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【つの版】日本刀備忘録19:京都攻防

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 観応2年(1351年)2月、京都を占領した足利直義は兄・尊氏率いる軍勢を摂津国打上浜で打ち破り、政敵の高師直を一族ともども皆殺しにして政権を奪還します。しかし尊氏は直義に対する巻き返しをはかり、観応の擾乱は昏迷を深めていくことになります。

◆逃◆

◆若◆


正平一統

 尊氏は直義に敗れたとはいえ、あくまで「直義と師直の対立」に巻き込まれたという立場をとり、将軍職を追われることもありませんでした。直義も尊氏や義詮を排除するわけにもいきません。これを活かして、尊氏は直義派の諸将を処罰・懐柔し、自分に従う者を増やし始めます。3月末には直義派の斎藤利泰が何者かに暗殺され、5月には桃井直常が襲撃される事件も起きています。細川顕氏は尊氏に太刀で脅されて再び寝返りました。対する直義は楠木正儀とともに南朝と北朝の和議交渉を行いますが不調に終わります。

 観応2年(1351年)7月、播磨の赤松則祐が南朝に降伏し、興良親王を担いで北朝と幕府に反旗を翻します。これに応じて近江の佐々木道誉も挙兵し、京都の東西に敵が現れるという緊急事態が勃発しました。尊氏は兵を率いて近江へ、義詮は播磨へ出陣しますが、実は謀反騒ぎ自体が直義派を東西から攻撃するための策略でした。これを察知した直義は8月1日に京都を脱出し、自派の諸将を率いて北陸へ逃げ、信濃を経て鎌倉に遷ります。

 この頃、信濃でも北朝/尊氏・師直派と南朝/直義派の対立が続いていました。小笠原貞宗は貞和3年(1347年)に逝去していますが、子の政長が信濃守護職を継ぎ、南朝派の宗良親王を戴く北条時行や諏訪頼継(頼嗣)と戦っています。観応の擾乱で直義が南朝に降ると、頼継も直義派について偏諱を賜り「直頼」と改名、尊氏派と戦い続けました。関東執事の高師冬は師直の猶子であったため、直義派の上杉憲顕と対立し、甲斐に逃れたところを諏訪直頼らに攻められて自害に追い込まれています。直義は功績により直頼を信濃守護に任命しており、彼を頼って北陸から信濃に入り、上野を経て鎌倉に入ったのです。北条時行とも出会ったでしょうか。

 尊氏は佐々木道誉・赤松則祐を再び服属させて京都に戻りますが、直義派は京都を失ったものの関東・北陸・山陰・九州を抑え、南朝と呼応して尊氏を取り囲みます。そこで尊氏は道誉の進言を受け、直義・直冬追討の綸旨を得るため、南朝に和議を申し入れます。南朝が「三種の神器を渡して政権を返上せよ」と要請すると、尊氏はこれを受諾し、10月に南朝に降伏します。北朝の崇光天皇は廃位され、元号も南朝の「正平6年」に統一されました。これを「正平一統」といいます。南朝の後村上天皇は警戒して賀名生あのう行宮から動きませんでしたが、やむなく尊氏に綸旨を授けます。

 尊氏は義詮に京都の守備や南朝との交渉を任せ、11月4日には鎌倉の直義を討つべく出陣します。曲がりなりにも南朝の綸旨を賜っているからには、これに逆らえば賊軍です。仰天した直義派は12月に駿河へ出兵、尊氏派と駿河国薩埵峠さったとうげ(静岡市清水区)で激突しますが打ち破られ、直義は兄に降伏して翌年正月ともに鎌倉に入ります。同年2月末、直義は幽閉先で急逝し(毒殺とも)、観応の擾乱は一応の終結を見ることとなりました。上杉憲顕は助命されたものの信濃へ追放され、出家して道昌と号しています。

一統破談

 しかし尊氏が鎌倉にとどまっている間に、南朝の指導者・北畠親房による尊氏打倒作戦が開始されます。閏2月6日、南朝は尊氏を征夷大将軍から解任し、信濃の宗良親王を新たな征夷大将軍に任じて尊氏討伐を命じました。諏訪直頼・北条時行は親王を奉じて上野に進軍し、閏15日に新田義興・義宗・脇屋義治ら新田党も呼応して挙兵します。尊氏は鎌倉を基氏に任せて武蔵へ出陣、武蔵野を舞台として義宗と激戦を繰り広げますが、北条時行・新田義興・脇屋義治らは別働隊を率いて鎌倉を襲撃し、基氏を撃退して鎌倉を奪還します。時行にとっては3度目の鎌倉奪還となりました。

 畿内では閏19日に楠木正儀・北畠顕能・千種顕経ら南朝軍が京都に進軍、翌日には足利義詮・細川顕氏らを撃破して近江に駆逐し、ついに京都を奪還します。閏24日には北畠親房が16年ぶりに京都に帰還し、北朝の上皇3名(光厳上皇・光明上皇・崇光上皇)と皇太子の直仁親王を河内国東条(楠木正儀の本拠地)へ遷しました。後村上天皇も賀名生行宮を出発し、東条、摂津国住吉を経て山城国男山八幡(石清水八幡宮)に達します。

 しかし、尊氏と義詮の命運はまだ尽きませんでした。尊氏は閏2月28日に小手指ヶ原(埼玉県所沢市)で新田義宗らを撃破し、義宗は越後、宗良親王は信濃へ逃走します。時行・義興らは三浦高通とともに鎌倉を守っていましたが、義宗らの敗走を聞いて翌3月に鎌倉から逃げ出し、尊氏は鎌倉を奪還しました。義詮は近江の佐々木道誉、美濃の土岐頼康、播磨の赤松則祐、四国に逃げた細川顕氏に加え、直義派だった山名時氏や足利高経の助力も得て態勢を立て直し、3月15日には京都へ押し返して奪還します。

 義詮軍はさらに後村上天皇が籠る男山八幡を包囲し、3月21日から2ヶ月近く兵糧攻めを行いました。5月11日、後村上天皇は側近を伴い必死で脱出、大和国三輪・宇陀を経て賀名生に帰還します。しかし三種の神器も北朝の上皇・皇太子も奪われている以上、尊氏らは名実ともに逆賊のままです。

 6月、佐々木道誉は光厳上皇の第三皇子・三宮さんのみやを擁立し、三種の神器も上皇の詔勅もないまま8月に践祚させます(後光厳天皇)。即位の前例として群臣が擁立した継体天皇や漢の文帝の故実が引照され、石清水八幡宮に残されていた神鏡を入れる唐櫃を神器の代用としました。関白の二条良基は「天照太神を鏡に、尊氏を剣に、良基を璽(勾玉)と思し召せ」と進言したと伝えられます。北朝は一応再建され、鎌倉にとどまっていた尊氏も改めて征夷大将軍に任じられました。

京都攻防

 これに対し、南朝は大規模な反撃に出ます。南朝の正平7年/北朝の文和元年(1352年)8月15日、楠木正儀は旧直義派の吉良満貞・石塔頼房とともに河内から摂津に進軍し、北朝・幕府側の赤松光範と11月まで戦って敗走させます。幕府は佐々木道誉の息子である秀綱・高秀兄弟を摂津に派遣して南朝軍を攻撃させますが、これも翌年正月までに打ち破られて敗走します。

 正平8年/文和2年(1353年)3月、幕府は土岐頼康を摂津へ派遣し、一方で仁木義長・佐藤元清らを手薄になった河内国東条へ向かわせます。本拠地を突かれて浮足立った南朝軍は苦戦しますが、3月末までに土岐・仁木らを打ち破り、河内・摂津をほぼ制圧します。京都の庶民は南朝軍の勢いを恐れ、安全を求めて逃げ出す始末でした。これに呼応して、西国では足利直冬が周防国府に入り、山名持氏・師義父子も美作で蜂起、東国では北条時行が挙兵を図ります。しかし時行は5月に足利方に発見・捕縛され、22日に鎌倉の龍ノ口刑場で処刑されました。

 鎌倉幕府滅亡からちょうど20年後、時行の処刑をもって北条得宗家の嫡流は断絶します。1325年生まれとすると享年28歳で、子はいたと思われますが同時代史料には見えません。戦国時代に伊豆国北条で挙兵した伊勢盛時(北条早雲)の先祖とする説もありますが、付会と思われます。小田原北条氏に仕えた田中泰行板部岡江雪斎の父)、江戸時代末に熊本藩・福井藩に仕えた横井小楠(時存)は北条時行の末裔を称しました。小楠とは彼の雅号で、小楠公こと楠木正行にちなんだものです。

 京都は南朝方のフェイクニュースに惑わされ、南朝軍の動きも把握できなくなります。この間に南朝軍は摂津や和泉の北朝派を攻め、京都と奈良の連絡路を立ち、6月6日には男山八幡に入ります。山名勢も但馬で北朝派を撃破し、京都は南と北から脅かされました。義詮は後光厳天皇や公卿らを比叡山延暦寺に遷し、兵を率いて南朝軍に立ち向かいますが打ち破られ、6月9日に京都は南朝軍に制圧されます。6月13日、義詮は天皇を奉じて美濃に逃れ、小島(岐阜県揖斐川町小島)に行宮を置きました。

 しかし、南朝方の京都制圧は長くは続きません。7月12日に北朝方の赤松則祐が兵庫へ進軍し、楠木正儀は西宮(兵庫県西宮市)に布陣して防ぎましたが、24日に義詮が近江で挙兵すると、山名時氏・師義、石塔頼房、吉良満貞らは戦わずして京都から撤退してしまいます。彼らはもともと足利の家来で、南朝に対する忠誠心は高くないうえ、物流の要の琵琶湖を敵方に抑えられて兵糧不足となり、守りきれないと判断したようです。義詮らは兵を率いて京都に戻り、山名時氏は丹波を追われて但馬へ逃げ、楠木正儀はやむなく大和へ撤退しました。7月には尊氏も鎌倉から京都へ戻ります。

 尊氏は基氏を鎌倉殿(鎌倉公方)とし、畠山国清を関東執事・伊豆守護とし、武蔵の河越直重を相模守護、下野の宇都宮氏綱を上野・越後守護に任じ関東を守らせました。彼らが薩埵山(薩埵峠)の戦いで功績をあげたことから、これを歴史学上では「薩埵山体制」と呼びます。また国清らは新田党を抑えるべく基氏を奉じて鎌倉を離れ、武蔵国入間川に陣営を構えました。

直冬上洛

 翌正平9年/北朝の文和3年(1354年)4月、南朝の重臣・北畠親房は64歳で薨去しました。しかしこれで南朝の命運が尽きたわけではありません。後村上天皇と楠木正儀は西国にいた足利直冬を呼び寄せます。彼は足利高経、桃井直常、山名時氏、さらに周防の大内弘世らと合流し、同年末に上洛を開始しました。翌正平10年/北朝の文和4年(1355年)1月、足利尊氏らは後光厳天皇を奉じて近江へ避難し、南朝軍は三度京都を奪還します。

 尊氏は佐々木道誉や延暦寺の門徒らと協力して近江東坂本に布陣し、直冬は京都の東寺に本陣を置いて父と対峙します。骨肉同士の激戦は1ヶ月あまり続きますが、義詮は播磨・摂津と転戦して直冬軍の背後を撹乱し、山名時氏を撤退させます。3月、尊氏軍の総攻撃を受けた直冬は敗北を喫し、京都を離れて男山八幡に撤退、楠木正儀らも河内へ退却しました。

 ところが尊氏はこの戦で負傷し、背中に腫れ物が出来て苦しんだ後、北朝の延文3年/南朝の正平13年(1358年)4月に52歳で薨去します。28歳の義詮が征夷大将軍職を継承しますが、周囲が敵だらけの状況は変わらず、尊氏というカリスマを失ったことでさらに不利となりました。義詮はそれでも粘り強く戦い続け、結局は北朝と幕府を存続させることになります。

◆東西◆

◆南北◆

【続く】

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