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【つの版】日本刀備忘録21:康暦政変

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 貞治6年(1367年)12月、足利義詮が病に倒れ、嫡男の義満が10歳で征夷大将軍の位を継ぎます。佐々木道誉ら諸将は幼い将軍を輔佐する幕府執事に細川頼之を擁立しました。翌年には南朝の後村上天皇も崩御し、南北朝時代は転機を迎えることとなります。

◆花◆

◆丸◆


頼之執権

 足利義満については前にやりましたが、改めて見て行きましょう。彼は幼名を春王といい、実母は義詮の側室・きの良子よしこです。彼女は石清水八幡宮の検校(長官)の娘で、妹の仲子は北朝の天子・後光厳天皇の典侍(女官)となり親王を産んでいます。義詮の正室・渋川幸子の産んだ長男の千寿王は5歳で夭折したため、春王は幸子を准母とする嫡男として扱われ、伊勢貞継赤松則祐、斯波義将らに養育されました。貞治6年に父が没すると、義満は10歳で家督を継承し、翌応安元年(1368年)4月に幕府執事(管領)の細川頼之を烏帽子親として元服します。応安2年(1369年)末には征夷大将軍宣下を受けましたが、実権は細川頼之が掌握しました。

 応安元年6月、細川頼之は「寺社本書領事」という幕府の法令を発付し、朝廷から勅許を得ています。これは戦乱時にのみ認められていた「半済(荘園の年貢の半分をその国の守護職が軍資金として徴収する)」を全国的に恒常化させる一方、皇族・寺社・摂関家などの一円知行地(ある者が一円的に権利を持ち支配している土地)では半済を行わないと定めたものです。これにより武家と公家・寺社との徴税権を巡る争いが解決し、守護職の権益も合法的に拡大して封建領主(守護大名)化していきます(守護領国制)。

 関東では畠山国清の失脚後、信濃に隠遁していた上杉憲顕が関東執事(関東管領)に返り咲きを果たします。彼は反旗を翻した宇都宮氏綱・芳賀善可を討伐して越後・上野守護職をも剥奪し、足利基氏が薨去すると甥の信濃守護朝房に基氏の子・金王丸(1369年に元服し氏満)を擁立させ、応安元年に関東で勃発した南朝方の平一揆(国人一揆)を鎮圧させます。

 同年には出羽で大江茂信、越後で新田義宗・脇屋義治、越中で桃井直常らが挙兵したものの、いずれも鎮圧されました。憲顕はまもなく老齢のため逝去しますが、これ以後関東管領および上野・越後守護職は上杉氏が世襲することとなります。また翌年上杉朝房は関東の諸将を率いて信濃に赴き、南朝方の征夷大将軍である宗良親王を攻撃しました。諏訪直頼はすでに北朝に降っており、信濃の南朝方も風前の灯となります。

 南朝では正平23年/北朝の応安元年3月に後村上天皇が崩御し、皇太子が摂津国住吉行宮で即位しますが(長慶天皇)、対北朝和平派の楠木正儀は彼と意見が合わず、翌年2月には北朝に降伏します。長慶天皇は吉野に遷って正儀討伐を呼びかけ、細川頼之は幕府軍を派遣して正儀を救出させました。正儀はそのまま上洛して頼之・義満らに謁見し、北朝から南朝で得ていた左兵衛督の官位を安堵され、河内・和泉両国および摂津国住吉郡の守護に任じられます。楠木一族で北朝に降った者は彼と正直まさなお以外ほぼいませんでしたが、南朝は大いに動揺しました。

 残る南朝方の拠点は、懐良親王が割拠する九州です。南朝方の武者たちは海賊(倭寇)と化して高麗やチャイナの沿岸部を荒らし回っており、この頃に建国された明朝の洪武帝は懐良親王を倭寇の首領とみなして「日本国王」に冊立していました。細川頼之はこれを鎮圧すべく、応安3年(1370年)に今川了俊(貞世)を九州探題に任じて派遣します。彼は安芸・周防・長門の諸将を率いて同年末に豊前に上陸し、嫡男の貞臣を豊後へ、弟の仲秋を肥前に派遣して平定させ、南朝方が籠る大宰府へ侵攻しました。了俊は応安5年(1372年)には大宰府を奪還し、南朝方を肥後へ撤退させています。

 頼之はこれに乗じて南朝への攻勢を強め、応安6年(1373年)には従兄弟で淡路守護の細川氏春を総大将として、河内国天野山金剛寺に置かれていた南朝の行宮を攻撃させます。楠木正儀は先鋒として幕府軍を先導し、南朝方は主戦派の四条隆俊をはじめ70余名が討ち死に、長慶天皇は吉野へ遁走しました。南朝方はますます衰え、翌年には信濃から宗良親王も吉野へ遷り、和平派が主流となっていきます。しかし南朝との戦いは九州でも畿内でも長期化し、隠居していた佐々木道誉も応安6年に逝去したため、諸将は次第に頼之の命令に従わなくなっていきます。

康暦政変

 応安4年(1371年)3月、北朝の後光厳天皇は兄・崇光上皇の反対を押し切って皇子(後円融天皇)に譲位し、院政を開始します。しかし興福寺の衆徒の強訴に対処に手間取って子の即位式を挙行できず、応安7年(1374年)に疱瘡のため崩御しました。17歳の新帝は関白の二条良基と対立し、良基は後ろ盾として幕府をますます頼りにするようになります。

 永和4年(1378年)、20歳の義満は邸宅を京都三条坊門から北小路室町に遷し、幕府の政庁としました。ここは建武4年(1337年)から北朝の御所が置かれている土御門東洞院殿(現京都御所)の北西にあり、もと崇光上皇の御所があった「花亭(花の御所)」と、隣の「菊亭」の跡地を併せたもので、東西1町・南北2町あり、御所に倍する面積の壮大な規模を誇りました。同年3月に義満は右近衛大将、8月には権大納言を兼務し、従来の「鎌倉将軍」に代わり公家社会の一員として「室町殿」を家名とします。足利政権が「室町幕府」と呼ばれ得るのはこれ以後です。

 この頃、足利(斯波)高経の子・義将が台頭し始めます。貞治の変の時は10代の少年でしたが、応安元年に越中守護に任じられて桃井直常の乱に対処し、これを鎮圧したことで諸侯の間で名声を高めました。また義満の准母・渋川幸子は、甥の義行が九州探題を更迭されたこともあって細川頼之と対立しており、義将を反頼之派の旗頭に担ぎ始めました。所領を巡る争いもあって土岐氏、佐々木氏、山名氏らも義将を支持し、頼之は孤立していきます。

 同年11月に南朝方の橋本正督が紀伊国で乱を起こすと、頼之は弟で摂津守護の頼元らを鎮圧のため派遣します。頼元は勝利しますが深追いはせず、12月に京都へ戻りました。義満はこれを不満として頼元を解任し、山名義理を紀伊守護、山名氏清を和泉守護に任じて紀伊へ向かわせ、足利義将・土岐頼康らを大和へ派遣しました。一時は義満自身も出陣しています。

 しかし翌永和5年/康暦元年(1379年)2月、佐々木道誉の子・京極高秀が近江で挙兵します。彼は佐々木氏宗家の六角氏の跡目争いを巡って2年前に近江守護職を解任されており、それを恨んで細川頼之の解任を要求したのです。驚いた義満は六角氏に高秀追討を命じますが、翌3月には鎌倉公方の足利氏満がこれに呼応して挙兵せんとし、関東管領の上杉憲春が自決して諌めるという事件が起きています。さらに義将らは兵を返して上洛し、高秀らと結託して義満の室町御所を包囲(御所巻)、頼之の解任を要求しました。

 進退窮まった義満・頼之は要求に応じ、罷免された頼之は出家して讃岐へ退去します。後任の幕府執事(管領)には13年ぶりに義将が就任し、政権を奪還しました。義将は畠山基国に越中守護職を譲って越前守護に返り咲き、今川了俊の守護職のうち備後・豊前・肥後・日向を削って他者に与え、渋川義行の子・満頼を摂津守護、土岐頼康を伊勢守護に任じるなど露骨な派閥人事を行いました。また細川頼之と対立していた南朝方の河野通堯を伊予守護に任じて北朝に寝返らせ、頼之討伐を命じますが失敗します。

六分一殿

 京極高秀は謀反の主犯として全ての守護職を取り上げられて失脚し(2年後に飛騨のみ返還)、彼が有していた出雲・隠岐の守護職は丹後守護である山名義幸(時氏の孫で師義の子)に与えられました。康暦の政変の後、山名一族は日本全国60余州のうち6分の1にあたる11カ国の守護職を兼ね、「六分一殿」「六分一衆」と呼ばれるほどの大勢力となります。

 ここで山名氏について振り返りましょう。彼らは清和源氏のうち新田氏の庶流で、新田義重の庶子・義範が上野国八幡荘のうち多胡郡山名郷(現群馬県高崎市山名町)を授かり山名氏を称しました。義重は頼朝挙兵に呼応しませんでしたが、義範は早くから源頼朝に従い、足利氏ともども御門葉として優遇されます。鎌倉時代末期の当主・政氏は足利氏と同じく上杉氏の妻を娶って時氏を儲け、足利尊氏に従って南北朝の戦乱を駆け抜けました。

 時氏は建武4年(1337年)に伯耆守護となり、名和氏・塩谷氏・楠木氏ら南朝方と戦って勢力を広げ、丹後・出雲・隠岐など山陰諸国の守護職を兼任します。のち佐々木道誉と若狭の所領を巡って対立し、足利直冬を奉じて南朝方につきますが、10年後に北朝に帰参し、時氏は伯耆・丹波、嫡男の師義は丹後、三男氏冬は因幡、五男時義は美作守護に任じられます。また若狭の大部分も山名氏の所領とされ、6カ国を支配下に置きました。ただ時氏の息子は11人もいたため所領争いが起き、貞治5年(1366年)に時義は次兄義理へ美作守護職を譲っています。また応安3年(1370年)には氏冬が没し、弟の氏重が因幡守護職を引き継いでいます。

 応安4年(1371年)に時氏が没すると師義が家督と伯耆・丹波守護職を継ぎ、父の遺産を兄弟と分け合います。しかし彼は永和2年(1736年)に逝去し、子の義幸は病弱だったため家督は継げず、叔父の時義が後を継ぎます。これは他の兄弟や師義の子らの恨みを買い、内紛の火種となりました。

五畿七道

 そして康暦の政変の結果、義幸は丹後・出雲・隠岐、義理は紀伊、氏清は丹波・和泉、時義は美作・但馬・伯耆・備後の守護となり、合計10カ国となります。のち氏清が山城の守護を兼ねたため11カ国で、師義の三男の満幸が播磨守護となったため12カ国ともいいます。義幸が永徳元年(1381年)に病気のため隠居すると、満幸は彼の守護国を受け継ぎ、叔父の時義らと家督を巡って対立することになります。「六分一衆」と呼ばれた大勢力も、内部では互いに争い合っていたのです。足利義満はこの対立を利用して、山名氏を切り崩していくことになります。

◆SIX SAME◆

◆FACES◆

【続く】

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