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【つの版】日本刀備忘録08:粟田口派

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 承久の乱の後、後鳥羽院が集めていた備前や粟田口等の刀匠たちは鎌倉へ移住し、鎌倉幕府の執権や御家人のために腕を振るい始めました。彼らは互いに腕を競い、作風を学び合い、独自の作風を編み出していきます。その代表が新藤五国光、その弟子とされる正宗です。しかし西国の作刀は衰えることなく続いています。鎌倉時代の山城・備前の刀工を見ていきましょう。

◆刀剣◆

◆乱舞◆


粟田口あわたぐち

 平安末期から鎌倉時代にかけて、古備前派と並び称されるのが山城国の粟田口派です。京都の東、鴨川に架かる三条大橋のあたりを三条口/粟田口といい、皇別の和珥わに氏の一派・粟田氏が氏神を祀っていました。貞観18年(876年)、疫病を鎮めるため南の祇園社(感神院、現八坂神社)の分社が建立され、感神院新宮・粟田天王社と呼ばれました(現粟田神社)。

 ここは山科を経て東海道・東山道に通じる要衝で、京都の東を守るために関所が置かれ、護衛の武者が詰めていました。故に古くから刀工がおり、平安時代の伝説的刀工・三条宗近もここにいたとされます。三条派の刀工には他に吉家・近村・在国・吉則、五条兼永・国永らがいました。

 鎌倉時代初期、この粟田口に国家くにいえという刀工が出現します。彼の父・国頼は刀工ではなく具足師(甲冑作成者)でしたが、国家は三条派に弟子入りして技術を学びました。彼は皇室や公卿を顧客に優美な太刀を作成して評判を得、後鳥羽院の御番鍛冶の取締役を務めたといいます。彼には国友・久国・国安・国清・有国・国綱という6人の息子がおり、みな刀工として大成し、御番鍛冶にも名を連ねています。彼らは藤原姓林氏を名乗り、名に加えて藤林・藤次郎・藤三郎などの在銘があります。

 承久の乱ののち、国綱らは鎌倉に赴いて作刀を行いましたが、多くは粟田口にとどまって作刀を続けています。国友の子を則国、その子を国吉(もと国高)といい、北条時頼に招かれて鎌倉に赴きました。国吉の子、ないし弟子とされるのが、数多くの名刀を残した藤四郎吉光です。

 吉光作の刀剣は短刀が多く、神社に奉納された剣が二振りあるほか、太刀は「一期一振」と呼ばれるものしか現存していません。これは焼身を磨上げ(短く切り詰める)したもので、足利氏重代の薙刀「骨喰」、小薙刀「鯰尾」も焼身となり、脇差に磨上げられています。鎌倉中期の吉光を最後に粟田口派は衰え、らいが代わって勃興することになります。

 刀身長が1尺(30.3cm)以下のものを短刀と呼び、用途から刺刀さすが、差し方から懐刀・腰刀、拵えの形状から鞘巻・合口/匕首あいくちと呼びます。鍔がないため刀身と鞘の口が合ってぴったり納まり、太刀とは異なり懐や腰帯に差して携行ができます。こうした短刀は古代から存在し、日用品や護身具、邪気や災厄を払う守り刀としても作成されましたが、短いために馬上での戦闘には向きません。しかし騎馬武者の補助武器として、また徒歩で付き従う従者の武器として普及したのです。室町時代になると短刀は大型化し、脇差や小太刀、打刀へと変化していきました。

来派勃興

 鎌倉中期から南北朝時代にかけて栄えたのが来派です。観智院本『銘尽』によれば、来派は高麗(朝鮮)から渡来した銅匠の末裔で、高麗が訛って来氏を名乗り、来国吉を祖とするといいます。ただ国吉の現存確実な作刀はなく、その子・太郎国行くにゆきが実質的な祖となります。

 国行は粟田口の西の四条に住まい、四条綾小路を拠点とした綾小路派の定利の門人であったともされ、両者の作風は似通っています。太刀が比較的多く、豊臣秀吉から伊達政宗に贈られたはばき国行、明石松平家に伝来した明石国行などが現存しています。作風は刀身が幅広で反りが高く、猪首いくび切先という太く短い切先を持ち、実用的で質実剛健とされます。

 この国行の子が孫太郎国俊くにとしです。弘安元年(1278年)の在銘太刀があり、正和4年(1315年)に75歳という銘もありますから、逆算して延応2年/仁治元年(1240年)頃の生まれです。また81歳での作刀もあり、90歳か105歳で没したと伝えられ、非常な長寿であったようです。

 彼の銘には「国俊」と二字銘に切るものと「来国俊」と三字銘に切るものがあり、古来同人とも別人とも言われ、前者は「二字国俊」と呼んで分けられます。二字国俊の作は猪首で豪壮なものが多く、三字国俊の作は短刀が多く優美穏やかな作風であることから、同一人物の年齢による作風変化とも考えられます。二字国俊の作としては愛染明王が彫られた短刀「愛染国俊」や小太刀「鳥飼国俊」、三字国俊の作としては阿蘇神社に伝来した大太刀「蛍丸」が知られています。蛍丸は太平洋戦争後に行方不明となっていますが、銘には「来国俊 永仁五年三月一日」とあったといい、これは西暦1297年にあたります。

 国行の跡を継いだのが嫡男とされる国光です。彼の在銘作刀年代は正和2年(1313年)から貞治2年(1363年)まで50年に及び(現存するものは1327年から1351年まで)、国行が長寿であったことから彼も長寿だったとも思われますが、作風からして1333年に鎌倉幕府が滅亡した後、南北朝時代に二代目に代替わりしたとの説があります。後期の国光や次代の国次は、相州の正宗などの作風の影響を受けています。

 また来派の刀工は京都を離れ、各地に移住して技術を広めました。国長は摂津中島へ移り、国俊の門人・国村は肥後国菊地に移って延寿派を開き、国俊の子・了戒の流派は筑紫に移住して信国派となり、南北朝から室町時代にかけて栄えました。

備前長船

 前述のように備前では古来作刀が盛んで、後鳥羽院の御番鍛冶の多くも備前の刀工によって占められました。名物太刀「大包平」を筆頭に、古備前派の太刀は歴代の武家に重んじられ、現代にも国宝や重要文化財として残っています。のち福岡一文字、吉岡一文字、長船おさふねなどの流派に分かれました。

 長船派の祖は、近忠の子・光忠です。彼は鎌倉時代中期、宝治・建長年間(1247-1255年)に活動し、水戸藩に伝わる焼身の太刀「燭台切」などが知られます。織田信長は光忠の刀を好んで集め、特に三好実休が持っていた「実休光忠」を愛好しましたが、これは本能寺の変で焼失しています。

 光忠の子は長光といい、文永11年(1274年)から永仁・正安・嘉元(1303 -1306年)にかけて30年間活動しました。国宝「大般若長光」を始め多くの銘刀を遺しましたが、後期の作には弟子の代作も多く含まれているといいます。長光の子を景光、景光の子を兼光といい、ともに名刀工として知られています。長船派の刀工たちは工房に多くの門弟を抱え、安定した品質の刀を大量生産しており、乱世の武者たちの需要を満たしました。

◆刀剣◆

◆乱舞◆

【続く】

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