見出し画像

【つの版】日本刀備忘録22:明徳和約

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 北朝の康暦元年(1379年)、幕府執事/管領の細川頼之に対して幕府諸将は連合して反旗を翻し、室町御所を包囲して将軍足利義満に頼之の罷免と追放を要求しました。義満はやむなくこれを承諾し、足利(斯波)義将が管領に返り咲き、各地の守護職は義将派によって再編されます。

◆南◆

◆北◆


足利左府

 康暦の政変の時、義満はまだ20歳過ぎの若造でした。義将も29歳ほどの若者ですが、還暦を過ぎた宿老・土岐頼康がバックにおり、権威はともかく諸将をまとめるカリスマには不足していました。尊氏・義詮の嫡男といえど、戦場での功績もない若造では武家にはナメられます。そこで義満は自らの権威と権力を高めるため、朝廷の権威を利用しました。

 朝廷において義満の協力者となったのが、摂関家の二条良基です。彼は北朝の摂政・関白・太閤(前関白)・藤氏長者・准三后、さらに関白の父として朝廷を統括しており、義満に公家の礼儀作法を授けて味方につけていました。永和4年(1378年)に権大納言・右近衛大将を兼ね従二位に昇叙され、翌年正月に右馬寮御監を兼務していた義満は、康暦2年(1380年)正月には従一位に昇叙し、翌永徳元年(1381年)には良基が太政大臣になったのにあわせて内大臣となります。

 永徳2年(1382年)義満は左大臣に昇進、蔵人別当(殿上人を束ねる名誉職)を兼務します。武家で太政大臣に昇った平清盛はさておき、清和源氏の鎌倉将軍でも実朝の右大臣が極位で、摂関家でもない義満がその上位の左大臣となるのは異例のことでした。さらに老齢でもないのに牛車に乗ったまま宮門を通過できるとする「牛車宣旨」を許されます。

源氏長者

 同年、後円融天皇は皇太子の幹仁親王(後小松天皇)に譲位して上皇となり、治天の君として実権を握ろうとします。良基は後小松天皇の摂政、義満は左大臣のまま院の執事別当、義満の妻・業子の兄である日野資康は院の執権として院政を支えますが、院近臣が集まらず機能しませんでした。

 腹を立てた後円融院は後小松天皇の即位式など諸行事をボイコットし、翌永徳3年(1383年)2月には、後小松天皇の生母たる妻の三条厳子を刀の峰で殴打し重傷を負わせる乱心事件を起こします。彼は後鳥羽院のように義満に配流されると思い込み「切腹する」と言い出しますが、必死に宥められて正気に戻り、義満に良基と同じく准三后の待遇を与えています。

 准三后(准三宮、准后)とは太皇太后・皇太后・皇后の三后(三宮)に准する待遇をいい、摂関家や外戚、天皇の准母や皇族に授けられました。平氏政権では平盛子・時子・清盛が、南朝では北畠親房が授かっています。後円融院の生母・広橋仲子は義満の母方の叔母ですから姻戚関係はありますが、外戚や皇族でもないのに准三后を授かるのは異例のことでした。

 またこれに先立つ永徳3年正月、義満は清和源氏では初めて「源氏長者」とされ、これに付随する名誉職である淳和院・奨学院の別当を兼務します。藤氏長者が全ての藤原氏の氏長者であるように、源氏長者は全ての源氏に対する宗主権を持ち、祭祀・召集・裁判・氏爵推挙などの権限を有します。平安時代には嵯峨源氏・宇多源氏、ついで村上源氏から出るようになり、南朝では北畠家、北朝では久我家が世襲していました。義満は久我家から源氏長者の位を譲られ、武家のみならず公家の源氏に対しても宗主となります。

 これと並行して、義満は将軍直属の武官である御馬廻衆(奉公衆)、文官である奉行衆を組織し、幕府内部における権力基盤を調えます。永徳2年には室町御所の東隣に臨済宗の寺院・相国寺を開基し、自らの禅の師匠である春屋妙葩を住持としました。至徳2年(1385年)には東大寺・興福寺など南都の寺院を参詣して歓迎を受け、寺社勢力からも支持を集めています。

平尾合戦

 一方、北朝に帰参して河内守護をつとめていた楠木正儀は、盟友・細川頼之の失脚で立場が悪化し、永徳2年/南朝の弘和2年(1382年)閏1月に南朝へ帰参しました。幕府はただちに畠山基国を河内守護とし、和泉守護の山名氏清らとともに正儀を討伐させます。正儀は野戦に敗れたものの河内山中の要害に立て籠もり、抵抗を継続しました。これにより南朝では正儀派が勢力を盛り返しますが、彼は最終的には北朝・幕府との和睦を望んでいました。

 翌弘和3年(1383年)末、南朝の長慶天皇は弟(後亀山天皇)に譲位しました。この頃、九州では懐良親王が薨去したとみられ、後村上天皇の皇子とされる良成親王が征西大将軍を継いで抵抗を続けていましたが、今川了俊率いる幕府軍に圧倒され、肥後国南部へ追い詰められていました。薩摩の島津氏らが帰順したものの劣勢は挽回できず、南朝は風前の灯となります。

 南朝の元中5年/北朝の嘉慶2年(1388年)6月、二条良基が69歳で薨去しました。同年8月、義満は南朝への示威行動も兼ねて京都から紀伊に向かい、和歌浦玉津島神社へ参詣し、海に面した絶景を遊覧します。楠木正儀の嫡男・正勝は逆賊義満を討ち取る絶好の機会として奇襲を企て、吉野の南朝より軍勢を授かりますが、間者によってこれを察知した山名氏清に河内国平尾(大阪府堺市平尾)で待ち伏せを受けます。正勝は4倍の敵を相手に奮戦したものの、数で圧倒されて散々に打ち破られ撤退しました。楠木正儀はこの頃に没したか隠居したらしく、以後の史料に現れなくなります。

 義満は9月には駿河国へ赴いて富士山を遊覧し、視察を兼ねた示威行動を行います。翌康応元年(1389年)には安芸国の厳島神社を参詣しました。またこの時、細川頼之の弟で摂津守護の頼元が讃岐の国人らの船舶の提供を手配しています。義満は細川派と義将派の対立を利用して幕府内のパワーバランスを調整しつつ、自らの権力基盤を強化していったのです。

美濃之乱

 嘉慶元年末(1388年)、美濃・尾張・伊勢守護の土岐頼康が70歳で逝去し、甥で養子の康行が家督を相続します。しかし義満は土岐氏の勢力を削ぐため、翌年に康行の弟で侍所頭人の満貞を尾張守護に任じます。嘉慶3年改め康応元年(1389年)4月、満貞は京都から尾張へ下向しますが、尾張守護代の土岐詮直は満貞の入国を拒み、黒田宿(現愛知県一宮市木曽川町黒田)で迎撃、撃退します。義満は康行・詮直らの謀反と断定し、頼康の弟・頼忠および飛騨守護の佐々木高秀らに彼らの討伐を命じました。

 翌康応2年改め明徳元年(1390年)閏3月、追い詰められた康行は美濃国池田郡の小島城(現岐阜県揖斐郡揖斐川町春日六合)で挙兵し、籠城しますが打ち破られて降伏します。義満は戦後処理を行い、康行から美濃・伊勢の守護職を没収し、土岐頼忠を美濃守護に、仁木満長(義長の子)を伊勢守護に任じます。かくて東の土岐氏を弱体化させた義満は、次の分断工作の標的を西の山名氏に定めます。

明徳之乱

 康応元年(1389年)5月、山名時義が44歳で病没し、長男の時熙が山名氏の惣領と但馬、甥(時義の長兄・師義の子)で養子の氏之が伯耆、甥(師義の子)の義熙が備後の守護職を相続します。しかし翌明徳元年(1390年)3月、義満は「時義は生前不遜であり、その子らにも不遜な態度が目立つ」とし、時義の兄の氏清(和泉・丹波守護)、その甥(師義の子)で娘婿にあたる満幸(出雲・隠岐・丹後守護)に時熙と氏之の討伐を命じます。

 時熙と氏之は抵抗しますが敗れ、翌明徳2年(1391年)備後へ逃亡し、氏清は但馬・山城、満幸は伯耆の守護職を加えられました。これで氏清と満幸は各々4カ国の守護を兼ね、義熙が備後、義理(時義の兄)が美作・紀伊、氏家(時義の兄・氏冬の子)が因幡の守護であることから、山名氏の中では最大級の勢力となります。

 ところが同年3月、山名氏の後ろ盾である幕府管領の足利(斯波)義将が土岐氏の処分等に関連して義満と対立し、管領を辞任して越前へ下向してしまいます。義満は細川頼元を管領に任じ、その兄・頼之を山名義熙に代わって備後守護とします。また秋には時熙と氏之が密かに京都に入り、義満に赦免を嘆願しました。義満はこれを噂として流し、氏清らを不安がらせます。 

 同年11月、義満は「出雲にある上皇の荘園を押領した」として満幸を出雲守護職から解任し、時熙と氏之を赦免しました。あまりにメンツを潰された満幸は激怒し、泉州堺にいた氏清を説いて反乱を呼びかけます。氏清はこれに同意し、満幸を丹波に派遣して兵を集めさせ、反乱の大義名分を得るために南朝に降伏して錦旗を授かりました。明徳の乱の始まりです。

 12月、山名氏清・満幸ら謀反の報が幕府に届くと、義満は諸将を集めて軍評定を開き、和解論を退けて決戦を宣言します。とはいえ山名軍は強大で、丹波と和泉の両方から攻め寄せて来るのですし、京都は盆地にあるため防衛に向かないのは、これまで何度も行われた合戦が証明しています。それでも義満はあえて京都での決戦を選び、平安京の大内裏跡地である「内野うちの」に主力の5000騎を待機させます。義満自身はその東の堀川にある一色邸に入り、馬廻5000騎を率いて待機しました。南と西から攻め込んでくる山名軍に対し、京都御所と室町御所を防衛する構えとなります。

 平安京の中央北端に置かれ、皇居と朝廷が置かれた大内裏は、平安時代から鎌倉時代にかけて火災や戦乱に見舞われ、安貞元年(1227年)に全焼したのを最後に再建が放棄されました。以後天皇は平安京内の各地を里内裏として転々とし、元弘元年(1331年)に光厳天皇が鎌倉幕府に擁立されて以来、現在の京都御所である土御門東洞院殿に遷っています。大内裏跡地である「内野」は鎌倉時代には武士たちの馬場として利用され、足利高氏が六波羅探題を攻めた時には六波羅側の陣地ともされました。

明徳の乱

 明徳2年12月末(1392年1月)、山名氏清率いる3000騎が堺から河内を経て京都に至り、山名満幸率いる2000騎は丹波から京都へ入りました。幕府軍はまず内野で満幸を迎え撃ち、馬廻衆を投入して撃退すると、返す刀で南から迫る氏清軍に攻めかかり、氏清を討ち取ります。僅か1日で勝敗は決し、満幸は丹波へ敗走しました。

 翌明徳3年正月に論功行賞が行われ、山名氏のうち時熙は但馬、氏之は伯耆の守護職に復帰し、氏家は降伏して因幡守護職を安堵されます。義理は呼応しなかったものの守護職を没収され、美作は赤松義則、紀伊は和泉とともに大内義弘に与えられます。残る氏清の守護領国のうち山城は畠山基国、丹波は細川頼元に与えられ、満幸の守護領国のうち出雲・隠岐は京極高詮(高秀の子)に、丹後は一色満範に、若狭国の大部分を占める今富名は若狭守護の一色範詮(満範の父)に分け与えられました。「六分一殿」と呼ばれた山名氏の勢力は大きく削減され、義満の権力と権威は大いに上がります。

明徳和約

 対して南朝の劣勢は決定的となり、同年2月には山名義理が大内義弘に敗れて紀伊を奪われ、春には畠山基国の侵攻で楠木正勝が敗れ、河内千早城が落城します。細川頼之は同年3月に逝去しますが、義満は大内義弘を介して南朝と本格的な講和交渉を開始し、閏10月に和約が成立しました。

 南朝の後亀山天皇は吉野を去って京都に入り、三種の神器を北朝の後小松天皇に引き渡します。ただ大覚寺統(南朝)と持明院統(北朝)は存続し、前例に従って皇位は両統迭立とすること、皇族の所領のうち国衙領を大覚寺統、長講堂領を持明院統が相続することが条件とされました。要は後醍醐天皇が起こした元弘の乱以前に戻ったわけですが、ここに半世紀以上に及んだ南北朝の並立は一応解消し、南北朝時代は終結します。足利義満は名実ともに天下人となり、これより歴史上は「室町時代」と称されます。

◆後小◆

◆松◆

【続く】

つのにサポートすると、あなたには非常な幸福が舞い込みます。数種類のリアクションコメントも表示されます。