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【つの版】日本刀備忘録17:正行挙兵

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 後醍醐天皇の崩御後も、南朝の後村上天皇は北畠親房、信濃の宗良親王、坂東・北陸の新田氏、河内の楠木党、伊予・鎮西の懐良親王らに奉じられて北朝を擁する足利尊氏への抵抗を続けます。南北朝とも足並みが乱れて一致団結はならず、しばらくは睨み合いや小競り合いが続きました。

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正行挙兵

 この頃、河内の楠木党は正成の嫡男・正行まさつらが率いています。『太平記』では延元元年/建武3年(1336年)に父が戦死した湊川の戦いの時11歳(幼名は多聞丸)としますが、別の箇所では正平2年/貞和3年(1347年)に25歳とあり、生年は定かでありません。どちらにせよ父の戦死時にはまだ幼く、弟の正時(二郎)や正儀(虎夜叉丸)はさらに幼かったため、同族の大塚惟正が南朝より和泉国守護代に任じられ、残党を率いて戦います。

 正成以前の楠木氏(楠氏)については判然としませんが、正成は公文書において自らたちばな朝臣あそんを名乗っています。橘氏は敏達天皇の五世孫・橘諸兄を祖とする皇別氏族で、奈良時代から平安時代中期にかけては外戚・公卿として栄えましたが、その後は受領級の中下級貴族となりました。また伊予の越智氏(小市国造の末裔)の傍流が橘姓を賜った伊予橘氏もあり、承平天慶の乱に際してはこの系統の橘遠保が武将として活躍しています。正成がどちらの子孫かは不明で、本貫地は駿河国にあり父か祖父は北条氏に仕える御内人であったとも、そうでないとも諸説あります。永仁3年(1295年)の東大寺への訴状には、播磨国加東郡大部荘の雑掌(代官)であった「河内楠入道」が不法行為により免職されたとあり、正成ら楠木党もこうした「悪党」のたぐいであろうと推測されています。彼らが拠点とした南河内の金剛山地は大和と河内の境をなし、東の吉野を守る要衝です。

 南朝の延元5年(1340年)、元服した楠木正行は後村上天皇より従五位下に叙せられ、父の跡を継いで左衛門少尉・河内国司・河内守護に任じられます。ただ長年の戦乱で河内は荒れ果て、南朝も楠木党も疲弊していたため、正行は無理に京都へ攻め上ろうとはせず、防衛と内政に専念しました。劣勢の南朝には厭戦気分が広まり、近衛経忠のように北朝・幕府との和平交渉のために動き出す者も出てきます。足利尊氏らが父・正成の仇とはいえ、現実的に考えれば北朝・幕府と和解して世を平和に戻すのが最善でしょう。

 ところが南朝の興国4年(1343年)、常陸から吉野へ北畠親房が舞い戻って来ます。坂東の南朝派を率いて奮闘していた親房は、経忠ら和平派に梯子を外されたため追い詰められ、吉野朝廷に怒鳴り込んで後村上天皇を焚き付け、和平派を排除し始めました。彼は従一位・准大臣に任じられて南朝の事実上の指導者となり、幕府を倒して京都を奪還する計画を練ります。

 彼が目をつけたのは、足利尊氏の弟・直義と、尊氏の執事・高師直の対立関係です。直義は兄とともに「両将軍」と呼ばれ、政治に興味が薄い兄に代わって政務を執りましたが、北条氏が遺した『御成敗式目』を『建武式目』と改めて武家の基本法と定め、鎌倉幕府のやり方で統治しようとしました。これに対し師直は後醍醐天皇らが行った「建武の新政」の良いところを活用し、恩賞給付に強制執行力を付与する強権的な手法を好みました。この対立は両者の派閥争いを招き、足利幕府は内部分裂の兆候を見せていたのです。

 南朝の正平2年/北朝の貞和3年(1347年)8月、楠木正行は和泉国の和田みきた助氏すけうじらを率いて金剛山地を南下し、紀伊国の隅田すだ城(和歌山県橋本市隅田町)を攻撃しました。ここは吉野川/紀ノ川の北岸にあり、吉野と河内を繋ぐ要衝です。熊野や伊勢の南朝派もこれに呼応して挙兵し、北朝・幕府方は動揺しました。ついで正行は北へ転じ、河内国池尻(大阪狭山市)や八尾城(八尾市)を制圧します。

幕軍反撃

 足利幕府の河内・和泉守護である細川顕氏は、正行の快進撃をくじくべく兵を集め、佐々木(六角)氏頼・光綱兄弟らとともに八尾の南の藤井寺に進軍します。ここは大和と河内を繋ぐ街道が通る要衝で、周囲には古墳が立ち並んでいます。また別働隊は北の教興寺(八尾市)に進軍しました。正行の背後を突いて崩し、本拠地の東条(富田林市東条)を制圧する計画です。当初は幕府軍が優勢でしたが、油断したところを楠木党の夜襲に遭い、光綱は戦死、顕氏・氏頼は大敗を喫して撤退に追い込まれます。正行の快勝に各地の南朝方は勇気づけられ、北朝・幕府は震撼しました。

 幕府は山名時氏・大友氏泰を増援として送り、御教書を発して南朝討伐を呼びかけます。両軍は当時北流していた大和川の諸分流を挟んで1ヶ月あまり対峙したのち、11月に上町台地の住吉・天王寺で激突しました。この戦いで幕府軍は再び大敗を喫し、細川顕氏は河内・和泉守護職を解任されます。事態を重く見た幕府は高師直を後任の河内・和泉守護に任じ、弟の師泰とともに南朝方を討伐するよう命じます。

 こう氏は天武天皇の御子・高市皇子を祖とする高階たかしな氏の一派が氏名の一部をとって称したものです。先祖の高惟頼は源義家の家人(庶子とも)で、子の惟貞は義家の子・義国とともに坂東に下り、代々義国の子孫である源姓足利氏に仕えて執事家宰、家政を宰領する側近)となりました。師直・師泰兄弟は尊氏の側近として常に付き従い、戦においては総大将となり多くの手柄を立て、絶大な権力を得ています。そのため他者からは妬まれ、特に尊氏の弟・直義とは上述のように不仲でした。

 南朝の正平2年/北朝の貞和3年(1347年)12月、師泰・師直は相次いで京都を出発し、師泰は和泉国堺浦(堺市)に、師直は山城国八幡(石清水八幡宮)に駐留して諸国の兵を呼び集めます。堺浦は9年前に師直が北畠顕家を討った地であり、石清水八幡宮は同年に師直が焼き払った地です。対する正行は師泰を弟の正儀に任せて東へ戻り、生駒山地西麓の四條畷(大東市)に布陣します。ここは東を生駒山地、西を深野池に挟まれた狭隘地で、南北に街道があり、大軍を迎え撃つことができます。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Map_of_the_Battle_of_Shij%C5%8Dnawate.png

 正平3年/貞和4年(1348年)正月、師直率いる幕府軍は石清水八幡宮から南下して野崎に布陣し、正行率いる南朝軍と激突します。この戦いに関する史料は乏しいのですが、師直は佐々木道誉を東の飯盛山に向かわせて伏兵とし、わざと退却して南朝軍を引き寄せ、道誉らに敵の背後を突かせて挟み撃ちにしたと推測されます。南朝軍は比較的兵力が少ないうえ、連戦の疲れと追撃時の気の緩みもあり、反転した師直と道誉に叩き潰されたのです。

 この敗戦で楠木正行・正時兄弟ら数十人が討ち死にないし自害し、師直はそのまま南下して吉野に向かいます。正儀は堺浦で師泰と対峙していて動けず、師直は同月末に吉野に到達、行宮あんぐう(仮の御所)と金峯山寺を焼き払いました。後村上天皇らは先に南西の賀名生あのうに逃れていて無事でしたが、正行の戦死と吉野陥落は南朝に大きな衝撃を与えます。

 二人の兄の戦死を受け、末弟の虎夜叉丸(正儀)が元服して家督を継承します。高師泰は堺浦を離れて楠木党の根拠地である東条へ進軍し、正儀らはこれを食い止めますが、この隙に師直は吉野行宮を陥落させています。しかし狭隘な山中に大軍で攻め込んだ師直軍は、ゲリラ戦に長けた楠木党の格好の的となり、猛反撃を食らって撤退に追い込まれました。これより楠木正儀は南朝軍総大将として南から京都を脅かし、40年以上も戦い続けるのです。

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【続く】

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