見出し画像

【つの版】日本刀備忘録09:相州正宗

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 承久の乱の後、後鳥羽院が集めていた備前や粟田口等の刀匠たちは鎌倉へ移住し、鎌倉幕府の執権や御家人のために腕を振るい始めました。彼らは互いに腕を競い、作風を学び合い、独自の作風を編み出していきます。その代表が新藤五国光、その弟子とされる正宗です。

◆花◆

◆丸◆


相州国光

 国光の生没年は不詳ですが、永仁元年(1293年)から元亨4年(1324年)までの在銘作刀があり、蒙古襲来よりも後、鎌倉時代後期に活躍したことになります。仮に1324年に60歳とすれば文永元年(1264年)の生まれで、30歳頃から30年間活動したわけです。作風や銘字の差異から、同名の初代と2代目、3代目がいたとする説がありますが、詳細はわかっていません。

 後鳥羽院の御番鍛冶を務め、北条時頼の宝剣「鬼丸」を鍛えた粟田口国綱の子ないし弟子、あるいは子孫ともされますが、年代的には承久の乱から永仁元年まで70年以上も開きがあり、直弟子とも思えません。備前三郎国宗の流れともいいますが、彼も文永7年(1270年)に94歳で没したといいます。また異説では、備前藤源次助真の子ないし弟子とされます。

 助真は後鳥羽院の御番鍛冶を務めた助成の子といい、文永3年(1266年)に後嵯峨天皇の孫・惟康王が3歳で征夷大将軍宣下を受けた際、備前福岡から招かれて鎌倉に赴きました。そして相模国鎌倉郡沼浜郷(現静岡県逗子市沼間)に居住し、「鎌倉一文字」として相州鍛冶の祖となったとされます。

 沼浜/沼間は鎌倉の南東に位置する谷間の湿地帯で、源義朝の居館があった要害の地です。義朝は奥州から舞草鍛冶を沼浜に呼び寄せて作刀を行わせたといい、のち三浦氏の所領となりました。助真はこうした古い鍛冶場を再利用し、備前派の作風を持ち込んだようです。助真の移住から2年後、文永3年(1268年)には蒙古から日本へ国書が届けられ、国内は騒然となりました。鎌倉幕府執権の北条政村は同年に時頼の子・時宗へ執権職を譲ります。

 時宗は未曾有の国難に対処するため、鎮西(九州)に所領を持つ東国の御家人に命じて鎮西へ向かわせ、蒙古襲来に備えさせました。助真らの鍛冶場もフル稼働で増産にあたったことでしょう。こうした備えもあり、蒙古襲来は無事に退けられましたが、国内は内紛や財政難に揺れ続けます。

 時宗は弘安7年(1284年)に34歳で病没し、子の貞時が13歳で跡を継ぎます。彼は翌年に後見人の安達泰盛を、正応6年(1293年)に平頼綱を滅ぼして独裁権を強化しますが、国光の在銘作刀開始はまさにその直後です。国光は太刀ではなく短刀を多く作成し、その業前は粟田口吉光と並び称されました。会津藩主・蒲生氏郷は国光作の短刀を所有しており、のち徳川将軍家に献上され、「会津新藤五」として国宝に指定されています。

 国光はのちに出家して法名を「光心」と名乗り、晩年まで作刀を続けました。表に「新藤五国光法師作」、裏に「延慶二年(西暦1309年)」と刻まれた短刀や、表に「鎌倉住新藤五国光法名光心」と胎蔵界大日如来を表す梵字(種子)、裏に「正和二二年(正和4年、西暦1316年)十月」と刻まれた短刀が伝わっています。なお「藤五」とは藤原氏の五男の意味ですが、新とつくのはなぜでしょうか。新藤という名字は藤原氏で新たに判官になった者が「新藤判官」と名乗ったことによるといいます。

不動行光

 国光を開祖とする刀工の流派を「新藤五派」と呼びます。国光の子である新藤太郎国泰、次郎国広、藤三郎行光、樋掻き(刀身彫刻師)で日光山法師の大進坊(大進房)祐慶、そして正宗がこの派に属しています。国泰・国広は鎌倉末期に活動し、父国光の名跡を継いだとして「国光」の銘を切ることもありました。現存する国広の作は短刀のみです。行光は国光の子ないし弟子で、大和伝を学んだ定秀の養子・豊後国行平の流れをくむとも言います。現存在銘作は短刀のみ、太刀は大磨上げされた無銘のみです。

 現存する行光の在銘名物短刀に「不動行光」があります。不動明王とその眷属である矜羯羅童子・制多迦童子が浮彫されていることからそう呼ばれ、織田信長が所有していたと伝えられます。信長は酔って気分が良くなると膝を叩いて「不動行光、九十九髪(九十九茄子の茶入)、人には五郎左(丹羽長秀)御座候」と歌ったといいますが、来派の国行の作である不動国行にも同様の逸話があります。本能寺の変で焼けたともいいますが、江戸時代には豊前国小倉藩主の小笠原家に伝来しています。『享保名物帳』には「不動」とのみ記されますが、こちらは相州貞宗(正宗の子)の作だともいいます。

相州正宗

 新藤五国光の弟子が、名高い刀工「正宗」です。名の初出は正和5年(1316年)に書かれた刀剣鑑定書『銘尽』(現存最古は応永30年[1423年]の写本)で、相模鍛冶系図に「正宗」、鎌倉鍛冶系図に「国光弟子」として記載されています。しかし彼の出自や活動年代については諸説あり、国光の子で行光の弟とも、行光の子とも、行光の弟でのちに養子になったともいいます。後の記録では「岡崎五郎入道」と名乗っていたともいいますから、国光や行光の五男だったのでしょうか。まず、岡崎とはどこでしょうか。

 相模国で岡崎というと、大住郡に岡崎という地名があります(現神奈川県平塚市と伊勢原市にまたがる)。三浦氏の庶家がこの地を領有して岡崎氏を名乗り、鎌倉幕府の草創を支えましたが、建保元年(1216年)の和田合戦で壊滅しました。鎌倉から25kmほど北西にあり、沼間からは32kmほど離れていますが、正宗がここに住んでいた可能性はありそうです。

 江戸初期の大坂落城の際に焼身となった「嘉暦三年(1328年)八月相州住正宗」銘の短刀(大坂長銘正宗)が現存し、「相模国鎌倉住人正宗 正和三年(1314年)十一月日」という銘の短刀があったとの記録もありますから、鎌倉末期に活動したことは確かなようです。江戸時代の『古刀銘尽大全』では文永元年(1264年)生まれで康永2年(1343年)81歳で没したとしますが、これだと国光と同年代です。正応の戊子年(1288年)に80歳との銘がある刀があったともいいますが、国光より遥かに年長で辻褄が合いません。次の戊子年は南朝の正平3年(1348年)ですから、こちらでしょうか。逆算して文永5年(1268年)の生まれとなり、国光や行光の子とは思えませんが、おそらく国光の弟子ではあったのでしょう。

 正宗の作品で現存するものは短刀と打刀がありますが、打刀は元来太刀として作られたものを後世に磨上げて短くしたもので、なかごに銘があったとしても失われています。もったいない気もしますが、刀剣は骨董品である以前に実用の武器であり、使用者に合わせてサイズを変えるのが一般的でした。また磨上げされていない短刀にも無銘のものが多く、後世の鑑定家が金象嵌で銘を入れることもありました。現存する正宗の在銘作は、短刀では「不動正宗」「京極正宗」「夫馬正宗」「大黒正宗(これのみ『正宗作』の三字銘)」および徳川美術館所蔵の一振り、上述の焼身短刀等が知られています。長物では焼身の太刀「木下正宗」にのみ正宗の銘が残っています。

 正宗はこれまでの刀の欠点を改善するため、強く鍛えた鋼を高温で焼き入れし、地刃を硬くしました。しかしこれだけでは脆くなりますから、硬軟の鋼を混ぜ合わせて板目肌に鍛え、焼き幅を広くして地刃の硬度差をつけました。また重ねを薄く身幅を狭くして軽量とし、反りを適度にし、猪首切先を中切先とし、樋を切先から下げました。これにより「折れず曲がらずよく切れる」刀となり、姿形や刃もより美しくなったのです。正宗は相州流の完成者とみなされ、後世の作刀にも大きな影響を与えました。

 ところが正宗は、少なくとも在世中には、あまり評価されませんでした。正和2年(1313年)の注進物には古今60人の刀工の名が上げられ、小鍛冶宗近を筆頭として青江恒次、綾小路定利、長谷部国重、備前是助、筑紫清真などの名がありますが、当時健在であったはずの正宗や貞宗などの名はありません。列挙される名はいずれも西国の刀工ですから、東国や相州の刀工は数えられなかったのかも知れませんが、翌正和3年(1314年)に名越遠江入道崇喜(北条宗教)が編纂した刀剣目利き書にも、足利氏に仕えた宇都宮三河入道道眼(宇都宮貞宗)が応安2年(1369年)にそれを書写したものにも、正宗はおろか相州の刀工はほとんど見えず、京都・備前・備中の刀工ばかりが列挙されています。『銘尽』にも断片的な記載はありますが「神代より当代まで上手之事」には含まれず、嘉吉元年(1441年)の奥書のある刀剣書にも正宗の名は現れません。

 ただ南北朝末期の『新札往来』には、近来の名鍛冶として「来国俊・国行、新藤五(国光)、藤三郎(行光)、五郎入道(正宗)、その子彦四郎(貞宗)」の名が現れます。応永23年(1416年)の『桂川地蔵記』にも名鍛冶として「鎌倉新藤五、彦四郎、五郎入道」の名が見え、宝徳4年(1449年)の一条兼良『尺素往来』に「一代に聞こえたる達者」として「新藤五、仲次郎、五郎入道」らの名が現れます。

 文明15年(1483年)の『能阿弥本銘尽』では、京都では宗近・吉光ら12工の作は万疋(銭10万文=100貫文)、正宗・貞宗・広光ら6工の作は5000疋(50貫文)と評価されています。当時の1貫文(銭1000文)が現代日本円にして10万円とすれば、100貫文は1000万円、50貫文は500万円になります。天正8年(1580年)には堺の商人・津田宗及が織田信長に披露した名刀の中に正宗の作が含まれています。豊臣秀吉や徳川家康は正宗の刀や短刀を大名への贈答品として活用したため、江戸時代には正宗が名刀の代名詞となり、玩具の刀にまで「正宗」と刻まれたほどでした。

 明治時代には「正宗は実在しなかったか凡工であった。無銘の正宗を名物としたのは秀吉が大名への贈答品とするためでっち上げたのだ」という正宗抹殺論が一時唱えられました。名刀を集めた足利将軍家のコレクション中には正宗がなく、秀吉以前の大名で正宗の刀を佩用した例を聞かず、名物の正宗に切れ味を示す異名がないことなどが理由として挙げられましたが、のちに在銘の短刀「京極正宗」が発見されて否定されています。

 国光や正宗が活動していた頃、日本は動乱期にありました。文永・弘安の役/蒙古襲来は退けられたものの、御家人たちは出費に見合うだけの報酬を得られず困窮し、所領を切り売り・質入れして銭を借り、借金が返せず没落していきます。鎌倉幕府は徳政令を発布して借金を帳消しにするなど対策を行いますがおっつかず、所領を失ったり相続できなかったりした武家たちは「悪党」と呼ばれるアウトロー集団と化し、各地を掠奪して荒らし回るようになります。執権貞時は正安3年(1301年)に執権職を従兄弟の師時に譲った後も得宗として実権を握り続けますが、嘉元3年(1305年)の内乱で影響力を失い、酒に溺れたのち応長元年(1311年)に没しました。

 子の高時はまだ9歳で、貞時から後事を託された舅の安達時顕、内管領の長崎円喜が実権を掌握します。しかし高時は病弱で正中3年(1326年)に出家し、時顕と円喜の間で権力闘争が勃発します(嘉暦の騒動)。こうした幕府の内紛を好機として、後醍醐天皇が倒幕を企むことになったのです。

◆逃◆

◆若◆

【続く】

つのにサポートすると、あなたには非常な幸福が舞い込みます。数種類のリアクションコメントも表示されます。