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【つの版】日本刀備忘録24:応永備前

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 応永6年末(西暦1400年初)、足利義満は有力守護大名の大内義弘を討伐し、日本屈指の貿易港である泉州堺を掌中に収めます。まもなく義満は明国との正式な国交を開き、日明貿易を開始することになります。


◆鹿◆

◆苑◆

日明貿易

 義満は応安7年(1374年)と康暦2年(1380年)に明朝へ使節を派遣していましたが、明朝は南朝の懐良親王を「日本国王良懐」として承認しており、義満の使節は追い返されてしまいました。そこで応永8年(1401年)、義満は「日本国准三后源道義」を名乗り、同朋衆と思われる祖阿を正使、肥富こいつみを副使として明朝に派遣します。

 15世紀後半に編纂された『善隣国宝記』によると、肥富は明国と交易(密貿易)していた筑紫商客(博多商人)で、応永初年(1394年頃)に明から帰って義満に会い、明国との交易の利を説いたといいます。肥富とは変わった名ですが、「小泉」のもじりとするならば、安芸国の小早川氏の庶流に小泉氏がおり、芸予諸島に勢力を広げて水軍を率いています。芸予諸島の隣は大内氏の本拠地の周防ですから、大内氏を見限って幕府についたのでしょう。

 しかしこの頃、明は北京の燕王が南京の朝廷(建文帝)に反旗を翻した「靖難の変」の真っ最中でした。使節は寧波を経て南京に到達し歓迎されましたが、翌年6月に燕王が南京を陥落させ、皇帝に即位します(永楽帝)。応永10年/明の永楽元年(1403年)、義満は改めて返礼の使節を派遣することとし、京都五山の天龍寺の禅僧・堅中圭密を正使とし、かつて明を訪れて洪武帝に謁見した禅僧・絶海中津に国書を書かせました。これを先例として以後の遣明使の使節には五山の禅僧が選ばれることとなります。

 永楽元年…十月、(日本国の)使者が至り、王の源道義が表(国書)と貢物を献上した。帝は厚くこれを礼遇し、官を遣わしてその使者とともに帰還させ、道義に冠・服・亀紐金章(金印)および錦綺・紗羅を賜った。

『明史』日本伝

 永楽帝は建文帝の事績を抹消したため、源道義(義満)はいつのまにか日本国王になっていますが、ここで改めて金印等を授けて承認したわけです。南朝の懐良親王はともかく、清和源氏で出家の身とはいえ前太政大臣が異国の天子から「日本国王」に封じられて朝貢することは前代未聞で、天皇や公家たちははなはだ嫌がりましたが、義満の権勢には逆らえませんでした。

 翌応永11年/永楽2年(1404年)より、正式に日明貿易が開始されます。これは日本国王から明朝への朝貢品を積んだ船(遣明船)に博多や堺、瀬戸内などの商人が乗り込み、公的な許可を得て明国の商人と交易を行うもので、莫大な利益を日本にもたらしました。交易品は日宋貿易や倭寇の時代と同じで、明国からは銭や生糸・織物、書物や薬品などが、日本からは硫黄や銅などの鉱物、扇子や漆器・屏風などの工芸品、それに刀剣(日本刀)が輸出されました。ようやく本題である刀剣の話に戻ることができます。

応永備前

 日本刀は、遅くとも11世紀の北宋の頃にはチャイナに輸出されています。ただ武器というより美術工芸品としての側面が強く、欧陽脩の『日本刀歌』には「香木の鞘に魚(鮫)の皮を貼って装い、黄白金銅の装飾を施し」と歌われています。それから400年近く経過し、武家政権や戦乱の世が続いた日本には、刀剣を大量生産できる多数の工房が存在していました。

 特に義満が目をつけたのが、足利尊氏以来幕府と縁が深い備前の刀工集団です。古来「真金吹く吉備」と歌われ、山陽道の海陸の要衝として栄えた備前には、大規模な作刀の工房も、それを流通させる商人たちの交易網も備わっていました。鎌倉や畿内は相次ぐ戦乱で荒廃していましたから、比較的戦乱の少なかった備前の刀工は大いに繁昌していたのです。

 この頃、備前長船には師光・盛光・康光といった刀工がおり、義満の要請に答えて輸出用の刀剣を生産しました。これを「応永備前」といいます。安物を輸出して内外にナメられてもよくありませんから、彼らは腕によりをかけて名刀を作り、細工や拵えにもこだわっています。当時の明国は鉄が不足しており、海外からの輸入品だというので箔もつき、日本で銭1貫文相当の刀が明国では10倍の値で売れたといいます。こうなると安い刀でもいけるというわけで、次第に輸出される刀の品質も値段も下がっていきました。

 江戸時代の赤穂事件/忠臣蔵で有名な大石内蔵助の佩刀は、長船清光の刀と長船康光の脇差であったといいます。このうち清光は「末備前」で16世紀中頃の刀工ですが、康光は師光・盛光と並ぶ応永備前の刀工で、その作刀は右衛門尉・左京亮・右ェ門尉と三代にわたりました。

鹿苑天皇

 明朝から日本国王に任命され、平清盛めいて海外貿易で莫大な富を獲得した義満は、実質的に天皇や朝廷をも凌ぐ日本国の第一人者となります。応永13年(1406年)に後小松天皇の生母・通陽門院が亡くなると、義満は「帝は即位後に父君(後円融天皇)を亡くし、今度は生母を失われた。天皇一代のうちに二度も諒闇(服喪)となれば、過去の前例(四条天皇・後醍醐天皇)に照らして不吉である。准母(義母)を立てて諒闇を回避すべし」と主張しました。そして自分の後妻である日野康子(南御所)を准母に立て、翌年に准三宮とし、北山院の院号を宣下させて女院とします。

 足利家からは中宮(皇后)も帝の生母も出ていないのに、女院が1人、准三后が2人もいることになりました。そして妻が天皇の准母であれば、必然的に義満は天皇の「准父(義父)」ということになります。義満は朝廷に働きかけて「太上天皇」の尊号をすら求めますが、流石にそれは認められませんでした。彼本人が天皇に即位しようとしたわけではありませんが、清盛や道鏡(奈良時代に太政大臣禅師・法王)にも匹敵する専横ぶりです。

 義満は応永元年(1394年)嫡男義持に征夷大将軍の位を譲っていますが、この時義持はまだ9歳で、義満は36歳の壮年であり、家督を譲らず実権を握り続けること14年に及びました。また義満は義持と不仲で、義持の庶弟の鶴若丸(義嗣)を偏愛しており、応永15年(1408年)には僧侶にする予定を改めて参内させ、14歳にして従四位下・左近衛中将という高位高官につけ、4月には内裏清涼殿で内大臣の二条満基を烏帽子親として元服させました。これは親王か摂関家並みの形式で、義嗣は「若宮」と呼ばれ、同日夜には従三位・参議となって公卿に列しました。おそらく義持に征夷大将軍として武家を、義嗣に公卿として公家を統率させようとしたのでしょう。

 しかしまもなく義満は病に倒れ、5月に51歳(満49歳)で没しました。朝廷は義満に「太上天皇」の尊号を贈りますが、義持と幕府管領の義将らは「先例なし」として辞退し、沙汰止みとなります。義満は僧侶として荼毘に付され、法名「鹿苑院天山道義」を奉られましたが、五山の禅僧らは義満を称え、「鹿苑天皇」「鹿苑院太上天皇」などの号を非公式に用いています。明朝は日本国王の訃報を受けて「恭献」の諡を送りました。

 24歳の義持は管領・義将を補佐役として幕府の実権を握り、義満の政策を次々と否定していきます。まず父のいた北山山荘を取り壊し、室町御所にも戻らず、直義・義詮らのいた三条坊門殿に遷りました。応永17年(1410年)に義将が没すると、翌年には明国の使者を追い返して国交を断絶し、日明貿易は中断します。しかし義持の時代には各地で反乱が相次ぎ、朝鮮が倭寇を討伐するため対馬に侵攻するなど多難でした。義満の時代をピークとして、室町幕府は有力守護大名の統制を失い、衰退していくことになります。

 歴史を追いかけるのはさておき、この時代には有名な大江山の鬼「酒呑童子退治の物語が成立し、絵巻物が作成され、謡曲が作られて演じられました。鬼退治の主人公は平安中期の源頼光らですが、前述の通り同時代史料にも平安・鎌倉時代の伝説にも酒呑童子の記録はなく、頼光らが大江山に赴いたという記録も伝承もありません。なぜ400年も経過したこの時代に、頼光らによる鬼退治の物語が流行したのでしょうか。そもそも、酒呑童子とは何者だったのでしょうか。実は日本刀にも関わる話ですので、次回からは刀剣と鬼退治の関連について見ていきます。

◆逃◆

◆若◆

【続く】

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