【つの版】日本刀備忘録41:足利義持
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
室町時代の最盛期を築いた足利義満の没後、天下は再び乱れ始めます。各地の守護大名や鎌倉公方は求心力を失った室町幕府に従わなくなり始め、ついには応仁・文明の乱を経て戦国時代へ突入することになるのです。
◆京都◆
◆動乱◆
足利義持
足利義満の子・義持は、応永元年(1394年)末に9歳で征夷大将軍の職を父から譲られましたが、義満は応永15年(1408年)に没するまで実権を握り続けました。また義持の異母弟・義嗣を14歳で参議(公卿)とし、武家を義持、公家を義嗣に統轄させる腹づもりであったようですが、その直後に義満が倒れたため、義持は宿老の斯波(足利)義将を後ろ盾として家督を相続、ようやく実権を掌握します。彼は父のいた北山山荘を取り壊し、室町御所にも戻らず、直義・義詮らのいた三条坊門殿に遷りました。
2年後に義将が没すると義持は彼の一族を退けて畠山満家(2年後に細川清元に代わる)を管領とし、近習の富樫満成、正室・日野栄子の兄の重光、その子の義資らを側近として、自らの派閥で政権を固めました。翌年には明国の使者を追い返して国交を断絶し、日明貿易は中断します。これは外国の天子から日本国王に冊立されることで日本の神々が怒るのではないかという「神国思想」によるものといいます。また義持は支持基盤を固めるため積極的に寺社領などの所領安堵を行い、没収された所領(闕所)についても給与を支払う施策をとりました。
しかし応永17年(1410年)11月、南朝最後の天子であった後亀山法皇(後村上天皇の子で後醍醐天皇の孫、出家して金剛心)が隠遁地の嵯峨から突然吉野へ出奔します。彼は明徳の和約時に義満より太上天皇の尊号を奉られ、北朝(持明院統)の後小松天皇の後は南朝(大覚寺統)より天子を立てるという「両統迭立」の再開を条件に吉野を降りて講和していました。しかし幕府も朝廷もこれを無視し、後小松天皇の子・躬仁の即位を目論んだため、それに反抗してのことであったといいます。
とはいえ南朝側にもはや権威も勢力もなく、躬仁は翌年に親王宣下を受けて義持の手で元服し、応永19年(1412年)8月には後小松天皇より譲位されて12歳で即位しました(称光天皇)。後小松天皇の父・後円融天皇は義満の母方(藤原北家日野流)の従兄弟にあたり、称光天皇の母・日野西資子は義満の御台所(正室)の兄・資国の娘にあたります。後小松天皇は太上天皇として院政を開始し、義持は院執事に就任しました。翌年には義満と同じく奨学院・淳和院両院別当となり、源氏長者の宣下も受けています。
応永18年(1411年)、飛騨国司の姉小路(古川)尹綱が所領争いの末に挙兵しますが、同国守護の佐々木高光に押し潰されます。続いて応永21年(1414年)には伊勢国司の北畠満雅(親房の3男・顕能の孫)が両統迭立の再開を求めて挙兵し、河内では楠木氏が挙兵して京都を南から脅かします。事態を重く見た義持は、翌年美濃守護の土岐持益を総大将として伊勢に派遣しますが攻め落とせず、後亀山法皇の仲裁で和睦します。後亀山法皇は翌年京都大覚寺に帰還し、南朝の再興は6年で潰えました。
斯波義将の甥・満種は父・義種の跡を継いで加賀守護職となっていましたが、応永21年6月に義持の不興を買って守護職を召し上げられ、高野山に隠退しました。後任の加賀守護には義持の側近・富樫満成が任じられ、以後この地位を160年にわたり富樫氏が世襲します。同年11月には管領・細川満元の同族の細川宮内少輔が東大寺の所領を横領した廉で自害させられます。義満時代の威光もあり、義持政権は比較的安定するかに見えました。
上杉禅秀
この頃、関東には征夷大将軍の代理人として鎌倉公方(当時は鎌倉殿・鎌倉御所)が置かれ、関東十カ国(関八州+伊豆・甲斐)および奥羽を管轄していました。鎌倉公方は足利尊氏の4男・基氏の子孫が世襲し、基氏の子・氏満は応永5年(1398年)まで31年間、氏満の嫡男・満兼は応永16年(1409年)まで11年間在位しました。しかし満兼は伊達政宗ら奥羽の諸将に反乱され(伊達政宗の乱)、名目上は降伏させたものの、鎌倉公方の支配権を奥羽に及ぼすことはできなくなっていました。これは義満が奥羽勢力と結託し、鎌倉公方が京都・西国を脅かすことのないよう牽制したためです。
この鎌倉公方を輔佐・監視するため幕府により設置された役職を関東管領といい、義満の頃には尊氏の母方の実家である上杉氏が世襲し、上総・武蔵の守護職を兼ねていました。上杉氏も複数の分家に分かれて勢力を争っていましたが、満兼が応永16年に没し、子の持氏が10歳で鎌倉公方を継ぐと、応永18年に犬懸上杉家の氏憲(のち出家して禅秀)が関東管領に就任します。しかし持氏は鎌倉府の実権を握ろうとする氏憲を疎んじ、応永22年(1415年)に彼を辞任させ、山内上杉家の憲基を関東管領としました。
氏憲/禅秀はこれを不服とし、持氏の叔父の満隆、その養子で持氏の弟の持仲、自らの娘婿とした岩松・那須・千葉・長尾・大掾・山入流佐竹・小田・武田・結城・蘆名ら関東各地の有力武将を味方につけ、翌応永23年(1416年)10月に反乱を起こします。禅秀らの反乱軍はたちまち鎌倉を制圧しますが、持氏は駿河へ、憲基は越後へ逃れ、義持に救援を求めます。
義持はこれを承諾し、持氏を庇護した駿河守護の今川憲政(義元の高祖父)、憲基を庇護した越後守護の上杉房方、信濃守護の小笠原政康(貞宗の曾孫)、憲基の弟で常陸守護の佐竹義人(佐竹氏の養嗣子)、常陸介で下野国の宇都宮持綱らを討伐に向かわせました。武蔵では江戸氏・豊島氏らがこれに呼応し、応永24年(1417年)正月に乱は鎮圧されます。上杉禅秀・足利満隆・持仲らは鎌倉で自害し、武田信満は甲斐で自害、岩松満純は捕縛・斬首され、禅秀派の武将らは勢力を失いました。持氏は鎌倉に戻ったものの、義持は宇都宮持綱を上総守護に任じるなどして持氏を牽制しています。
なお禅秀らの反乱の報が京都に伝わった頃、義持の異母弟・義嗣が突然出奔し出家しています。彼は異母兄の義持に警戒されながらも昇進を重ね、この時には23歳にして正二位・権大納言・院司の地位にありました。しかし義嗣の妾に禅秀の娘がいたため疑われ、焦って出家したようです。義持は許さず彼を捕縛・幽閉させ、関係を取り調べられた後、応永25年(1418年)富樫満成により殺害されます(自害とも)。
さらに満成は管領の細川満元、前管領の畠山満家と弟の満慶、斯波義重、赤松義則、山名時熙、土岐安政ら有力武将が義嗣と共謀していたと義持に訴えたため幕府内部は騒然としますが、逆に義嗣の妾から「満成が義嗣に謀反を唆したのだ」と密告され、応永26年(1419年)2月に畠山満家の手勢により誅殺されます。満成を犠牲にして諸将の謀反を防いだのでしょう。
応永外寇
その応永26年6月、朝鮮王国の軍が対馬へ攻め寄せるという大事件が勃発します(応永の外寇、朝鮮側では己亥東征)。これは対馬・壱岐を拠点として朝鮮半島沿岸を荒らし回っていた倭寇を討伐するためでした。
倭寇の猖獗は南北朝時代に始まり、コリアやチャイナは長年多大な害を受けてきました。足利義満が日本国王に冊立されていた頃は日明貿易が公式に認められ、倭寇も日本側で取り締まられていたのですが、義持は冊立を拒んで明朝との国交を断絶したため、密貿易者=倭寇が再び暴れ始めます。同年5月には朝鮮西部の忠清道舒川郡、黄海道海州郡が倭寇に襲撃され、放火・殺害・掠奪を恣にしており、怒った朝鮮は報復と捕虜奪還のためという大義名分をたて、対馬へ軍を派遣したのです。なおこの時の倭寇はそのまま北上して遼東半島に入り、明朝の軍隊により潰滅しました。
しかし対馬・壱岐は朝鮮ではなく日本の領土ですから、海賊討伐のためとはいえ許可なく軍隊を派遣すれば日本との戦争になります。九州探題の渋川義俊、対馬地頭代の宗貞盛(幼名は都都熊丸)は5月に朝鮮からの書簡を受け取りましたが、対馬の実権は倭寇の首魁・早田左衛門太郎が握っており、この書簡を黙殺しました。また渋川義俊は父・満頼以来北部九州の覇権を巡って少弐満貞と対立しており、対馬宗氏は少弐氏の家来であるため、一致団結して外寇に当たることは難しい状況でした。
応永26年/永楽17年己亥6月、朝鮮軍1万7285人は軍船227隻に分乗し(1隻平均76人)、李従茂を総大将として巨済島を出発し、対馬中部の尾崎浦に攻め寄せます。上陸した朝鮮軍は再び文書を宗貞盛に送りますが返事がなく、島の各地に分け入り、村々に放火して船を奪い人民を殺戮・捕獲します。また捕虜となっていた朝鮮や明国の男女を多数救出し、対馬中央部の船越に駐屯して交通を遮断しますが、対馬側は壱岐の松浦党に援軍を要請し、険阻な山の奥に伏兵を配して奇襲をかけます。朝鮮軍のうち百数十人が崖から墜落するなどして死亡したものの、朝鮮軍も矢を射掛けて先鋒の指揮官らしき武将を倒し、敵兵を退かせました。
朝鮮軍はなおも対馬にとどまって圧力をかけ続けますが、「(旧暦)7月には暴風が吹くため長くとどまるべきではない」との意見が朝鮮から届き、宗貞盛からも同様の忠告と撤退・修好を要請する書簡が届いたため、7月初めには巨済島へ撤退します。九州探題と少弐満貞は京都へ注進(報告)を行いましたが甚だ誇張されており、京都では「蒙古・高麗・大唐・南蛮」が攻めてきたと大騒ぎになったといいます。戦後は宗貞盛と早田左衛門太郎が朝鮮と硬軟織り交ぜた外交交渉を行い、幕府と朝鮮も使者を往来させて関係回復につとめ、和解が成立しました。朝鮮は釜山・乃而・塩浦の三浦を開港して日本との貿易窓口とすることで倭寇の被害を抑え、朝鮮と日本との交渉や貿易は対馬宗氏が独占していくことになります。
◆剣◆
◆心◆
【続く】