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【つの版】日本刀備忘録20:貞治政変

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 足利尊氏は南朝および弟の直義、子の直冬らを敵に回し、東奔西走した末に北朝の延文3年/南朝の正平13年(1358年)4月に52歳で薨去します。28歳の義詮が征夷大将軍職を継承しますが、周囲が敵だらけの状況は変わらず、尊氏というカリスマを失ったことでさらに不利となりました。義詮はそれでも粘り強く戦い続け、結局は北朝と幕府を存続させることになります。

◆逃◆

◆若◆


足利義詮

 尊氏の嫡男・義詮は、幼名を千寿王といい、元徳2年(1330年)6月に生まれました。母は北条氏のうち得宗家に次ぐ赤橋家の登子で、同母弟に初代の鎌倉公方となった基氏(1340年生まれ、幼名は光王・亀若丸)がいます。

 父が鎌倉幕府を裏切って六波羅探題を攻め落とすと、庶長兄の竹若丸は北条氏の放った刺客に殺され、庶次兄の新熊野いまくまの(直冬)は父に認知されず出家していたため生き延びますが、登子と千寿丸は足利家家臣に連れ出されて鎌倉を脱出し、上野で挙兵した新田義貞の軍勢に加わります。幼い千寿王は父の名代として味方についた武家に軍忠書(参陣・軍功の証明書)を発付し、幕府が滅んだ後も鎌倉にとどまって父の名代をつとめ、叔父の直義、関東執事の上杉憲顕・足利(斯波)家長らに輔佐されました。

 北条時行や北畠顕家らにしばしば鎌倉を奪われたものの、千寿王は部下に支えられて逃げ延び、16年を関東で過ごします。そして観応の擾乱で直義が失脚すると、弟の基氏と入れ替わりにようやく上洛しました。しかし父は直義を討伐するため鎌倉へ下向し、京都を任された義詮は南朝の侵攻にさらされます。悪戦苦闘の末に北朝を立て直し、南朝軍を撃退した矢先、後ろ盾であった父が逝去したのです。高師直の後任として尊氏の執事をつとめていた仁木頼章(義長の兄)も同年出家し、後任として細川清氏が執事となりますがまだ若く、諸将の実質的まとめ役となったのは宿老・佐々木道誉でした。

 彼は宇多源氏佐々木氏流の京極氏の出自で、諱を高氏といい、足利尊氏より1歳年下とも9歳年上ともいいます。曽祖父の氏信は鎌倉幕府の近江守護・佐々木信綱の子で、近江の所領と京都の京極高辻の館を継いだことから京極氏を名乗りました。京極高氏は足利高氏と同じく執権・北条高時より偏諱を受けて御相伴衆として仕え、高時が正中3年(1326年)に出家すると、同じく入道して法名を道誉(導誉)としています。

 後醍醐天皇が倒幕のため挙兵すると、道誉は幕府の鎮圧軍に従軍していますが、足利高氏(尊氏)が六波羅探題を滅ぼすとこれに従い、以後は尊氏の重臣として各地を転戦します。各地の守護を歴任、観応の擾乱でもうまく立ち回り、北朝再建にも尽力した道誉は、尊氏亡き後の足利政権における最大の実力者となっていました。彼の娘は播磨・備前守護の赤松則祐、若狭守護の足利(斯波)氏頼(高経の子)、近江守護で佐々木氏宗家の六角氏頼に嫁いでおり、有力守護たちの舅として抗争を調停できる立場でした。

 尊氏の没後ほどなくして編纂された歴史書が『梅松論』です。これは両統迭立の経緯から建武4年(1337年)の金ヶ崎の戦いまでをまとめたもので、細川氏について好意的に描かれていることから、細川清氏が編纂に関わったと推測されます。

南北朝乱

 足利尊氏の訃報を受け、各地で南朝方の勢いが再び強まります。まず関東では上野の新田義興が挙兵し、越後の新田義宗・脇屋義治、出羽の北畠顕信らも呼応します。これに対して関東執事の畠山国清は、武蔵国南部の豪族・江戸氏らに偽って義興へ味方させ、10月に多摩川の矢口渡(現東京都大田区矢口、対岸は神奈川県川崎市)で出迎えさせます。そして義興が従者らとともに渡し船に乗ると、買収された船頭が船底の栓を抜いて沈没させました。対岸には江戸氏らの兵が居並んで矢を射掛け、義興らは自害(あるいは敵陣に切り込んで討ち死に)します。義興らは矢口に埋葬されますが、のち怨霊と化して祟りをなしたため、この地に新田明神社が建立されたといいます。

 翌正平14年/延文4年(1359年)8月には、九州の筑後川で南朝方と北朝・足利方の決戦が勃発します。南朝の征西大将軍・懐良親王は、菊池氏を始めとする南朝軍を率い、北朝方の少弐氏らと激戦を繰り広げ、少弐氏は敗れて大宰府に逃れました。その後も九州では南朝方が優勢となります。

 同年10月、足利義詮は関東執事・畠山国清を上洛させ、執事の細川清氏、仁木義長らとともに南朝の拠点である河内・紀伊を攻撃しました。南朝の後村上天皇は楠木氏の菩提寺である河内国観心寺に遷り、楠木正儀は抗戦しつつ秘密裏に和平交渉を行いますが不調に終わります。義詮らの大攻勢は翌正平15年/延文5年(1360年)まで続き、南朝からは離反者も相次ぎ、5月には河内の赤坂城が囲まれます。ここに南朝は風前の灯かと見えました。

 ところがこの時、畠山国清・細川清氏・土岐頼康ら諸将と仁木義長の間に諍いが生じます。義長は兄・頼章ともども専横の行いが多く、前年10月に兄が没すると後ろ盾を失い、孤立していました。義長は大義名分を得るべく義詮を拘束しようとしますが失敗し、伊勢に逃れます。義詮は諸将の諍いを抑えきれず京都へ撤退し、国清も無断で関東へ帰ってしまいました。清氏はその後も義詮の命令に逆らって独断専行し、諸将から嫌われていきます。

 翌年(南朝の正平16年/北朝の康安元年[1361年])2月、仁木義長は南朝に降伏します。8月には南朝方が少弐氏を破って大宰府を陥落させ、九州全土がほぼ南朝に従います。9月、義詮と道誉が北朝の後光厳天皇に清氏追討の宣旨を求めると、清氏は若狭へ逃れますが足利高経に攻撃され、摂津へ逃れて南朝に降伏します。関東では11月に畠山国清が失脚し、南朝方は畿内でも攻勢に出、12月には義詮を近江に駆逐してまたも京都を奪還しました。

 しかし京都は攻めやすく守りにくいため、南朝方は1ヶ月もしないうちに京都を放棄して撤退します。細川清氏は阿波・讃岐へ転戦しますが翌年戦死し、中国地方には山名時氏や足利直冬らが割拠して北朝方と争っていましたが、南北朝とも長きに渡る戦乱に疲弊し、膠着状態に陥ります。

貞治政変

 細川清氏らの失脚後、幕府で台頭したのは足利(斯波)高経でした。彼は観応の擾乱では直義に味方し、直義失脚後は尊氏につき、直冬が上洛するとこれに味方するといった調子でしたが、足利宗家に継ぐ名門にして若狭・越前の守護をつとめる実力者です。異母弟の家兼は奥州管領をつとめ、家兼が没すると嫡男の直持が奥州管領を継ぎ、次男の兼頼は出羽に赴いて羽州探題最上家の祖となっています。

 尊氏の没後、高経は佐々木道誉らとともに義詮を輔佐し、延文5年/正平16年(1360年)に一色直氏に代わって次男氏経を九州探題に任じました。長男家長は鎌倉で北畠顕家に敗れて戦死しているため、彼は事実上の嫡男です。ただ氏経は翌年九州で南朝軍に敗れ周防へ撤退し、父の怒りを買って廃嫡されました。氏経の弟・氏頼は佐々木道誉の娘婿でしたが、高経は氏頼の弟・義将を偏愛し、貞治元年(1362年)わずか13歳で細川清氏の後任の執事(のちの管領)としました。年齢からして政務は行えず、実態は高経の独裁となり、氏頼を推していた道誉は面目を失います。

 さらに高経は貞治2年(1363年)に道誉の摂津守護職を解任し、義将の弟の義種、氏経の子の義高らも幕府中枢の要職につけます。義将が13歳ですからその弟や甥はさらに幼く、還暦を迎えた高経は義詮を抑えて幕府の実権を握りました。また彼は山陰の山名氏、周防の大内氏らに所領安堵を約束して帰順させ、山名氏は一族合わせて伯耆・丹波・丹後・因幡・美作の5国の守護となります。山名・大内と協力していた足利直冬は勢力を失いますが、山名氏と所領を巡って対立していた播磨の赤松則祐はこれを不満とし、義詮・道誉らと組んで高経を失脚させるための陰謀をめぐらします。

 貞治5年(1366年)8月、大和国の興福寺の衆徒が春日大社の神木を担いで京都に現れ、朝廷に「高経の被官・朝倉高景が興福寺領の越前国川口荘へ押妨した(他人の所領へ押し入って乱暴し、不当な課税を行った)」と強訴します。義詮はこれを受けて突如軍勢を三条坊門の幕府に集結させ、「高経の陰謀が露顕した」と称しました。そして高経に対し使者を送り、「急ぎ守護国へ下向すべし。さもなくば治罰する」と命じます。

 高経はやむなく一族郎党を率いて越前へ落ち延びますが、義詮は道誉の子の高秀、赤松光範、山名氏冬、土岐頼康、畠山義深らによる大軍を編成し、越前へ派遣して高経を攻撃させます。高経は屈することなく抗戦しますが、南朝はこの頃北朝や幕府と融和的で頼りにならず、朝倉高景も高経を裏切って幕府側に従う始末でした。翌貞治6年(1367年)に高経は病没し、氏経・氏頼は遁世、義将・義種は幕府に降伏して罪を赦されますが、幕府は高経一族の守護国を没収し、幕領に組み入れます。また奉行人が派遣されて調査が行われ、高経らが押妨していた寺社や公家の所領は返還されました。

 これにより京都を脅かす北陸の不安定要素は排除され、幕府権力は安定します。北朝・南朝および興福寺など寺社権力も幕府を信頼するようになり、仁木義長らも幕府に帰参し、将軍義詮のもとに有力守護らが従う体制が確立されました。しかし同年12月、義詮が病に倒れます。

 後継者の義満はまだ10歳で、弟の基氏も同年4月に病没していたため、幕府はまたも動揺します。佐々木道誉は諸将と協議し、細川清氏の従兄弟頼之を幕府執事に擁立しました。彼は観応の擾乱では尊氏派に属し、父・頼春が観応3年(1352年)に戦死すると阿波の守護職を継承、讃岐・伊予へと領国支配を広げます。直冬が京都から撤退すると備後守護となり、備前・備中・安芸にも支配権を及ぼして「中国大将/中国管領」と呼ばれました。

 のち清氏が阿波・讃岐へ亡命すると、義詮の命令を受けてこれを討伐しています。山名・大内が幕府に帰順した際も交渉に関わっていたと推測され、中国管領の職は解かれたものの四国を平定して守護大名となっていました。年齢も40歳頃の壮年で、河内の楠木正儀ら南朝勢力との仲も悪くなく、妻の春日局が義満の乳母であった縁もあり、義詮からの遺言を受けて幕府執事に就任したのです。義満は彼の輔佐を受けて少年期を過ごすことになります。

 軍記物語『太平記』は後醍醐天皇の即位から半世紀後、足利義詮の逝去と細川頼之の幕府執事(管領)就任をもって終わっており、翌年に南朝の後村上天皇が崩御したことから「一つの時代が終わった」として編纂されたようです。これ以前に後醍醐天皇の崩御までをまとめた30余巻本(現21巻まで、原太平記)が北朝方の天台僧円観(慧鎮)により編纂され、足利直義がこれを読んだと伝えられます。のち円観の弟子の玄恵(1350年没)が後醍醐天皇即位から鎌倉幕府滅亡までの10巻を、小島法師らが後の20巻弱を付け加えたと考えられます。北朝・幕府側の編纂にも関わらず南朝に同情的で、物語として面白く武家や寺社の由来の参考になることから、後世の日本人の歴史観に多大な影響を与えました。

◆太◆

◆平◆

【続く】

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