で、ユダヤ教徒の大規模なコミュニティが形成され、異端として迫害されていた改宗ユダヤ人、プロテスタントも続々と亡命して来ます。人口は1500年には4万人ほどでしたが、1568年頃には10万人を超え、黄金時代を迎えていたのです。ポルトガルから香料や香辛料、スペインから銀がもたらされ、世界中から集まる知識をもとに出版業も盛んとなりました。

 しかしアントウェルペンは政治的には自由都市でも自治共和国でもなく、ブリュッセルを首都とするブラバント公国の一部でした。フランドル生まれのカール5世/カルロス1世が1555年に退位し、スペインで生まれ育った敬虔なカトリックのフェリペ2世がネーデルラントを継承すると、異教徒や異端は徹底的に弾圧され、重税がのしかかることになったのです。

独立戦争

 これに反発したネーデルラント諸州では反乱が相次ぎ、1568年よりオラニエ公ウィレムを盟主とする大反乱を開始します。両軍は激しく戦い、アントウェルペンはスペイン軍の侵攻と掠奪を受けて大打撃を被ります。1576年11月に両者はいったん講和しますが、互いの憎悪は収まらず、1579年には北部7州がユトレヒト同盟を結び、アントウェルペンもこれに加わってスペインとの対決を続けます。しかしカトリックが多いネーデルラント南部10州はスペイン側につき、1584年にウィレムは暗殺され、翌年アントウェルペンも降伏しました。降伏条件の一つとして、プロテスタントの市民はアントウェルペンを2年以内に立ち去ることが認められ、ほとんどが北部7州へ亡命しました。彼らはホラント州の港湾都市アムステルダムに移住し、以後この地はアントウェルペンに代わる(北)ネーデルラントの中心地となったのです。

 ユトレヒト同盟≒北ネーデルラント7州はフェリペ2世による統治を認めず、事実上の独立国となりました(スペインなどから国際的な承認が得られたのは1648年)。7州のうちアムステルダムを擁するホラント州(Holland,ホラント伯領)が最も大きく、他の6州をしのいでいたことから、諸外国では彼らの代表者として「ホラント」を呼称として用いました。ポルトガル語では「オランダ(Holanda)」と訛り、日本にこれが伝わったのです。自称はネーデルラント、英語名はザ・ネザーランズで、フランス語・スペイン語・イタリア語でも「低地諸国」を意味する各国の言葉で呼んでいます。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Map_of_the_Habsburg_Netherlands_by_Alexis-Marie_Gochet.png

 英語でオランダ人をダッチ(Dutch)とも呼ぶのはドイツ人(Duitsch)の訛りで、彼らが低地ドイツ諸語を話していることによります。近世には商売敵となったオランダ人への侮蔑的呼称となり、あいつらはケチだというので割り勘のことを「ダッチ・トリート(オランダ流のおごり)」と言ったりしました。なお「ダッチ・ワイフ」はもともと竹製や藤製の抱き枕のことで、19世紀後半に言われ始めた言葉のようです。

 そしてネーデルラントの反乱を支援していたのは英国でした。この頃の英国王は女王エリザベス1世です。彼女が即位するまでを見ていきましょう。

英国女王

 英国王ヘンリー8世は1534年にカトリック教会からの独立を宣言し、英国国教会を創設します。教義面ではカトリックとほぼ同じですが、教皇権に従わないためにプロテスタントとみなされ、ルター派やカルヴァン派など多くのプロテスタントも英国に亡命したり、その支援を受けたりしています。

 1547年にヘンリー8世が崩御し、9歳の王太子エドワード6世が即位すると、母方の叔父サマセット公エドワード・シーモア、ついで彼を失脚させたウォリック伯/ノーサンバランド公ジョン・ダドリーが実権を握ります。彼らはプロテスタントを優遇し、フランスやスコットランドと講和して国政改革を行いましたが、1553年にエドワード6世が崩御すると彼の異母姉メアリーが民衆の支持を集め、ダドリーらを処刑して女王に即位しました。

 メアリーはヘンリー8世と最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴンの娘であり、母の影響で敬虔なカトリック教徒でした。彼女は英国をカトリックに復帰させ、プロテスタントを弾圧し(そのため「ブラッディ(血塗れの)メアリー」と誹謗されました)、スペイン王フェリペ2世と結婚して英国の共同王としました。英国王位継承権はフェリペとメアリーの子にのみあるとされましたが、フェリペはスペインにとどまったため結婚は長続きせず、メアリーは在位5年で1558年に崩御してしまいます。

 メアリーについで即位したのは、ヘンリー8世と第二王妃アン・ブーリンの娘であるエリザベスでした。父は跡継ぎの息子を儲けるため最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴンと離婚し、愛人アンを王妃としましたが、このため英国がカトリック教会から離脱することになりました。1533年にアンが生んだのも女子でしたが、アンはキャサリンとその娘メアリーを見下して勝ち誇り、贅沢三昧の日々を送っておごり高ぶっていたといいます。

 しかしヘンリーは彼女の侍女ジェーン・シーモアに寵愛を移し、1536年にアンに罪を着せて処刑するとジェーンを王妃に立て、彼女が生んだ息子エドワードを王太子としたのです。ジェーンは息子を生むと産褥死しますが、ヘンリーはその後3人も王妃をとっかえひっかえしています。このように複雑な家庭の事情により、メアリーはエリザベスを憎悪し、彼女を幽閉して処刑しようとしています。しかしプロテスタント派はエリザベスを支持し、メアリーが崩御するとエリザベスが26歳で女王に即位しました。織田信長より1歳年上、フェリペ2世よりは6歳年下です。

 国内外に問題が山積する中、彼女は難しい舵取りを迫られ続けました。そして彼女は44年の間英国に君臨し、黄金時代をもたらすことになります。

◆God Save◆

◆the Queen◆

【続く】

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