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【つの版】度量衡比較・貨幣102

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 英国が北米東部にバージニア植民地を築いた頃、その北にはオランダが「ニューネーデルラント」を形成します。さらに北には英国の新たな植民地「ニューイングランド」が形成されつつありました。

◆巡◆

◆礼◆


新英蘭土

 現在のアメリカ合衆国の北東部6州(メイン、ニューハンプシャー、バーモント、マサチューセッツ、ロードアイランド、コネチカット)を「ニューイングランド」と総称します。そう名付けたのはバージニア植民地のジェームズタウン建設に携わり、1614年にこの地の沿岸を探査したジョン・スミスで、1616年に報告書をまとめて英国で出版しました。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Wpdms_king_james_grants.png

 1606年、英国王ジェームズ1世は、ロンドンとプリマスに別々に存在した二つの「バージニア会社」に勅許を与え、北は北緯45度、南は北緯38度までのアメリカ大陸における植民地建設を許可しました。ジェームズタウンはこのうち南のロンドン・バージニア会社の管轄する区域に建設されています。プリマス・バージニア会社はジェームズタウンと同じ1607年にポパム植民地(現メイン州ケネベック川河口のポパムビーチ)を建設しますが、食糧不足や先住民の抵抗などにより、僅か一年で放棄されました。

 スミスによる探査と宣伝により、この地域への入植計画が再び開始され、植民希望者が募集されます。これに応じたのがいわゆる「ピルグリム・ファーザーズ」であり、彼らを運んだのがメイフラワー号です。彼らによって建設されたのがプリマス植民地で、現在のマサチューセッツ州プリマスにあたります。彼らの実態について調べてみましょう。

分離改革

 メイフラワー号に乗船していた人々のうち、船長、航海士、操舵手、外科医、大工、樽夫、料理人、甲板長、砲手などの乗組員は30名ほどで、入植のための乗客は102名いました。乗客のうち74名が男性、28名が女性で、家族ぐるみでの乗客が多いため未成年者を含みます。また乗客のうち半数ほどは非国教徒(英国国教会に属さないプロテスタント)とその扶養家族でした。

 16世紀の宗教改革以後、様々なプロテスタントの諸派が出現しましたが、主要なものはルター派、英国国教会、そして改革派(Reformed churches)です。改革派はルターとは別にスイスのチューリヒでツヴィングリが起こした宗教改革に起源を持ち、神の言葉によって教会を「改革」すべきであるとする宗派で、ルター派とは聖餐などに関する教理が異なっていました。

 ツヴィングリが1531年に戦死した後、スイスではジュネーヴのカルヴァンがツヴィングリ派と合同し、長老派教会を興します。これがフランス、オランダ、英国、スコットランドに伝えられ、カルヴァン派のキリスト教徒はフランスではユグノー(盟友)、オランダではゴイセン(乞食)、英国ではピューリタン(清教徒)と呼ばれるようになります。彼らは宗教改革を継続して教会を純化すべしと唱え、カトリックや国教会と対立しました。

 1603年に英国女王エリザベス1世が崩御し、スコットランド王ジェームズ6世が英国王を兼ねると(ジェームズ1世)、翌年宗教会議が開かれて「カトリックとピューリタンの両極を排除する」と宣言が出されます。

 ジェームズ自身はカトリックでしたが、スコットランド国教会は改革派で、英国国教会はプロテスタントとはいえローマ教皇に従わないだけで、教会制度や教理はほぼカトリック教会を引き継いだままでした。このため国教会を国王権力の源泉として優遇しつつも諸宗派に配慮した宗教政策を行わざるを得ず、排除された宗派は国王と対立するという悪循環を招きます。翌1605年にはカトリック派による国王暗殺未遂事件も発生しました。

 また国教会の中で改革派の影響を受け、分離して新たな教会組織を作ろうとしていた諸派を「分離派」といい、国王と国教会主流派からは反政府組織として弾圧されました。その一人であった牧師ジョン・ロビンソンらは1608年頃に信徒を率いて英国からオランダへ亡命し、最初はアムステルダムに、のちライデンに住み着きます。しかし異国での慣れない生活は信徒らを困惑させ、英国も海外での反政府活動を取り締まるべく追手を派遣したため、彼らは「英国からもっと離れた場所へ移住しよう」と相談します。

巡礼始祖

 1619年6月、彼らはロンドン・バージニア会社からハドソン川河口に入植する許可を獲得します。またロンドンのマーチャント・アドベンチャラーズ(商人冒険団)社から資金援助を受け、食糧や物資代、渡航費を支払いました。翌年7月、彼らはライデンから英国サウサンプトンに移動し、入植の募集に応じた他の乗客と合流します(ロビンソンはライデンに残りました)。

 彼らに対する「巡礼者(Pilgrim)」という言葉が最初に使われたのは、1621年にプリマス植民地総督(知事)となったウィリアム・ブラッドフォード(1590-1657)の著作『プリマス・プランテーション』(1651年)においてです。彼はライデンからの出発に際して「彼らは12年間も休息の地であった快適な街を去ったが、自分たちが巡礼者であることを知っていたので、あまり気にしなかった」と記しています。これは新約聖書に基づきます。

 これらの人(昔の族長たち)はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさと(天国)であった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。

新約聖書「ヘブライ人への手紙」11:13-16

 これはライデンから出発した分離派の信徒たちを指した言葉であり、メイフラワー号の乗客全員を指してはいません。彼らは自ら「聖者(Saints)」と称し、他の乗客を「異邦人」と呼んでいます。また当初はメイフラワー号とスピードウェル号の2隻に120名の乗客が分乗する予定でしたが、出港直後にスピードウェル号に水漏れが発生して引き返し、やむなく20名弱が植民を諦め、残りはメイフラワー号に乗り込みます。

 1620年9月、遅れに遅れてデヴォン州プリマスを出港したメイフラワー号は、冬の嵐に見舞われつつ2ヶ月かけて大西洋を横断し、11月にケープコッド(鱈の岬)と呼ばれる半島に到達しました。目的地のハドソン川河口(現ニューヨーク)までは数百km離れており、冬の間に向かうのは危険と判断されたため、乗員乗客はやむなくここに上陸して入植地を作ることに決定し、船の上で誓約を結びました。これが「メイフラワー誓約」です。

 入植者たちは国王ジェームズ1世に忠誠を誓い、神のもと互いに社会契約を結び、植民地を建設して法のもとに統治するための「政治的な市民団体」すなわち植民地の自治政府を設立しました。バージニア植民地建設の時にも同様の誓約は行われていますが、今回のものは成人男性の半分近くを占める清教徒たちが非清教徒らを自治政府に取り込み、よそへ行くなど勝手な行動をしないよう、多数決で物事を決めるために制定したものです。議決には成人男性のみが票数に数えられ、女子供は含まれません。

 一行が上陸した地はケープコッドの北端で、のちにプロビンスタウンと名付けられた場所です。先住民はこれ以前にヨーロッパ人がもたらした疫病でほぼいなくなっており、集落跡と墓地が存在するばかりでしたが、戻ってきた時のためにトウモロコシが貯蔵されていました。食糧が不足していた入植者たちは探索によってこれを見つけ、墓を暴いて持ち去っています。しかしこのことが先住民の怒りを買い、入植団は先住民と敵対関係に入ります。

 やむなくメイフラワー号はその地を立ち去り、西の海(ケープコッド湾)を越えて12月末に対岸に到達し、ジョン・スミスが「ニュー・プリマス」と名付けた地に上陸しました。現在のマサチューセッツ州プリマスです。一行は船を拠点として上陸地周辺に越冬地を建設しますが、すでに真冬になっており、翌年春までに45名が飢えと寒さと壊血病のために死亡しました。プリマス上陸以前に5名が死亡し、乗組員も何人か死亡したため、入植団の人数は最初の冬の間に半減したことになります。特に成人女性は18名のうち13名がこの時死亡し、5月にはもう1名が死んで残り4名になりました。

収穫感謝

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Wohngebiet_S%C3%BCdneuengland.png

 ニュー・プリマスの周辺には、アルゴンキン諸語を話すワンパノアグ族が住んでいました。彼らは新たにやってきた連中を警戒していましたが、以前英国人に捕まって奴隷にされ、片言の英語を話せるようになっていた男たち(サモセットとスクァント)がおり、酋長マサソイトは彼らを使者・通訳として1621年3月に交渉を行います。両者は和平条約を締結し、互いに危害を及ぼさないこと、戦争が起きた時は協力すること、マサソイトの同盟者たちもプリマスと和平することなどを取り決めました。彼が40年後に死ぬまでこの同盟は続き、プリマス植民地は早期の滅亡を免れています。

 1621年秋、プリマスの入植地では先住民を招いて神に収穫を感謝する祭が開かれました。アメリカ合衆国の祝祭日である感謝祭(サンクスギビング・デー)はこれに由来しますが、南北戦争後にリンカーンが連邦の休日として定めるまでは不定期で、州によって日付が異なっていたといいます。またこれより前の1619年にバージニア州で感謝祭が開かれていたようです。

 1621年11月、37名の入植者が新たに到着し、1623年9月には96名がやってきました。その後も続々と入植団が送り込まれ、人口は1630年には300名、1643年には2000名にも増えています。1622年にはプリマスの北にメイン植民地が設立され、1628年にはマサチューセッツ湾植民地が、1629年にはニューハンプシャー植民地が、1636年にはプリマスの東にロード・アイランド植民地が設立されました。1632年にはバージニアの北にカトリックの避難地としてメリーランド植民地が設立されますが、これはニューイングランドには含まれません。ニューイングランドの植民地群は、おおむね分離派(会衆派/カルヴァン派)すなわち清教徒ピューリタンが中核となって設立されたものであり、英国王に忠誠は誓っていたものの独立主義的でした。

 プリマス植民地は1691年にマサチューセッツ湾植民地に併合され王室直轄地となりますが、清教徒が多いことは変わらず、最初の入植者の子孫も大勢住んでいました。しかし彼らを「巡礼者」と呼ぶことは18世紀末頃までほとんどなく、1820年にプリマス入植200周年を記念する演説でようやく定着し始めました。また彼らが「建国の父」とされ得るのはせいぜいニューイングランドで、入植地としての歴史なら南部のバージニアやフロリダの方が古くなります。南北戦争後にはニューイングランドを含む北部が政治的に優勢となったため、そうした建国神話が広まったのでしょう。

 1627年、ニューネーデルラントの商人ド・ラジェールがプリマス植民地を訪れ、先住民が贈答などに用いていた貝殻製装飾品「ウォンパムピーグ」を持ち込みます。入植者らはこれを用いて先住民と交易を行い、食料品や毛皮と交換しました。また不足していた金属貨幣の代わりとして植民地同士の交易でもウォンパムピーグ(略称ウォンパム)が用いられるようになり、1637年にはウォンパム6個が1ペンスと定められ、1640年には白いウォンパム4個で1ペンス、青いウォンパムは2個で1ペンスと定められました。1ポンド=240ペニー≒10万円とすると1ペンスは400円ほどですから、白いウォンパム1個は100円、青いウォンパム1個は200円ほどになります。
 しかし入植者が増えるにつれてウォンパムは不足し、生産者である先住民に代わって入植者が粗悪なウォンパムを作ったりしたため価値は下落し、1661年に取引停止となっています。

 北米大陸への入植が続いていた頃、英国と欧州本土は宗教的にも政治的にも混迷を極めていました。欧州ではいわゆる三十年戦争が始まり、英国では宗教弾圧を行う国王に対して清教徒革命が勃発します。一方でオランダは国際貿易の中心地として富み栄え、黄金時代を迎えるのです。

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◆Zero◆

【続く】

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