見出し画像

【つの版】日本刀備忘録23:応永之乱

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 明徳3年(1392年)閏10月、室町幕府と南朝の間に和約が結ばれ、南朝の後亀山天皇は吉野を去って京都に入り、三種の神器を北朝の後小松天皇に引き渡します。ここに半世紀以上に及んだ南北朝の並立は一応解消し、南北朝時代は終結して、これより歴史上は「室町時代」と称されます。

◆逃◆

◆若◆


義満出家

 足利義満は東の土岐氏、西の山名氏、南の南朝を平定し、名実ともに天下人となります。また南北朝合一により各地の南朝方も大義名分を失い、九州の南朝勢力は九州探題の今川了俊(貞世)と和睦しました。明徳4年(1393年)には後円融上皇が崩御し、義満は若い後小松天皇の後見人としてますます朝廷を牛耳ります。翌明徳5年(1394年)7月には疫病の流行により改元されることになり、義満は明朝の洪武帝にあやかって「洪徳」にしようと提案しますが、公家たちの反発により「応永」に決まりました。この元号は35年も続き、将軍や天皇が代替わりしても変えられませんでした。

 応永元年12月17日(1395年1月)、36歳の義満は征夷大将軍の職を辞して嫡男の義持に譲りますが、大御所として実権を握り、8日後の12月25日には太政大臣の宣下を受けます。武家が太政大臣に昇るのは平清盛以来で、鎌倉将軍でも太政大臣に昇った者はいません。歴代の足利将軍でも空前絶後であり、武家出身で生前に太政大臣になった次の例は豊臣秀吉で、徳川将軍でも家康・秀忠・家斉の3人だけです(追贈は結構いますが)。

 しかし翌応永2年(1395年)6月、義満は出家して道義と称し、管領に復帰していた足利(斯波)義将を始め多くの武家や公家、皇族が追従して出家しました。これは武家と公家の頂点を極めた義満が残る寺社勢力をも支配下に収めるためもありますが、明朝に朝貢する際に日本国の朝廷の官位からは独立した人物として承認されることを望んだためともいいます。出家後も義満は政権を牛耳り、守護大名の勢力を削いで独裁体制を確立せんとしました。

大内義弘

 同年8月、義満は九州探題の今川了俊を京都に呼び戻し、彼を罷免して遠江と駿河の半国守護に任じます(遠江の半国は弟の仲秋、駿河の半国は甥の泰範が守護に)。応永9年(1402年)に了俊が編纂した今川家の歴史書『難太平記』によれば、これは大内義弘と大友親世の讒言だったといいますが、彼が忖度して書いていないだけで、義満自身の思惑でもあったでしょう。

 大内義弘は周防・長門・豊前の守護職を兼ねる西国の有力守護大名で、若い頃から了俊に従って九州を転戦した人物です。父・弘世の没後に弟の満弘と家督を巡って内紛を起こしますが、義満の仲裁で和解し、満弘に石見(のち豊前)守護職を与えています。その後は義満の家臣として忠実に働き、康応元年(1389年)の義満の厳島詣にも随行しました。明徳の乱でも寡兵を率いて武功を上げ、和泉・紀伊の守護職を授かって5カ国(満弘のぶんを合わせて6カ国)の太守となっています。関門海峡と泉州堺、紀伊半島を手中に収めた大内義弘は、事実上西国の海上交通を掌握することになりました。

 義弘は了俊らとともに南朝の残党を掃討しつつ、おそらくはその一部でもあった倭寇を高麗や朝鮮(李氏朝鮮)と協力して討伐しました。了俊は倭寇に拉致された高麗人を返還し、仏典叢書『大蔵経』を求めるなど善隣友好政策を行っていましたが、こうした独自外交が義満から問題視されたのです。南朝側は懐良親王が明朝から「日本国王」に承認されたのを利用して貿易を盛んに行っていましたから、了俊が日本国王にでも任じられれば問題です。

 大内義弘は後任の九州探題になることを望んでいましたが、義満は23歳の渋川満頼を任じました。彼は了俊の前に九州探題に任じられた渋川義行(義満の准母・渋川幸子の甥)の子で、足利(斯波)義将の娘婿です。了俊の後ろ盾だった細川頼之はすでに亡く、管領に復帰した義将は出家後も幕政を差配し、幕臣でありながら正四位下・右衛門督という高位高官に任じられていましたから、これは義将の意向でもあったでしょう。へそを曲げた義弘は大友氏や了俊に連合を持ちかけ、11月には朝鮮と直接通交するなど独自行動を取り始めます。また義満も義弘を危険視することとなりました。

北山山荘

 応永4年(1397年)、義満は西園寺家より京都北西の西園寺と北山山荘を譲り受け、室町御所から移り住んで増改築します。応永6年(1399年)には有名な舎利殿(金閣)が完成し、相国寺には高さ360尺(109m)もの八角七重塔が建立され、義満の権威と権力を天下に示しました。義満のもと公家・武家・唐様の文化が融合し、猿楽(能・狂言)に代表される華やかな文化が花開いたことから、この時代の文化を「北山文化」と呼びます。この山荘が禅寺とされ「鹿苑寺」と呼ばれるのは義満没後のことです。

 義満はこの北山山荘の造営に際し、諸大名に人数の供出を求めて手伝わせましたが、大内義弘のみは「武士は弓矢をもって奉公するものである」として従いませんでした。ならばと義満は義弘に「筑前の少弐貞頼を討伐せよ」と命じ、義弘は弟の満弘に兵を授けて派遣しますが、満弘は苦戦の末に戦死してしまいます。義弘は報復として自ら兵を率いて筑前に侵攻し貞頼を追い詰めますが、義満は義弘の勢力拡大を危惧し「上洛せよ」と命じます。

 ここで義弘が上洛すれば、今川了俊のように守護職を取り上げられ、誅殺されるか勢力を削減されることは目に見えています。また満弘が戦死した後も義満はその遺児に恩賞を与えておらず、義弘が朝鮮から進物を受け取ったことを問題視しており、そもそも少弐貞頼をけしかけたのは義満ではないかとの噂も流れ、義弘は不満と疑心暗鬼をつのらせていきます。度重なる上洛命令にも従わぬ義弘に対し、義満は大義名分を獲得しました。

応永之乱

 追い詰められた義弘は、義満・義将政権を打倒すべく各地の反義満勢力と連絡を取ります。まず左遷された今川了俊を介して関東(鎌倉公方)の足利満兼と密約し、美濃の土岐詮直、近江の京極秀満、山名氏清の嫡男で丹波にいた宮田時清、比叡山や興福寺、河内の楠木正勝、肥後の菊池氏ら旧南朝方とも通じて挙兵を促します。応永6年10月、義弘は軍勢5000を率いて九州から泉州堺に到着し、家臣の平井新左衛門を入洛させます。義満は僧侶の伊予法眼、絶海中津らを派遣して義弘自身の上洛を促しますが応じず、義弘は悩んだ末に「政道を諌めるため」として関東と結託、挙兵しました。

 義満はただちに義弘討伐を命じる御教書を出し、細川頼元、京極高詮、赤松義則ら6000余騎を先発隊として和泉へ派遣、自らは馬廻2000余騎を率いて東寺から男山八幡へ向かいます。足利(斯波)義将はこの頃管領を辞して畠山基国に譲っていましたが、彼らは主力3万騎を率いて和泉へ向かいます。義弘が六カ国の太守といえど、畿内近国にあっては幕府の動員力と兵站は圧倒的でした。軍評定の末、義弘は堺に堅牢な城塞を築いて籠城し、関東や東国、河内や近国の挙兵を待つこととします。

応永の乱

 これに対し幕府側は四国・淡路の海賊衆を動員し、陸と海から堺を封鎖して総攻撃を行います。美濃・尾張では土岐詮直、丹波・山城では宮田時清、近江では京極秀満が呼応して挙兵したものの各個撃破され、足利満兼は1万余騎を率いて武蔵府中高安寺まで進軍したものの、関東管領の上杉憲定に諌められて兵を止めました。孤立無援となった堺では必死に防戦し、一時は総攻撃を撃退したものの、幕府軍は強風に乗じて火攻めを行い、再び総攻撃を行います。堺は落城し、大内義弘らは壮烈な討ち死にを遂げ、これを聞いた満兼・了俊らも謝罪して服従し、応永の乱はここに終結しました。

 義満は論功行賞を行い、大内氏の守護国のうち周防・長門は、義弘の弟で降参した大内弘茂に相続させます。また石見は出雲・隠岐守護の京極高詮、和泉は仁木義員、紀伊は畠山基国が守護職となりました。しかし弘茂の兄で周防・長門を守っていた盛見はこれに従わず、弘茂に激しく抵抗して応永8年末(1402年)にこれを滅ぼし、安芸・石見まで勢力を伸ばしました。やむなく義満は応永12年(1405年)に周防・長門・豊前・筑前の守護職を盛見に与え、ようやく帰順させています。大内氏は西国の有力守護大名として命脈を保ったものの、和泉と紀伊は奪還できませんでした。

 ともあれ、これより義満が亡くなるまで、天下に戦乱はほぼ絶えました。関東や奥羽は鎌倉公方と関東管領の管轄ゆえさておいて、畿内と西国においては義満の覇権がおおよそ確立され、鎌倉幕府滅亡以来70年ぶりに平和が回復されたのです。そして大内氏を服属させたことにより、義満は朝鮮や明国と直接使節を往来させ、「日本国王」に冊立されることとなります。

◆犬◆

◆王◆

【続く】

つのにサポートすると、あなたには非常な幸福が舞い込みます。数種類のリアクションコメントも表示されます。