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【つの版】日本刀備忘録16:大湊出港

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇による建武の新政は2年で崩壊し、足利尊氏は持明院統の天皇を擁立して南北朝時代が到来しました。治承・寿永の乱は6年で終わり、奥州合戦は2ヶ月、承久の乱は1ヶ月で終わりましたが、南北朝の戦乱は60年近くも続くことになります。経緯を見ていきましょう。

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大湊出港

 復習しましょう。南朝の延元3年/北朝の建武5年(1338年)、南朝を代表する名将であった北畠顕家と新田義貞が相次いで戦死し、北朝を擁する足利側は圧倒的な優位に立ちます。同年8月、足利尊氏は北朝の光明天皇から正二位・征夷大将軍に昇叙され、名実ともに鎌倉将軍(鎌倉殿)の後継者となりました。弟の直義は左兵衛督とされ、戦は強くとも政治に興味の薄い兄に代わって実際の政務を担当します。彼ら兄弟は「両将軍」と呼ばれました。

 北条氏は源氏将軍の外戚で、執権・連署として将軍を補佐するに過ぎませんでしたが、足利氏は頼朝らと同じ河内源氏ですから、自ら将軍となる資格はあります。しかし畿内近国に南朝勢力が残存し京都を脅かしている以上、鎌倉や東国に下向はできず、北朝を担いで畿内に駐屯し続け、院や天子を庇護せねばなりません。足利氏が坂東の出自ながら京都に幕府を置いたのは、こうした成立事情によるのです。同月、北朝は建武から改元して暦応としますが、南朝は延元の元号を使用し続けました。

 吉野の後醍醐天皇は、劣勢を挽回するため各地に自らの皇子を派遣し、反足利側の勢力をその権威によって盛り返そうと図りました。北陸で新田義貞が奉じていた尊良親王は自刃し、恒良親王は幽閉されましたが、懐良親王は征西大将軍に任じられて伊予へ派遣され、まだ9歳の少年ながら西国の武家を味方につけています。とすると、次は東国と陸奥です。

 同年9月、後醍醐天皇は28歳の宗良むねよし親王を東国に、10歳の義良のりよし親王を陸奥に派遣することとし、北畠親房・顕信(顕家の父と弟)らに同行させ、伊勢国大湊おおみなとから海路で任地へ向かわせました。義良は建武元年(1334年)以来陸奥に赴任しており、親房・顕家に奉じられていましたから、元の任地に戻るだけです。顕信は兄の代わりに鎮守府将軍に任命されていますし、付き従う伊達行朝結城宗広中村経長らも陸奥や坂東の武者たちで、顕家とともに畿内まで攻め上ってきた連中の生き残りです。北条時行・新田義興らもこれに加わり、東国へ戻ろうとしたと推測されています。

 しかし途中で暴風雨に遭い、この船団は離散します。北畠親房は伊達行朝や中村経長らとともに常陸国東条浦(現茨城県稲敷市)に、新田義興は武蔵国石浜(現東京都台東区or荒川区)に、宗良親王と北条時行は遠江国西部、馬込川河口の白羽しろわ湊(現静岡県浜松市南区白羽町)に漂着しました。義良親王と北畠顕信・結城宗広は三河湾口に浮かぶ篠島しのしまに漂着した後、伊勢に戻っています。老齢の宗広は翌年伊勢で病没しました。

 なお『佐野本系図』には、時行も伊勢に戻って伊勢次郎と改名し、伊勢氏(および小田原の後北条氏)の祖になったとの説が記載されています。ただ伊勢氏はすでに鎌倉時代末期には足利氏の家臣になっており、この説の信憑性は低いようです。

 翌延元4年(1339年)8月、後醍醐天皇は吉野に戻っていた義良親王に譲位して崩御します。彼は平安時代中期の醍醐天皇・村上天皇の時代を天皇親政が行われた理想時代(延喜・天暦の治)とし、生前から自らの諡号を「後醍醐天皇」と定めていましたが、義良親王(即位後の諱は憲良)は後醍醐天皇の子として「後村上天皇」の諡号を受けることになります。また翌年には、延元から改元して興国としました。

北畠親房

 常陸国東条浦に上陸した北畠親房は、南朝方の小田治久と合流し、小田城(茨城県つくば市)を拠点として坂東の諸勢力に結集を呼びかけます。しかし北朝方の常陸守護・佐竹貞義らはこれを迎え撃ち、下野の宇都宮公綱、芳賀高貞らも北朝方に寝返ります。親房は行朝・経長らを遣わして高貞を討ち取らせ、南朝方についた者には恩賞として官位をばら撒きました。

 この頃、鎌倉には尊氏の子・義詮(9歳)がおり、尊氏の母方の従兄弟・上杉憲顕が関東執事として補佐役に当たっていましたが、幕府は憲顕を京都へ呼び戻し、高師直の従兄弟で猶子の師冬もろふゆを後任の関東執事として派遣しました。憲顕は2年後に越後国守護に任じられますが、守護代として家臣の長尾景忠を派遣し、師冬らと協力して関東・北陸の平定にあたっています。この景忠の養子の子孫が、戦国大名の長尾景虎/上杉謙信です。

 親房は吉野から派遣された興良親王(護良親王の子)を迎え入れ、常陸西部の伊佐氏、下妻氏らと手を組んで対抗しますが次第に劣勢となり、小田氏や結城氏にも見限られてしまいます。これは前関白の近衛経忠が同じ藤原氏のよしみで小田・結城・小山など坂東の藤原氏(秀郷の末裔)に働きかけ、親房を追い落として南北朝を和解させようとしたためともいいます。南朝の興国4年(1343年)、やむなく親房は常陸を離れて吉野に戻り、後村上天皇に拝謁して南朝の政務を補佐することになります。また親房は常陸で著述した『神皇正統記』を持参し、天皇に帝王学を講義しました。

宗良親王

 遠江国に漂着した宗良親王は、南朝方の武家・井伊行直のもとに身を寄せます。井伊氏は浜名湖北東の井伊谷いいのやを所領とし、源義朝に従って保元の乱に参戦したといい、鎌倉時代には遠江の有力御家人となっていました。幕府滅亡後は後醍醐天皇に従い、延元2年(1337年)には天台座主であった宗良親王(尊澄法親王)がこの地に派遣され還俗しています。同年には北朝方の遠江守護・今川範国らの襲撃を防ぎ、各地に城を築いていますから、宗良親王が遠江に上陸したのは当初からの予定だったのでしょう。

 しかし、遠江の西隣の三河国は足利氏の地盤です。幕府は高師直の弟・師泰を総大将とする大軍を遠江へ派遣し、三河に所領を持つ仁木義長らに各地の城を攻撃させます。井伊行直は奮戦しますが興国元年(1340年)に落城して降伏し、宗良親王らは北へ逃れました。井伊氏は今川氏の家臣となって存続し、徳川家康に仕えた井伊直政はその末裔です。

 諏訪大社に伝わる『守矢貞実手記』によれば同年6月、北条時行(15歳)は諏訪頼継(頼重の孫、諏訪大社上社大祝、当時12歳)とともに信濃国伊那郡大徳王寺城で挙兵しました。時行が宗良親王と同行していたとすれば、遠江から天竜川沿いに北上して伊那谷に入ったのでしょう。中先代の乱において時行は諏訪氏に担がれましたから、その縁を頼ったわけです。

 ところが、ここに北朝方の小笠原貞宗が立ちはだかります。小笠原氏は甲斐源氏の一派で、貞宗は鎌倉幕府滅亡後に信濃守護に任じられ、足利尊氏に仕えて各地を転戦した名将です。当時の貞宗の本拠地は諏訪の北西の筑摩郡井川館(松本市井川城)にありましたが、伊那谷にも古来の所領があるため渡すわけにはいきません。貞宗は諸将を率いて大徳王寺城を包囲し、激戦の末に4ヶ月ほどで落城させます。

 宗良親王らは信濃からも駆逐され、北陸の新田勢を頼ってさらに北上し、翌興国2年(1341年)には越後国寺泊(新潟県長岡市)に滞在しています。時行の行方はこれ以後10年ほど不明となりますが、信濃に潜伏していたか、宗良親王に従っていたと考えられます。

 なお小笠原氏の文書には大徳王寺城攻めの記録がないため、時行が伊那谷で挙兵したとする説は疑わしいとも言われます。ただ宗良親王が1年で遠江から越後まで移動するには信濃を通るしかありませんし、彼に時行が付き従っていたとすれば、ありえなくもない話ではあります。

 新田義貞の弟・脇屋義助らは越前から追い払われて美濃・尾張・伊勢・吉野と移動していましたが、越後には義貞の子・義宗(10歳)がおり、彼らを頼りにするつもりでした。しかし同年には上杉憲顕が越後守護に、長尾景忠が越後守護代となり、南朝方を駆逐します。宗良親王らは越後を追われて越中国放生津(富山県射水市)などへ逃れた後、興国5年(1344年)には伊那谷の豪族・香坂高宗に招かれて信濃に戻ってきます。

 香坂(高坂)氏は東信濃の名族・滋野氏の一派である根津氏(または望月氏)の傍流です。戦国時代の名将・春日虎綱はその末裔の娘を娶って家督を継承し、高坂昌信と称しました。高宗は宗良親王を居城の大河原城(下伊那郡大鹿村)に迎えて仮御所を築き、30年に渡って庇護します。このため宗良親王は「信濃宮」と呼ばれました。北条時行も彼に付き従って伊那谷に住んだものと思われます。そろそろ20歳ですから嫁を迎えたでしょうか。

 とはいえ、北朝方に対して南朝方が劣勢である状況は覆せませんでした。35歳の信濃宮はともかく、吉野の後村上天皇、河内の楠木正行、伊予の懐良親王らはまだ少年ですし、北畠親房は和平派の近衛経忠らと対立しており、一致団結して京都を攻め落とせる状態ではありません。しかし北朝・足利方も足並みが乱れており、南北朝の争いはしばらく小康状態を迎えます。

◆諏◆

◆訪◆

【続く】

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