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【つの版】日本刀備忘録18:観応擾乱

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 正平3年/貞和4年(1348年)、足利尊氏の執事・高師直は楠木正成の子の正行・正時兄弟を敗死させ、南朝の吉野行宮を焼き払います。正行らの弟・正儀が反撃して師直らを撤退させたものの、南朝の命運は風前の灯火となりました。しかし歴史は思わぬ方向へ進み始めます。

◆逃◆

◆若◆


幕府内紛

 高師直らの活躍は、ライバルの足利直義とその一派を苛立たせました。先に河内で正行に敗れた細川顕氏・畠山国清らは直義派で、師直派から敗軍の将としてナメられ、発言力が低下します。貞和5年(1349年)閏6月、直義は側近の上杉重能、畠山宗直、禅僧の大同妙喆らの進言を容れ、兄・尊氏に師直の悪事の数々を告げて、執事職を免じるよう迫りました。

 尊氏はやむなくこれに応じ、師直を罷免して甥の師世に執事職を譲らせますが、直義はさらに光厳上皇に師直討伐の院宣を要求します。そこで師直は弟・師泰とともに挙兵して直義を襲撃し、直義たちが尊氏の邸宅に逃げ込むと、これを大軍で包囲して引き渡しを要請しました(御所巻)。困った尊氏は禅僧の夢窓疎石を仲介者として師直と交渉し、直義が出家して政権を退くこと、重能・宗直を配流することを条件に包囲を解かせます。

 しかし尊氏は政務をやる気がなく、直義に代わって師直が直接政治を取り仕切ると、残る直義派の離反を招いてよくありません。そこで鎌倉に下向していた尊氏の子・義詮(19歳)が呼び戻され、直義に代わって政務を行うとされます。とはいえ長く鎌倉にいた義詮に中央の政務を急に執ることは難しく、結局は師直の独裁めいた形にならざるを得ません。

 義詮と入れ替わりに鎌倉へ派遣されたのは、義詮の弟・基氏(9歳)でした。彼は「鎌倉殿(鎌倉公方)」として関東10カ国(関八州+伊豆・甲斐)を統治し、実務者には上杉憲顕が関東執事としてつきます。しかし憲顕は重能の兄であるため直義派とみられ、これを警戒した師直は猶子の師冬を同格の関東執事に任じて憲顕らを監視させています。同年12月、直義は義詮に邸宅を譲って出家し恵源と号しますが、同月のうちに配流先の越前国で重能・忠直が暗殺され、師直派と直義派の緊張は再び高まりました。

足利直冬

 ここに絡んでくるのが、尊氏の庶子で直義の養子であった直冬ただふゆです。彼は嘉暦2年(1327年)頃の生まれで、母の越前局の身分が低かったためか父に認知されず、相州鎌倉の東勝寺に預けられて喝食(小僧)となりました。鎌倉幕府の滅亡やその後の混乱を生き延び、貞和元年(1345年)頃に還俗して上洛しますが、尊氏とは面会を許されず、直義の養子となって偏諱を授かり直冬と名乗りました。

 貞和4年(1348年)にようやく尊氏から認知を受け、紀州の南朝勢力を討伐するため従四位下・左兵衛佐に叙任され、光厳上皇の院宣を奉じて初陣を飾ります。翌年4月には直義の勧めで長門探題に任じられ、西国の南朝勢力を討伐すべく下向しますが、その途上で京都でのクーデター騒ぎを聞きつけます。直冬は直義を助けるべく兵を率いて上洛せんとするも、播磨の赤松円心に阻止され、備後国の鞆の津に留まって機をうかがいます。尊氏は直冬の行動を謀反とみなし、9月に兵を派遣して討伐させます。直冬はかつての父と同じく瀬戸内海を西へ逃げ、九州へ向かいました。

 この頃、一色直氏九州探題の職にあり、前九州探題の父・範氏、仁木義長、少弐頼尚らと協力して、南朝の懐良親王(後醍醐天皇の皇子)を戴く肥後の菊池氏・阿蘇氏らを追い詰めていました。また日向には畠山直顕が日向守護として派遣されており、薩摩・大隅守護の島津貞久と対立しながら南朝勢力に対抗していました。みな幕府に従う御家人ですから、尊氏に討伐命令を出された直冬を匿うわけにはいきません。

 そこで直冬は豊後水道を抜けて日向灘に出、大隅・薩摩沖を大回りして、肥後国の川尻(現熊本市南区川尻)に上陸します。これは彼の部下に川尻幸俊という同地出身の者がおり、航海に協力したためといいます。懐良親王はこの頃20歳で、菊池氏・阿蘇氏に奉じられ隈府城(菊池城)にいましたが、直冬は彼らと協力し、ともに大宰府を攻略しようと持ちかけます。南朝に降伏したわけではなく北朝の元号を用いていますが、明らかな反逆行為です。

 仰天した尊氏は直冬に「出家して出頭すれば罪は許す」と勧告しますが突っぱねられ、九州探題の一色直氏らに直冬討伐を命じます。しかし幕軍は足並みが揃わず苦戦し、直冬と南朝は勢力を拡大し始めました。

観応擾乱

 翌貞和6年(1350年)2月末、北朝は「観応」と改元しますが、九州での騒動はなお収まりませんでした。同年6月、尊氏は高師泰を山陰道経由で九州へ派遣し鎮圧させようとしますが、直冬派の桃井義郷らが駆けつけて石見国三隅(現島根県浜田市三隅)で師泰を阻みます。さらに同年9月には、一色氏と対立関係にあった少弐頼尚直冬と同盟し、彼に娘を娶らせました。

 少弐氏は鎌倉時代に武藤資頼が大宰少弐(大宰府の次官)に任じられたのを始めとし、代々これを世襲して少弐氏を名乗りました。蒙古襲来に際しては多大な犠牲を払いつつ敵軍を敗走させる功績をあげ、筑前・豊前・肥前・壱岐・対馬の守護を兼ねることになります。しかし鎌倉時代後期には内紛や北条得宗家の介入で衰退し、元弘の乱では後醍醐天皇側について鎌倉幕府の鎮西探題を攻め滅ぼし、次いで尊氏に従い多々良浜で宮方と戦っています。しかし九州探題に任じられた一色範氏・直氏父子と対立し、直冬や南朝からの誘いもあって、ついに尊氏から離反したのです。

 尊氏は「自ら出陣して直冬を討つ」と宣言し、山陰・山陽の有力国人に動員令を発し、直冬もこれに対抗して山陰・山陽・四国に動員令を発します。10月28日に尊氏は京都を出発し備前へ向かいますが、直義はこの隙に京都を脱出し、大和国に入ります。11月20日には紀伊守護の畠山国清に迎えられて河内国石川城に入り、高師直・師泰兄弟の討伐を呼びかけて挙兵しました。これに呼応して伊勢・志摩守護の石塔頼房、越前守護の足利(斯波)高経、越中守護の桃井直常吉良満義満貞父子、若狭・丹後・出雲・隠岐守護の山名時氏、関東執事の上杉憲顕ら多くの有力武将が直義派につきます。尊氏に従って備前まで来ていた細川顕氏も陣を離脱して讃岐に渡りました。

 仰天した尊氏・師直らは播磨まで戻り、京都の光厳上皇に直義討伐の院宣を出させますが、直義は南朝の後村上天皇に降って対抗し、翌年正月に京都へ進軍しました。留守を預かる足利義詮は父のもとへ逃げ、尊氏軍からも離反者が相次ぎ、東西を敵に挟まれた尊氏・師直らは孤立を深めます。

 同年2月、追い詰められた尊氏・師直らは京都を目指して進軍し、直義軍と摂津国打出浜(兵庫県芦屋市)で戦い、大敗を喫します。尊氏は師直・師泰の出家を条件に直義と和議を結びますが、師直兄弟は京都への護送中に摂津国武庫川で一族ともども皆殺しにされ、直義は義詮の輔佐として政権を奪還します。直冬は一色直氏に代わって九州探題に任じられました。

 かくて高師直らは滅んだものの、様々な問題は解決していません。尊氏は直義と和解したとはいえ遺恨は残りますし、直義や直冬が北朝ではなく南朝と協力したことは、北朝並びに北朝から官位を受けている幕府や諸将の権威を失墜させ、正統性を疑わせるに充分でした。特に尊氏は師直による御所巻や打出浜での敗戦で権威はボロボロです。そこで彼は直義派に対する巻き返しをはかり、「観応の擾乱」は昏迷を深めていくことになります。

◆Columbus◆

◆Egg◆

【続く】

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