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【つの版】度量衡比較・貨幣110

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 英国王チャールズ1世は議会派との内戦に敗れ、1649年1月に処刑されました。英国では王政が廃止され、国王ではなく議会が主権を持つ「共和国」となったのです。しかし内外に問題は山積みのままでした。

◆変◆

◆革◆


残部議会

 英国における議会(parliament)の歴史は古く、アングロサクソン諸王国の時代の賢人会議(witanagemot)にまで遡ります。これは貴族や高位聖職者らによる集会で、王位継承に際して合意形成を行い、戦争や条約、裁判などの決定に際して国王と協議する諮問機関でした。1066年にノルマンディー公ギヨーム(ウィリアム)が英国を征服すると、国王は封建領主や聖職者ら有力者約200人による集会「大評議会(magnum concilium)」を召集し、国王の意思決定に国内の賛意を与える機関としました。

 国王が大評議会に税金徴収に関して同意を求めるようになったのは12世紀末、対フランス戦争や十字軍遠征のための軍事費が必要になってからです。この事は大評議会の勢力を強め、1215年には国王ジョンに対して「マグナ・カルタ(大憲章)」を提出し、国王が国内の教会や都市、自由人に対して権利を濫用しないよう要求するほどになります。続く英国王も議会と対立することがしばしばあり、国王が議会によって廃位されることもありました。

 また貴族や聖職者のみならず庶民(comonners、騎士や富裕市民、下級聖職者)の意見も無視できなくなり、14世紀には議会が貴族院(上院)と庶民院(下院)に分離しました。司法権は貴族院が握っていましたが、百年戦争や薔薇戦争で封建領主らが没落して中産階級が勃興すると、納税者の代弁者である庶民院の権力も強まり、ついに国王をも脅かすようになったのです。清教徒革命における「議会」とはこの庶民院のことを指し、国王処刑・王政廃止とともに貴族院は解散されて一院制になりました。

 この時の議会(庶民院)には、平等派や長老派をパージした結果60人しか議員が残っていませんでした。これをランプ(rump/余り物、残部)議会といいます。彼らはほとんどがクロムウェルと同じくジェントリ(地主)階級に属し、清教徒の中でも教会各自の自治独立を重視する「独立派」に属していましたが、ランプ議会と軍の関係は微妙なものでした。

三国統一

 チャールズ1世の嫡男であるチャールズ2世は、1646年に母ヘンリエッタ・マリアらとともにフランスへ亡命しています。1647年にチャールズ1世の娘婿ウィレム2世がオランダ総督になると、チャールズ2世らは彼を頼ってオランダへ移り、弟ジェームズらも逃げ込んで来ます。しかしオランダでは首都アムステルダムを擁するホラント州が英国内戦への介入に反対し、ウィレムとの間で対立が生じます。ウィレムは反対派を弾圧しますが出兵は叶わず、1650年に24歳の若さで病死しました。オランダはこれより1672年まで総督を置かない無総督時代に入り、英国と同じく議会が政権を掌握したのです。

 一方、スコットランド盟約派は同じ長老派を弾圧するクロムウェルら独立派に反発し、1649年6月にチャールズ2世をオランダから招いてスコットランド王に擁立します。クロムウェルは同年8月にアイルランドに侵攻し、国王派の残党やその同盟軍を撃破すると、翌年からはスコットランドへ侵攻し、大打撃を与えてチャールズ2世をフランスへ撃退しました。アイルランドではゲリラによる抵抗が続きましたが、長引く戦争と飢饉と疫病で数十万人が死亡し、1653年までに国王派の大部分は降伏しています。

英蘭戦争

 軍事力でスコットランドとアイルランドを征服したイングランド共和国でしたが、長引く戦争で国内は荒廃し、軍事費がかさんで経済的に危機的状態にありました。オランダは1647年にスペインと講和し通商停止を解除したため、内戦状態の英国を尻目に世界貿易を掌握します。スペインやポルトガルからの商品もオランダ経由で英国に押し寄せたため、英国の貿易商は商売あがったりとなります。議会は王室や国王派、教会の財産や領地を没収して貸付金の担保としますが足りず、内戦が終わったとして軍縮を要求しますが、軍とクロムウェルの反感を買います。クロムウェルもアイルランド人の領地を没収して分配し、恩賞および財政の足しにしましたがなお不足でした。

 1651年1月、オランダはイングランド共和国を公式に承認します。クロムウェルは3月にオリバー・シンジョンらをオランダへ派遣し、「オランダとイングランドの連合」を打診しました。これは単なる同盟ではなく文字通りの両国の対等合併で、カルヴァン派プロテスタント国としてカトリック諸国に対抗し、英国が南北アメリカを、オランダがアフリカとアジアを支配しようという世界征服の提案さえなされたといいます。しかしオランダにそんな野心はなく、この提案は丁重にお断りされました。

 同年10月、英国議会に「航海条例(Navigation Acts)」が提出され、可決されます。これはオランダによる自由貿易から英国の産業と利権と植民地を守るため、英国籍の船でなければ英国およびその植民地に入れないことを定めたものでした。同様の外国船規制はグリーンランド会社やレヴァント会社がすでに行っており、この条例はそれを拡大したものです。これによりオランダ船は英国貿易から締め出され、多大な利権を失ったばかりか、「国外の国王派を支援した」として英国の私掠船による襲撃の対象とされました。

 オランダは猛抗議しますが突っぱねられ、1652年には両国が戦争状態に突入します。欧州きっての海運国家同士の戦いは熾烈を極め、1653年5月にはランプ議会が軍縮を提案したため、クロムウェルにより解散に追い込まれます。クロムウェルは急進派カルトの第五王国派と手を結びベアボーンズ議会を開催しますが、派閥対立で議論が進まず、5ヶ月で解散されます。

 1653年12月、クロムウェルは側近らに作成させた成文憲法『統治章典』を発布し、これに基づいて終身の「護国卿(Lord Protector)」に就任します。この役職は幼少の王の後見人の称号として15世紀以来しばしば用いられましたが、国王不在の共和国にあっては事実上の国家元首です。議会は護国卿との共同統治者として主権を持ちますが、様々な制約が課せられて権限を弱められ、軍権を保有する護国卿がおおむね実権を握ります。議会は諸派の寄せ集めで意見が纏まる方が稀という状況ですから、少なくとも戦時中は独裁者がいないと国内外の問題に対処できません。

 この間に英国海軍は海上封鎖を行い、食糧までも海上貿易に依存するオランダを存亡の危機に追い込みます。音を上げたオランダは英国との講和交渉を開始し、1654年4月に両国は終戦しました。航海条例は廃止されず、オランダは1623年のアンボイナ事件の賠償金として30万ギルダー(8.5万ポンド=85億円)を支払い、英国海峡で英国旗に敬意を示すことを承諾しました。

王政復古

 クロムウェルは国内の反体制派を弾圧しつつ、今度はスペインとの戦争を開始します。スペインは1635年以来フランスと戦争状態にあり、ポルトガルやカタルーニャの独立で衰退しつつありましたし、アメリカやアジアからの莫大な財宝を運ぶスペイン船を襲撃すれば手っ取り早く儲かります。スウェーデン、デンマーク、ポルトガルと通商条約を結んだクロムウェルは艦隊をカリブ海に派遣し、1655年にはジャマイカ島を占領します。同年フランスと通商条約を結び、1657年には同盟に発展させ、スペイン私掠船の基地ダンケルクをフランス軍とともに占領しています。しかし翌1658年9月、クロムウェルはインフルエンザによって病死しました。

 息子リチャードは父の跡を継いで護国卿となりますが、父ほどの才能も人望もなく、1659年5月に軍により辞任に追い込まれます。しばらく軍人たちの権力争いが続いた後、1660年にジョージ・マンクが国王派や長老派と連携してロンドンを制圧し、チャールズ2世を大陸から呼び寄せて王政復古を成し遂げます。国王は「王殺し」の主犯を処刑しますが、その他には恩赦を与えて不問とし、議会や国民と和解して王政を復活させました。スペインとも停戦し、英国国教会も復活し、全ては元に戻ったかに思えましたが、オランダとの貿易摩擦は解決せず、第二次英蘭戦争が勃発します。この英国とオランダの争いは、1688年の名誉革命まで続くことになります。

◆ハレ晴れ◆

◆ユカイ◆

【続く】

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