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【つの版】日本刀備忘録07:鬼丸国綱

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 ようやくインデックスを作成しました。

 平安時代中期に現れた武者は、馬上で刀剣を振るって戦い、蝦夷や盗賊を討伐して所領を広げ、朝廷や摂関家と繋がりを深めました。やがて平清盛や源頼朝のように、武家が事実上の天下人となる時代も訪れます。戦乱に伴い刀剣の需要は増え、各地に高名な刀工が出現しました。

◆刀剣◆

◆乱舞◆


御番鍛冶

 寿永2年(1183年)、木曽義仲の軍勢が京都に迫ると、平家は安徳天皇と三種の神器(剣璽)を携えて西国へ落ち延びます。後白河法皇は安徳天皇の異母弟・尊成親王を推挙して新たな帝位につけます(後鳥羽天皇)が、彼は剣璽なしで即位せざるを得ませんでした。文治元年(1185年)に平家は壇ノ浦の戦いで滅びますが、三種の神器と安徳天皇も海中に沈み、鏡と勾玉は回収されたものの、剣だけは回収できませんでした。

 朝廷は必死に剣を探させましたが見つからず、後鳥羽天皇は三種の神器が揃わぬまま帝位にあるという前代未聞の状況となります。やむなく朝廷は伊勢神宮から後白河法皇に献上されていた剣を「形代」とし、建久9年(1198年)に後鳥羽天皇から土御門天皇への譲位が行われた際にはこれを使用して乗り切りました。承元4年(1210年)に土御門天皇は異母弟の順徳天皇に譲位しますが、後鳥羽院はこの時に形代の剣を正式に宝剣とみなし、以後現代に到るまでこの宝剣が皇位継承の神器として伝わっています。まあ天叢雲剣の本体は熱田神宮に伝わっているとされますし、八咫鏡も本体は伊勢神宮のもので、宮中の形代の鏡は平安時代中期に火災で灰になったままですから、気にしなければ問題ないでしょう。

 しかし後鳥羽院は宝剣がないことを大いに気にしました。天子の武徳の象徴たる宝剣が失われて以来、天下の政務は武家政権である鎌倉幕府が掌握していますから、この状況は「天子の不徳」とみなされても仕方ありません。コンプレックスを払拭せんと後鳥羽院は武芸や作刀を好み、諸国から武者や刀工を呼び集め、作刀に励ませました。

 伝承によると承元2年(1208年)、後鳥羽院は諸国から刀工12名を召し、離宮のあった水無瀬みなせ(現大阪府三島郡島本町水無瀬神宮)において毎月交替で刀を作らせました。これがいわゆる「御番鍛冶」ですが、その筆頭は備前国の則宗という刀工でした。

菊一文字

 備前・備中・美作・備後に分けられた古代の吉備国は、古来和歌に「真金まがね吹く吉備」と歌われ、砂鉄を利用した製鉄や作刀が盛んでした。平安時代中期から後期には「古備前派」と後に呼称される刀工集団がおり、則宗はその一人です。12名の御番鍛冶のうち、備前出身者は則宗・延房・宗吉・助宗・行国・助成・助延と7名に及び、備中出身者は貞次・恒次・次家の3名で、残る2名(閏月の番を加え3名)は京都東方の粟田口出身でした。

 則宗の出身地は、備前国上道郡の福岡荘(現岡山県瀬戸内市)で、美作国から瀬戸内海へ流れ込む吉井川のほとりにありました。古来砂鉄を採取して製鉄が行われたほか、交通の要衝にあることから経済的にも繁栄し、山陽道沿いには市場が立って西国一の賑わいでした。福岡やその付近の長船おさふね、吉岡などには古備前派の流れをくむ刀工集団が分布し、数多くの名刀を産んでいます。備中から招かれた貞次らは、高梁川の下流域・青江あおえ(現岡山県倉敷市)の出身で、青江派の祖となりました。

 彼らの刀を気に入った後鳥羽院は、さらに刀工を召し寄せ24名に増やし、毎月に2名を配して増産体制に入らせます。このうち備前出身者は包道・師実・長助・行国・近房・包近・真房・則次・吉房・包末・章実・実経・包末(2回目)・信房・朝忠・包助・則宗・是助の17名に及び、備中は則真、美作は実経の1名ずつです。他に伯耆から宗隆、豊後から行平、大和から重弘、粟田口から国友が参加していますが、いずれも鎌倉幕府の支配が強くない西国の出身です。この御番鍛冶に選ばれた刀工たちは下級貴族並みの官位や所領を賜りました。後鳥羽院は彼らに作らせた刀を公卿や貴族・武者に分け与え、鎌倉幕府に対抗するべく勢力を養ったのです。

 また後鳥羽院は粟田口久国・備前国信房の2名を特に「奉授工」として鍛刀の手ほどきを受け、自らも刀を作り、焼入れを行いました。彼は自ら鍛えた刀のなかごに自らの紋章である菊花紋を刻んだため、これを「菊御作きくごさく」と呼び、現在は重要文化財に指定されて京都国立博物館が所蔵しています。

 なお淡路島の松帆神社には、茎に菊紋と「一」の文字が刻まれた太刀「菊一文字」が伝わっています。則宗や助宗ら備前の刀工に「一」の文字を銘の代わりに切った者が多かったため、彼らの流派を「一文字」とも呼び、菊紋があるからには後鳥羽院の御番鍛冶の作であろうかと言われています。ただ則宗や助宗ら後鳥羽院時代の刀工はみな名を銘としており、一文字が刻まれるのは鎌倉中期以後だそうで、作風からしてもその頃の則宗流/福岡一文字の作と考えられています。彼らは御番鍛冶を務めた証として、後鳥羽院以後も皇室から菊紋を刻むことを許されており、福岡一文字吉平の太刀などにも菊紋が刻まれています。しかし菊紋とともに個人銘を切ることは通常なく、一文字とともに菊紋があるのはこれだけです。

 承久3年(1221年)5月、後鳥羽院は全国の武家に宣旨を発し、鎌倉幕府の実権を握る北条義時の討伐を命じました。在京・近国の武士たちは挙って宣旨に応じましたが、義時の姉で源頼朝の妻であった政子は御家人たちを説得し、義時の子・泰時を総大将として京都目指して攻め上がらせます。京方は驚いて防戦しますが撃ち破られ、1ヶ月ほどで乱は鎮圧されます。

 この「承久の乱」の責任者として、後鳥羽院は新たに即位した後堀河天皇の勅命という形式で隠岐島に配流されます。御番鍛冶も解散されますが(半数は隠岐へついて行ったとも)、備前や粟田口の刀工たちは働く場所を求めて鎌倉へ移住し、東国の武家のために作刀を行うことになります。

鬼丸国綱

『太平記』等によると、後鳥羽院の御番鍛冶であった粟田口国綱は承久の乱ののち鎌倉に移住し、執権・北条氏のために太刀を作りました。北条泰時の孫である時頼は、ある時から毎晩夢の中に小鬼が現れてうなされるようになりましたが、やがて夢の中に老翁が現れてこう告げます。「わしは粟田口国綱の太刀の化身である。汚れた人の手に握られたので錆びてしまい、鞘から抜け出せぬ。小鬼を退治したければ、早くわしの錆を拭い去ってくれ」。

 時頼がその太刀を手入れし、寝床の側に抜き身で立てかけておくと、太刀はひとりでに倒れて火鉢の台に切りつけました。時頼がよく見ると、太刀は台に施された銀の小鬼の首を切り落としており、それ以来悪夢にうなされなくなりました。喜んだ時頼はこれを「鬼丸」と名付け、自らの子孫が受け継ぐべきものとしたといいます。

 時頼は内紛に揺れる鎌倉幕府を立て直し、自らの血筋を北条氏の嫡流(得宗)と定めた人物ですから、清和源氏重代の宝剣とされた「鬼切」こと鬚切を真似てそうした伝説を作ったのでしょう。北条氏は桓武平氏国香流の平直方の末裔を自称しており、清和源氏よりは格下の武家に過ぎませんでした。事実上の武家の棟梁として箔付けを行う理由は充分あります。

 また、備前派からは国宗助真らが鎌倉に赴いて作刀を行い、粟田口派と腕を競いました。国綱ないし国宗の子、ないし弟子とされる国光は、両派の技術を融合させた独自の流派を建てました。鎌倉が相模国(相州)にあることから、国光の流れをくむ鎌倉の刀工たちの作風を「相州伝」と呼びます。この国光の弟子が正宗です。

◆鎌◆

◆倉◆

【続く】

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