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【つの版】度量衡比較・貨幣107

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 三十年戦争において、フランスはカトリック国でありながらプロテスタント勢力を支援し、反ハプスブルク同盟の盟主となりました。そしてデンマークとスウェーデンが敗れると、本腰を入れて介入を始めます。

◆欧◆

◆州◆


仏西戦争

 1635年、フランスはスウェーデンへの支援を継続しつつ、オランダと同盟してスペインに宣戦布告します。当時のスペイン王はハプスブルク家のフェリペ4世で、国政は寵臣・首席大臣のオリバーレス伯爵に委ねられていました。彼は疲弊した大スペイン王国(イベリア・イタリア・ネーデルラント・アメリカにまたがる帝国)を立て直すべく様々な国政改革を行い、地域的特権や関税の撤廃、集団安全保障、財政再建などに取り組みますが、既得権益を守ろうとする貴族たちとは対立していました。

 まずフランスが狙ったのは、スペイン領南ネーデルラント(現ベルギー)でした。神聖ローマ帝国領での戦争はスウェーデンやプロテスタント諸侯に任せ、スペイン本土との戦争も回避して勢力を広げるには、スペイン本土から離れた南ネーデルラントや、その南のブルゴーニュ自由伯領(フライ・グラーフシャフト/フランシュ・コンテ)を狙うのが一番です。特に南ネーデルラントはオランダ(北ネーデルラント)との共同作戦が可能です。

 1635年2月にオランダと南ネーデルラント分割で合意したフランスは、5月に2.7万の軍勢を派遣して侵攻を開始しました。駐留スペイン軍は激しく抵抗し、両軍に数千の死傷者が出ますが、レ・ザヴァンでの初戦はフランスが勝利をおさめます。フランス・オランダ連合軍は続いてルーヴェン市を包囲しますが、兵糧不足と疫病に悩まされて撤退しました。神聖ローマ皇帝は援軍を派遣し、勢いに乗って反撃に転じ、北フランスのフランドル地方へ逆侵攻を開始します。パリまで迫った皇帝軍に対し、フランス軍は必死で抵抗してなんとか押し戻し、戦線は膠着状態に陥りました。

 軍資金を調達して国家(王室)を防衛するため、フランス宰相リシュリューは増税を行い、塩税(ガベル)土地税(タイユ)を引き上げます(これらについては後でやります)。王侯貴族や聖職者、富裕層は免税特権を持っていますから、この負担はすべて貧しい平民に降りかかります。平民たちは各地で反乱を起こし、リシュリューは無慈悲に鎮圧させつつ、アルザスやジェノヴァなどに派兵してスペイン軍の背後を脅かそうとします。

葡牙独立

 優勢にあったスペイン側も、背後に弱みを抱えていました。対フランスの最前線であるカタルーニャでは多数のスペイン(カスティーリャ)兵が駐屯して負担をかけており、怒った農民たちが1640年5月に反乱を起こします。6月にはカタルーニャ副王が殺害されるまでになり、反乱者たちはフランスに支援を求めました。

 同年12月、ポルトガル旧王室アヴィス家の傍流であるブラガンサ家のジョアンが仲間とともにリスボンで反乱を起こし、1580年以来のハプスブルク家による支配を跳ね除け、ポルトガルの独立を宣言します。フランス、オランダ、英国もこれを承認し、スペインはついに「太陽の沈むことなき帝国」ではなくなりました。1641年1月にはカタルーニャ共和国の樹立が宣言され、フランスと連合してスペインの侵攻を撃破しています。

 しかし1642年末にリシュリューが、翌年5月にルイ13世が相次いで亡くなり、僅か4歳のルイ14世が国王に即位します。摂政となった母后アンヌ・ドートリッシュは、国政をマザラン枢機卿に委ねました。彼はイタリア出身の外様ですがリシュリューから信任されており、その政策を引き継ぎます。

 ネーデルラント方面では、アンギャン公ルイ2世が1643年5月にロクロワでスペイン軍を撃破し、名将テュレンヌ子爵らとともに神聖ローマ帝国へ侵攻します。翌年8月にはフライブルクで皇帝軍を撃破し、1645年3月にはプラハ近郊のヤンカウでスウェーデン軍が皇帝軍を打ち破り、プラハにいた皇帝はウィーンへ逃走、戦力の大半を失ったバイエルン選帝侯はフランスとの講和に追い込まれます。その後も皇帝側は抵抗を続けますが勝利を得られず、1648年10月にヴェストファーレン条約によって各国と講和しました。

勢力均衡

 これはラテン語・英語形で「ウェストファリア条約」とも呼ばれ、ドイツ西部のヴェストファーレン地方ミュンスターとオスナブリュックで締結されたことからその名があります。主にフランス&スウェーデンとの2つの講和条約からなりますが、講和会議に参加した国や諸侯はほぼ欧州全土に及び(内戦中の英国、宗教が大きく異なるロシア・オスマン帝国を除く)、その後の欧州の枠組みを決める重要な条約となりました。

 戦勝国となったフランスは、神聖ローマ帝国からアルザス地方及びロレーヌ地方のメッツ、トゥール、ヴェルダンを獲得します。ただし、これらの地域は帝国から離脱したとみなされ、フランス王が帝国諸侯として帝国会議への参加権を得ることはできません。つまりフランス王が帝国の内政に直接干渉したり、選挙で皇帝になったりする道は閉ざされました。また重税を課して戦争を続けたため国内はガタガタで、戦後も反乱が頻発しています。

 スウェーデンは賠償金500万ライヒスターラー(1ライヒスターラー≒2.5万円として1250億円)、西ポンメルン・ブレーメン・フェルデンの公位及びヴィスマール市などを獲得し、バルト海沿岸部に覇権を確立します。さらにフランスとは異なり、帝国諸侯として帝国会議への参加権も獲得します(スウェーデン王国は帝国の枠外)。ただし帝国が戦争を行う際には兵員と軍資金の供出が義務付けられました。また女王クリスティーナは宰相オクセンシェルナと対立しており、のちカトリックに改宗しています。

 スイスとオランダ(ネーデルラント)は神聖ローマ帝国からの離脱・独立を正式に承認されます。オランダは同年にスペインとも条約を締結して独立を承認され、80年の長きに渡った独立戦争に終止符が打たれました。ブランデンブルク選帝侯は東ポンメルン公位等を獲得し、従来通りプロイセン王位も兼ねた有力なプロテスタント諸侯として北ドイツを治めます。ただし長年の戦乱で国土は荒廃し、街は破壊され、人口は半減していました。

 また1555年に締結されたアウクスブルクの和議が再確認され、帝国内ではルター派やカルヴァン派などプロテスタントの存在が容認されたばかりか、議会および裁判所においてはカトリックと同じ権利を持つと規定されます。元はと言えばカトリックとプロテスタントの争いが火種なのですから、ここを抑えておかねばまた戦争です。さらに帝国内の領邦(諸侯)は独自の主権と外交権を認められ、盟主である皇帝は法律の制定・戦争・講和・同盟などについて帝国議会の承認が必要であると定められました。

 この条約は、後世に「神聖ローマ帝国の死亡診断書」と呼ばれます。帝国は皇帝が絶対君主として君臨する体制ではなく、主権と外交権を持つ領邦の連合(連邦)に過ぎなくなったのです。同時代のポーランドでも貴族議会の力が国王より遥かに強く、16世紀後半には大宰相ヤン・ザモイスキによって「国王は君臨すれども統治せず」と評されていたほどです。

 しかしハプスブルク家そのものはオーストリアを中心として広大な所領を有する大君主であり、スペインもハプスブルク家の国王のもとでフランスやポルトガルとの戦争を続行しています。一方、ヴェストファーレン条約締結の翌年には英国で国王チャールズ1世が議会派の反乱軍によって処刑され、イングランド共和国が樹立されています。世に名高い清教徒革命です。

◆Anarchy In◆

◆The UK◆

【続く】

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