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【つの版】度量衡比較・貨幣108

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 欧州での三十年戦争の末期、英国では国王と議会の対立が臨界点に達し、内戦が勃発しました。そして1649年には国王が処刑され、イングランド共和国が樹立されます。世に名高い清教徒革命です。

◆God Save◆

◆the King◆


王権神授

 清教徒(Puritan)とは、以前述べたようにキリスト教プロテスタント諸派のうちのカルヴァン派に属し、カトリックから分離して成立した英国国教会をさらに改革(純化/purification)しようという宗派です。フランスではユグノー、オランダではゴイセンに相当します。英国政府からはカトリックとともに過激派の反政府主義者として弾圧され、オランダや北米などへ亡命した集団もいましたし、清教徒同士でも分裂して互いに争っています。

 ただ「清教徒革命」と呼ばれる一連の内戦は、宗教的側面も大きいものの実のところは政治的紛争で、それまでの英国(イングランドおよびウェールズ・スコットランド・アイルランド同君連合)における様々な歪みが積み重なって爆発したものでした。まずはジェームズ1世の時まで遡りましょう。

 西暦1603年、英国女王エリザベスが崩御し、遠縁のスチュアート家のスコットランド王ジェームズが招かれてイングランド王位を兼ね、ジェームズ1世として即位します。イングランド王国はすでにウェールズとアイルランドを征服し、1541年からアイルランド王を兼ねていたため、彼は史上初めて三つの王国に同時に君臨する君主となりました。

 ジェームズはスコットランド王であった時から王権神授説に賛同し、国王は議会の助言や承認を必要とせず、自由に法律や勅令を制定できるとする絶対王政を支持していました。当時のスコットランドは地方貴族や聖職者の権力が強く、国王の権力は及びにくかったため、ジェームズはこれに反発して中央集権を進めようとしたのです。

 しかし理想と現実は食い違い、地盤の弱いジェームズは三国の王を兼ねても議会や貴族と対立します。また彼自身はカトリックでしたが、中央集権のため自らを首長とする国教会を強化し、清教徒やカトリックは官職から排除されました。さらに脆弱な地盤を強化すべく、ジェームズは国王大権を乱発して議会によらずに税金を徴収し、恩賜として寵臣たちにばら撒きました。

 1610年2月、大蔵卿のソールズベリー伯ロバート・セシルは「大契約(Great Contract)」という財政再建案を提出します。これは国王が古来の財政的権利を放棄し、財政収入を大幅に削減する代わりに、地租および消費税から年間20万ポンド(1ポンドを現代日本の10万円相当として200億円)の収入を確保する権利を得る、というものでした。エリザベス女王の頃の王室財政と同額で、国王にとっては十分な額です。

 議会はこれを承認しますが、国王は彼の目指す絶対王政を阻むものだと嫌がります。また議会からすれば、国王の財政基盤が安定してしまえば、逆に議会に諮問することなく強い権力を握ることになり、絶対王政化が進むのではないかということになります。また国王収入を確保するためにはどのみち増税が必要ですから、免税特権を持たない中小の地主や商人は反発します。結局この提案は破棄され、問題は先送りされてしまいました。

 ジェームズは王室財政への収入を確保するため爵位を販売しますが焼け石に水で、1614年の議会は派閥抗争に明け暮れて解散に追い込まれ、以後7年間も開催されない有様でした。1621年に7年ぶりに開かれた議会では、国王が娘婿のプファルツ選帝侯を支援するための資金を要求しますが、特別税として14.5万ポンドの徴収が認められただけで派兵は見送られます。結局英国は三十年戦争に深入りせずに済みましたが、王太子チャールズはスペインと対立してフランスと手を結び、新たな戦乱の火種を蒔いています。

権利請願

 1625年3月、英国王ジェームズ1世が崩御し、チャールズ1世が即位します。彼はフランス王女ヘンリエッタ・マリアを妃に迎えますが、彼女はカトリックを信奉して英国に馴染みませんでした。スペインとの戦争もうまくいかず、フランスは英国を見限ってスペインと講和し、英国はフランスと開戦してユグノーを支援すべく派兵しますが、これも失敗します。

 チャールズは側近のバッキンガム公を擁護しつつ、議会によらずして国王大権を乱発し、公債の購入強制や強制借用金、関税引き上げ、王領地売却などでカネを徴収して軍事費にあてます。怒った議会は1628年にエドワード・コークらを起草者とする「権利の請願(Petition of Right)」を国王に提出し、「伝統的な英国法(コモン・ロー/共通法)によれば、誰も議会の同意なしに金銭的・軍事的負担を強要されず、理由なしに逮捕・投獄されない」云々と国王の法律違反を指摘しました。

 これは王権神授説や絶対王政、専制・独裁政治に反対する思想で、「法の支配」と呼ばれます。国王といえども神と法律の下にあり、地上における絶対的な権力者ではなく、臣民の権利を一方的に侵害することはできず、議会や法律によって一定の制限を受ける存在だとしたのです。古代ギリシアやローマの時代から唱えられ、13世紀の法学者ヘンリー・ブラクトンもそう唱え、ジェームズ1世の時代にも議会やコークらにより唱えられました。現代の法治国家では当たり前ですが、絶対王政を唱える国王とその取り巻きにとっては、自らの権力の存立基盤を危うくする危険思想です。

 バッキンガム公ら国王派も「議会と和解する以外に戦争継続の道はない」と国王に訴え、やむなく国王はこれを受諾します。しかし同年8月、バッキンガム公は処遇に不満を持っていた清教徒の軍人ジョン・フェルトンにより暗殺されます。重税や敗戦の責任者として恨みを買っていた彼の死は庶民から歓迎されましたが、国王は態度を硬化させ、1629年3月に議会を解散させて以後は11年もの間議会を開催しなくなりました。

主教戦争

 以後の英国王チャールズは、議会によらず親政/独裁(personal rule/個人支配)で絶対王政を確立せんとします。すなわち臣民の意見に従わず、国王個人の意志で私有財産たる国家を経営する専制君主制の開始です。彼はまず1629年4月にフランスと和睦、翌年11月にはスペインと講和して戦争を終わらせますが、財政再建のため例によって国王大権を乱発します。

 また新たな側近としてストラフォード伯トマス・ウェントワース、カンタベリー大主教ウィリアム・ロードを取り立て、国内の宗教を英国国教会に統一するため清教徒を弾圧しました。バッキンガム公を暗殺したのも清教徒ですから大義名分はあります。しかしスコットランドやアイルランドにも英国国教会を押し付けたため、ついに反乱が勃発します。

 1638年2月、スコットランドの貴族や聖職者らは「国民盟約(National Covenant)」を組織し、スコットランド国教会式の長老制度を堅持し、英国国教会式の祈祷書と監督制(主教制)に反対する運動を開始しました。翌年には兵を集めて反乱を起こし、英国との戦争が始まります。主教制に反対する戦争であるため、世にこれを「主教戦争」と呼びます。

 国王は2万の兵をかき集めて派遣しますが、英国軍は訓練不足の徴集民兵や清教徒の兵士が多く、国王のためにスコットランド軍と戦うことを拒みました。やむなく国王は6月に和平条約を結びますが、両者の溝は埋まらず、1640年4月には11年ぶりに議会を招集して軍事費を徴集することにします。しかし議会派は国王の専制を激しく非難して課税どころではなく、3週間で解散に追い込まれます(短期議会)。国王はなんとか軍事費と3000の兵をかき集めてスコットランドへ送ったものの、状況と財政はますます悪化し、逆にイングランド側へ攻め込まれて敗北を喫する有様でした。

 1640年10月、国王は盟約軍と和平条約を締結し、イングランド北部2州の占領と、1日あたり850ポンド(8500万円)の駐留軍維持費を2ヶ月支払うことに同意します。60日とすれば850×60=5.1万ポンド(51億円)です。この敗戦で国王の権威はガタ落ちとなり、議会派が勢いを増しました。駐留軍維持費の支払いのため国王は11月に再び議会を開きますが、議会は戦争責任者のストラフォード伯とカンタベリー大主教の投獄、国王大権の制限などを要求し、財政破綻した国王はこれを飲まざるを得なくなります。

 この議会(長期議会)では絶対王政・専制政治の廃止と阻止、3年に1回は議会を招集すべきこと、議会の同意を得ない課税の禁止などが満場一致で可決され、国王派は劣勢に追いやられます。しかし議会派も一枚岩ではなく、同年末にロンドン市民から提出された「監督制の根絶請願」に対する議論により、英国国教会の体制(これまでどおりの監督制/主教制か、長老制にするか)を巡って穏健派と急進派に分裂します。

 国王はこれを好機として穏健派への取り込み工作を行いますが、1641年5月にウェントワースが処刑されると、10月には彼が総督をつとめていたアイルランドでアイルランド人による反乱が勃発します。反乱軍により駐留イングランド人が多数殺されたため、英国ではアイルランドへの派兵と反乱鎮圧が急務となりますが、今度は派遣軍の指揮権や行政権は国王にあるのか議会にあるのかが論争となり、英国は大混乱に陥りました。

 1641年11月、議会急進派は「議会が国家の主権を持ち、国王大権は議会によって制限される」云々とした「大抗議文」を提出し、159票対148票の僅差で可決されます。これにより議会は国王派(王党派)と議会派(急進派)に大きく分裂しました。さらに議会派は12月に民兵条例を審議し、軍の統帥権を国王から取り上げ、議会が掌握することを検討し始めます。

 国王派はこれを「議会による絶対主義(独裁)だ」と激しく非難し、翌1642年1月に議会派の中心人物5名の逮捕を命じます。しかしロンドン市民は議会派を支持し、5名の逮捕は失敗しました。身の危険を感じた国王はロンドンを離れてヨークに遷り、国王派を呼び集めて政権奪還を狙います。同年3月に議会は民兵条例を可決・成立させ、6月には国王へ和平案を提出しますが、国王は議会主権を認めずこれを拒絶、ついに内戦が勃発します。欧州諸国は三十年戦争により介入できず、内戦は行き着く所まで進展するのです。

◆God Save◆

◆the Queen◆

【続く】

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