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【つの版】度量衡比較・貨幣109

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 1642年、英国では国家の主権を巡って国王派と議会派の対立が臨界点に達し、内戦が勃発しました。世に名高い清教徒革命です。

 いわゆる清教徒革命とは、1642年から49年まで英国(イングランド)で起きた内戦を主には言いますが、スコットランドやアイルランドで同時期に起きていた騒乱・戦乱、その前後に起きていた諸問題をも含み、大きくは1639年の主教戦争から1660年の王政復古までの諸事態を言います。

◆Anarchy◆

◆in the U.K.◆


英国内戦

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:English_civil_war_map_1642_to_1645.JPG

 国王チャールズ1世はヨークからオックスフォードへ南下し、ロンドンを拠点とする議会派に戦いを挑みました。両軍の衝突は1642年7月に始まり、一進一退の攻防が続きます。この間に国王派はイングランド北部と西部を、議会派は南部と東部を掌握し、長期戦となりました。しかし国王軍は貴族や騎士を主体としており、民兵を主体とする議会軍に比べて装備・訓練・実戦経験においては遥かにまさっていたため、次第に国王軍が有利となります。

 議会派は劣勢を覆すため、スコットランドの盟約派と同盟を結び、支援を要請します。ともに英国国教会の監督制(主教制)を拒否して国王と戦っているのですから主張は一致し、1643年9月に合意が成立します。これに対して国王派はアイルランド・カトリック同盟と手を結びますが、軍事支援は得られず、資金援助もわずかしか得られませんでした。盟約派は1644年1月に議会派へ援軍を派遣し、国王派は次第に劣勢に追いやられます。

 国王はオックスフォードで議会を開催し、ロンドンの議会(長期議会)に対して「外国勢を呼び込んだのは罪であるが、こちらへ来れば恩赦を与えよう」と呼びかけ、和睦を提唱します。長期議会側でも和平派と改革派の間で分裂が生じており、和平派からオックスフォードへ奔る議員も現れますが、国王派との溝は埋まらず、この議会は3ヶ月で解散されます。また国王派も議会派も資金不足に陥り、決定的な勝利を得られませんでした。

鉄騎隊長

 こうした状況の中、議会派で頭角を現したのがオリバー・クロムウェルです。彼はヘンリー8世に仕えた政治家トマス・クロムウェルの姉妹の子孫にあたり、ジェントリ(紳士/地主)階級のピューリタン(清教徒)として議会派に属していました。内戦が始まると議会派の軍隊を率いて戦いましたが、訓練も規律も不足した民兵ばかりの議会軍は各地で打ち破られ、クロムウェルは「酒場の給仕や職人の軍隊で騎士たちと戦うのは難しい」と嘆き、「これからは信者の軍隊を作らねばならぬ」と決心します。

 彼は故郷から60人の騎兵隊を集めて議会派に参加していましたが、さらに1100-1200ポンド(1ポンド10万円相当として1億円以上)の私財を投じて手勢1000余名をかき集めます。この兵士らは出自や宗派を問われず、正直で真面目なキリスト教徒であれば誰でも採用され、平民であろうと指揮官に取り立てられました。クロムウェルは彼らを率いて各地を転戦し、信仰心と愛国心に満ちた精鋭騎兵として鍛え上げ、優れた指揮官として有名になったクロムウェルのもとには多くの兵と資金が集まっていきます。

 1644年7月、国王の甥(妹の子)であるカンバーランド公ルパートは兵を率いてヨークに入り、議会派と盟約派に迫られていた国王派を救援します。議会軍は手強いとみてヨークから離れ、ルパートらは勢いに乗じて議会軍を追撃しますが、クロムウェル率いる騎兵5000の活躍で議会軍が勝利を収め、ルパートらは辛くも脱出しました。ルパートは敵将クロムウェルを「恐れ知らずの剛の者(Old Ironsides)」と讃え、以後クロムウェル率いる騎兵隊はその名で呼ばれることになりました。日本では直訳して鉄騎隊と言います。

 この敗北によって国王軍はイングランド北部を失いますが、議会派は依然として烏合の衆でした。議会軍司令官のエセックス伯やマンチェスター伯は戦いに積極的でなく、日和見的な態度を取るようになっていました。クロムウェルは軍からの支持を背景として彼らを弾劾し、各地の軍勢を統合して再編成すべしと主張します。議会は紛糾した末に彼の主張を飲み、1645年2月にニューモデル軍条例が可決しました。

 ニューモデル軍は議会に直属する統一された国民軍で、歩兵12個連隊・騎兵11個連隊・竜騎兵(銃器で武装した騎兵)10個連隊から構成されます。歩兵の1連隊は1200人、騎兵1連隊は600人、竜騎兵1連隊は100人から成り、合計2.2万人の常備軍です。司令官にはトマス・フェアファクスが選ばれ、のちクロムウェルが副司令官兼騎兵隊長に選ばれます。装備や編成は三十年戦争で活躍したスウェーデン軍を参考にし、歩兵は長槍の他にマスケット銃を装備して一斉射撃を行うことで国王軍の騎兵にも対抗できる戦力となります。

 国王派はイングランド北部へ兵を差し向けており、フェアファクスはこれを好機として国王派の本拠地オックスフォードへニューモデル軍を率いて攻め寄せます。国王チャールズとルパートは自ら兵を率いてオックスフォードへ駆けつけ、両軍は6月に激突します。議会軍1.4万に対し国王軍は7000余しかありませんでしたが、国王は議会軍を寄せ集めと見て侮っていました。

 両軍は中央と左右両翼に分かれてぶつかり、議会軍は苦戦しますが、右翼のクロムウェルらの奮戦によって後方に控える国王本隊が撃滅され、国王軍は総崩れとなります。この大敗以後の国王軍は劣勢を挽回できず、9月にはルパートが籠もるブリストルを奪われ、1646年6月にはオックスフォードが陥落、国王はスコットランドへ亡命します。国王の身柄は翌年英国の議会派へ引き渡され、4年あまりにおよぶ内戦は終結しました。

国王処刑

 国王はロンドンのハンプトン・コート宮殿に幽閉され、英国の主権は議会の手中に収まりますが、共通の敵を失ったことで今度は内部抗争が激化します。議会穏健派の「長老派」は軍を基盤とする革新系の「独立派(会衆派)」と対立しており、軍の内部でも独立派と、下級兵士や平民からなる急進左派の「平等派」が対立していました。クロムウェルは軍事力を背景として議会を牛耳り始め、長老派や平等派を弾圧します。

 1647年11月、国王チャールズは密かにハンプトン・コート宮殿を脱出し、南のワイト島に身を潜めます。そして議会の長老派およびスコットランドの盟約派(長老派)と密かに交渉し、英国国教会に長老制度を導入すること、独立派や平等派などを異端として弾圧すること等を条件に、国王復権のために支援を行うことを要請しました。最終的にスコットランド盟約派の多くがこれを受け入れ、国王はスコットランドへ亡命します。

 英国各地では国王派が武装蜂起して議会軍を手こずらせ、スコットランドとアイルランドもこれを機会に国王について英国へ軍を派遣し、英国議会派は再び窮地に追い込まれます。しかしクロムウェルは寡兵を率いて優勢な敵軍を分断し、1648年8月にスコットランドからの侵攻軍を撃滅しました。スコットランド軍は撤退してクロムウェルと和解し、追い詰められた国王は11月に議会派へ投降しました。

 翌12月、クロムウェルは議会から長老派を追放して独立派議員による「ランプ(残部の)議会」を形成し、翌1649年1月に国王チャールズ1世を裁判の末に公開処刑しました。ついに英国では王政が廃止され、国王ではなく議会が主権を持つ「共和国(common-wealth)」となったのです。こうして英国内戦は議会派の勝利に終わりましたが、内外に問題は山積みのままでした。

 英語common-wealthは、ラテン語res publica(公共のもの)の直訳です。古代ローマは紀元前6世紀に王政を廃止し、「元老院とローマ市民」が主権者となったのち、その政体をres publicaと称しました。古代・中世にも同様の政体の国はあり、近世にはポーランドやオランダの例がありますが、英国で共和制革命が成立したのはこれが初めてです。

◆L'Anarchie◆

◆Pour Le UK◆

【続く】

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