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【つの版】度量衡比較・貨幣152

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 オーストリア継承戦争の後、ハプスブルク家の女君主マリア・テレジアはプロイセンに奪われたシレジアの奪還をもくろみます。そして1756年にプロイセンが英国と同盟すると、オーストリアは宿敵フランスと同盟しました。ロシアもプロイセンを牽制するためオーストリアと結び、まもなく両陣営同士による世界大戦「七年戦争」が始まります。

◆Rule◆

◆Britannia◆


英国政争

 この頃の英国の政界を見てみましょう。1743年に第一大蔵卿(首相)に就任したヘンリー・ペラムは、ハノーファー優先策をとる国王ジョージ2世および政敵のカートレットと対立しましたが、野党を取り込んで見事に英国議会を取り仕切り、1748年には「アーヘンの和約」を関係各国に結ばせ、オーストリア継承戦争を終結させます。これにより英国は戦時財政を解除し、海軍縮小や土地税率の軽減、国債の統一と利子率の上昇など財政改革を行うことができました。ペラムは反対派を次々と失脚させて政権を牛耳り、「英国王ヘンリー9世」と揶揄されるほど権勢を誇りますが、1754年に没します。

 代わって首相に就任したのは、ヘンリー・ペラムの兄でニューカッスル公のトマス・ペラム=ホリスでした。彼は弟の政権を閣僚として長年支えて来たため、その政策も引き継がれますが、貴族院議員であるため庶民院と対立し、野党やホイッグ党内の批判勢力から突き上げられ不安定でした。折しも英国の北米植民地ではフランス領との武力衝突(フレンチ・インディアン戦争)が始まり、欧州情勢も不穏となると、英国はハノーファー防衛のためプロイセンと同盟してフランスを牽制しますが、これが長年宿敵であったオーストリアとフランスの同盟(外交革命)を招いてしまいます。

 1756年5月、フランスは南部の軍港トゥーロンに兵を集め、1713年以来英国領となっていたバレアレス諸島のミノルカ島(メノルカ島)に侵攻、上陸しました。驚いた英国はフランスに宣戦布告し、ジブラルタルから小規模な艦隊を派遣しますが反撃されて撤退し、ミノルカ島はフランスの手に落ちます。北米植民地でも英国側は劣勢となり、ニューカッスル公内閣は激しい批判に晒され、11月には総辞職に追い込まれます。

 この時の政権批判の急先鋒が、ホイッグ党所属の庶民院議員ウィリアム・ピットでした。彼の祖父トマスはインドやペルシアでの密貿易で財を成し、荘園を購入して地主となり、庶民院議員に当選して東インド会社に雇われ、マドラス総督まで登りつめた男です。彼がインドで購入したダイヤモンドはフランスの摂政オルレアン公に13万5000ポンド(135億円)で売却され、この利益でさらに多くの土地を購入しました。祖父トマス、父ロバートの跡を継いで庶民院議員となったウィリアムは、ウォルポール政権下では党内のタカ派として政権批判を行い、反ウォルポール派の支持を集めます。

 国王に煙たがられてカートレット内閣には入閣できませんでしたが、続くペラム内閣では陸軍支払長官として入閣し、ニューカッスル公内閣でも留任します。しかしこの官職は彼にとって不満で、引き続き政権批判を繰り広げます。このため1755年には罷免されますが、ニューカッスル公政権が倒れると庶民院の最有力者として入閣を求められ、1756年11月にデヴォンシャー公内閣の南部(カトリック圏)担当国務大臣として入閣します。これよりピットは事実上の首相として、七年戦争を戦っていくことになります。

世界戦略

 ピットは財政知識は乏しかったものの、祖父がマドラス総督であったこともあり、グローバルな(地球規模の)広大な視野を持つ戦略家でした。彼が立てた大戦略は、欧州での戦争は同盟相手のプロイセンを支援することで肩代わりしてもらい、英国は海軍力を増強してフランスやスペインの輸送を遮断し、海外植民地を奪い取るべきだ、というものです。

 プロイセン王フリードリヒ2世は欧州きっての陸軍指揮官として武名を轟かせており、1756年8月末にはザクセンに侵攻し、10月には占領していました。中立国へ侵攻したことで各国から非難の声があがり、オランダは巻き込まれるのを恐れて中立を宣言しますが、ハノーファーは英国とプロイセンを後ろ盾としてフランスの侵攻を防ぐ体制を固めました。

 フランス軍は北米植民地においては先住民と同盟して精力的に戦い、英国側の砦を次々と陥落させていました。しかし植民地の人口は英国側が150万人もいたのに対し、フランス側は8万人しかおらず、先住民の非正規兵を合わせても英国側が数の上では優勢です。また英国はフランスより海軍力ではまさっており、海上封鎖や輸送妨害によってフランス側を孤立させました。

 インドでは、カルナータカ地方やベンガル地方(ガンジス川河口域)において英仏両国の勢力が対立を強めていました。フランスはベンガル太守シラージュ・ウッダウラと手を結び、英国がカルカッタに築いた要塞を攻撃し、1756年6月にこれを陥落させます。これに対し英国はマドラスから軍人ロバート・クライヴ率いる軍隊をカルカッタに派遣し、翌年に反撃を行います。英国側はベンガル太守の側近ミール・ジャアファルを内応させ、1757年10月のプラッシーの戦いでベンガル・フランス連合軍を散々に打ち破りました。

 シラージュはまもなくミールに捕縛されて処刑され、ミールが代わってベンガル太守となります。彼は英国との秘密条約により、カルカッタを含む地域の徴税請負権ザミーンダーリー)を英国東インド会社に譲渡しました。これらの地域からは年間22万ルピーの税収が見込め、うち太守へは2万ルピーを納めればよしとされます。さらに英国にはベンガル、ビハール、オリッサにおける自由交易権も与えられ、私貿易での関税が撤廃されました。またクライヴはベンガル知事に任命され、ミールから毎年3万ポンド(30億円相当)の謝礼を受けました。これより英国はインドに広大な植民地を獲得し、ベンガルを拠点として支配領域を広げます。かくて莫大な富が英国へ流れ込み、産業革命を起こして世界帝国へと発展させることになるのです。

大王劣勢

 1757年4月、欧州ではプロイセン軍がボヘミアに侵攻します。前年のうちにザクセンとシレジアを兵站基地化していたプロイセン軍は、激しい反撃により損害を被りながらもオーストリア軍を撃破し、敵の総大将カール・アレクサンダーが籠城するプラハを包囲します。しかしダウン伯率いるオーストリアの援軍が駆けつけ、6月にプロイセン軍を撃退してプラハを救いました。プロイセン軍はボヘミアから撤退し、これより劣勢となります。

 このプロイセンの敗北に乗じて、東からはロシア、北からはスウェーデンが侵攻して来ます。ロシア軍は東プロイセンの一部を占領したものの、本国から遠いため補給が追いつかず撤退しましたが、スウェーデンはバルト海南岸のポメラニア(ポンメルン)を巡ってプロイセンと5年に渡る戦いを繰り広げることになります。さらにオーストリア軍は余勢をかってザクセンへ侵攻し、占領地を奪還しながら前進して、10月にはハンガリー人の将軍ハディク率いる騎兵隊が一時ベルリンを奇襲して占領するほどでした。

 フリードリヒ大王が駆けつけてオーストリア軍は撤退し、ベルリンは1日で解放されたものの、プロイセンは周囲を敵に囲まれ、圧倒的に不利な状況でした。遥かベンガルで英国軍が勝利をおさめても、プロイセンの孤立と劣勢を覆すことはできません。フランスは勝利は目前とみてオーストリアへ援軍を差し向け、4万を超える連合軍となりプロイセンを脅かします。対するプロイセン軍は2万ほどでしたが、11月にはザクセンで戦意に乏しいフランス軍に猛攻をかけて打ち破り(ロスバッハの戦い)、12月には返す刀でシレジアのオーストリア軍を撃破します(ロイテンの戦い)。2つの勝利はプロイセンを活気づけましたが、周囲が敵ばかりの状況は打破できていません。

 この頃ピットはハノーファー重視政策をとる国王ジョージ2世と対立し、1757年4月には一時罷免に追い込まれましたが、もはやピットなしでは政権安定は不可能で、6月末に成立した第2次ニューカッスル公内閣において返り咲きます。欧州ではプロイセンがなお苦境にあったものの、ピット率いる英国は支援を継続し、海外植民地におけるフランスとの戦いを続けました。

◆Land of Hope◆

◆and Glory◆

【続く】

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