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【つの版】日本刀備忘録10:中先代乱

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 鎌倉時代には備前や山城の刀工が鎌倉に赴いて腕を競い、国光や正宗などの優れた刀工が生まれました。しかし西暦1333年、鎌倉幕府は滅亡します。戦乱の中、鎌倉に集められていた刀工や名刀はどうなったのでしょうか。

◆逃◆

◆若◆


幕府滅亡

 この頃、朝廷は後深草天皇の系統である持明院統と、その弟・亀山天皇の系統である大覚寺統に分裂していました。両者は王家の家督者「治天の君」の座と広大な荘園の相続を巡って長年争い、皇族や貴族・寺社も両派閥に分かれて対立を深めていました。鎌倉幕府の執権北条氏はこれを仲裁し、2つの系統から交互に治天と天皇を立てるよう定めますが(両統迭立)、治天が交替するたびに両者は対立を深めていきます。

 文保2年(1318年)、大覚寺統の後宇多院は持明院統の花園天皇を退位させ、自らの子・尊治親王(後醍醐天皇)を擁立します。ただ皇太子には後宇多院により甥の邦良親王が指名され、大覚寺統による皇位統一のため早期の譲位が求められていたともいいます。後宇多院・後醍醐天皇は朝廷への中央集権政策を進めますが反対も強く、正中元年(1324年)には幕府打倒の陰謀の嫌疑をかけられて側近の日野資朝らが佐渡へ流されています。2年後には邦良親王が譲位前に薨御し、40歳近い後醍醐天皇は持明院統への譲位をせっつかれ、ついに側近と幕府打倒の陰謀をめぐらし始めます。

 元徳3年(1331年)4月、京都における幕府の出先機関・六波羅探題への密告により倒幕の陰謀が露見します。後醍醐天皇は三種の神器を携えて御所を脱出し、南の笠置山へ逃れて「元弘」と改元し挙兵しますが、幕府は大軍を派遣して速やかに鎮圧し、神器なしに持明院統の量仁親王を即位させます(光厳天皇)。敗れた後醍醐天皇は捕虜となり、承久の乱の先例に従って隠岐に配流され、倒幕計画に加わった者たちも厳しく処罰されます。元弘への改元も認められず、光厳天皇は翌年「正慶」と改元しています。

 しかし、河内では後醍醐天皇に与する楠木正成らが幕府軍に対して戦を挑み続け、後醍醐天皇の子・護良親王らは吉野に籠もって抵抗し、元弘3年/正慶2年(1333年)に播磨では赤松則村(円心)が幕府から離反、護良親王らに呼応して挙兵します。同年に後醍醐天皇は伯耆の豪族・名和長年の手引きで隠岐を脱出し、伯耆国船上山で天下に倒幕を呼びかけました。勢いづいた赤松円心らは近隣の武家や悪党を糾合し、ついに京都にまで攻め寄せます。

 幕府は名越高家(北条氏分家)と足利高氏を総大将として鎮圧に向かわせますが、高家は伏見で戦死してしまい、高氏は後醍醐天皇側に内応して幕府から離反、京都を制圧して六波羅探題を攻め滅ぼします。同じ頃に上野国では新田義貞が挙兵し、坂東の足利勢を含む東国武家を糾合して大軍となり、1ヶ月足らずで鎌倉を攻め滅ぼします。得宗の北条高時はじめ幕府中枢の800名が自害に追い込まれ、鎌倉幕府はあっけなく滅亡したのです。

鬼切安綱

 新田義貞は八幡太郎義家の息子・義国の子孫にあたり、義国の子らのうち義重が新田氏、義康が足利氏の祖となりました。しかし鎌倉幕府において新田氏の地位は足利氏より低く、宗主は代々足利氏の当主を烏帽子親として仕えている有様でした。本拠地の新田荘(現群馬県太田市)は足利荘(現栃木県足利市)に隣接し、馬牧には向いても農業には向かぬ荒地でしたが、義貞は分家の世良田氏が菩提寺としていた長楽寺に本領の一部を寄進して庇護者となり、門前町からの収入を確保するなど勢力の振興に尽力しています。

 元弘の乱において、義貞は他の御家人らとともに楠木正成討伐のため河内へ派遣されますが、元弘3年(1333年)3月に病気を理由に帰郷しました。幕府はこれを咎め、「6万貫の軍資金を5日で納めよ」と迫りますが、怒った義貞は幕府の使者を斬り殺し、ついに幕府に反旗を翻したのです。

 義貞は新田荘からまっすぐ南下して武蔵に入り、幕府軍を撃ち破りながら相模に侵攻、ついに鎌倉に迫りました。1370年頃に成立した『太平記』によると、義貞は守りを固めた鎌倉を攻め落とすため西の海側の稲村ヶ崎から攻め込もうとしますが、波打ち際まで崖が迫り、大軍が通れませんでした。そこで義貞が海中に太刀を投じて祈念すると、たちまち潮が引いて道ができたといいます(本当かどうか定かではありませんが)。

 また『太平記』によると、義貞はいつの頃からか源氏重代の太刀「鬼切」を持っていました。すなわち『平治物語』『源平盛衰記』にいう「鬚切」ですが、その来歴は『太平記』では異なっています。

 むかし伯耆国会見郡に大原五郎太夫安綱という鍛冶がおり、一心清浄の誠を至して刀剣を作り、田村の将軍(坂上田村麻呂)に奉りました。将軍は鈴鹿山中にいた鈴鹿御前という鬼女(女盗賊)をこの剣で退治し、伊勢神宮へ奉納しましたが、のち源頼光が伊勢に参宮した折にこれを授かり、代々源氏嫡流に伝来して天下の守りとしました。のち頼光の家来・渡辺綱はこれを貸し出され、大和国宇陀郡大森に出没する牛鬼を退治させました。また頼光の父・多田満仲がこれを用いて信濃国戸隠山の鬼を切ったともいい、これより「鬼切」と称されたといいます。

 源頼光と渡辺綱ら四天王は、大江山の酒吞童子という鬼を退治したことでも知られますが、その時の太刀は「血吸ちすい」という名であったと伝わります。しかし酒吞童子退治伝説は平安時代や鎌倉時代には現れず、室町時代になってようやく出現した話です。また鬼切を作った刀工を奥州の鍛冶や筑前から来た異国人とせず伯耆の出身としたのは、後醍醐天皇が隠岐を脱出して伯耆に来たことと関係があるのかも知れません。作刀時期を坂上田村麻呂まで遡らせたのは箔付けのための虚構でしょう。

 その後の来歴について『太平記』は記しませんが、前述のように鬼切は紆余曲折を経て頼朝の手に渡ったのち、弘安8年(1285年)に北条貞時が法華堂に納めたことになっています。とすると鎌倉陥落後に義貞が探し求めて手に入れたのでしょうか。「新田氏に代々伝えられていた」との伝説もありますが、源氏とはいえ頼朝の子孫でもなく、家格でも足利氏の方が上なのですから伝説に過ぎません。

中先代乱

 北条氏重代の太刀「鬼丸」について、『太平記』では時頼ではなく、初代執権時政の時に名付けられたものとします。また当時はまだいなかった粟田口国綱の作ではなく、奥州宮城郡の府の「三の真国」という鍛冶が三年精進潔斎し、七重にしめ縄を工房に張り巡らして鍛えたとします。ともに箔付けの虚構でしょうが、『太平記』によればのちに名越高家に授けられ、高家が伏見で戦死したのち、鎌倉の高時のもとへ戻されたといいます。そして鎌倉陥落後の鬼丸の行方については、こう記しています。

 相摸入道(高時)鎌倉の東勝寺にて自害に及ける時、此太刀を相摸入道の次男、少名亀寿に、家の重宝なればとて取せて、信濃国へ祝部を憑て落行。

『太平記』巻32

 高時の長男は幼名を万寿丸、元徳3年(1331年)末に7歳で元服して邦時と名乗りましたが、鎌倉陥落時に母方の叔父・五大院宗繁に裏切られて捕縛され、9歳で処刑されています。邦時の異母弟が亀寿(勝寿、勝長寿)で、北条得宗に仕える御内人であった信濃国諏訪大社の神官(祝部)に庇護されて鎌倉を脱出し、得宗家督の印たる鬼丸を携えて諏訪へ落ち延びました。彼はやがて信濃国で元服し、相模次郎時行と名乗ることになります。

 後醍醐天皇は京都に戻ると親政を開始し、矢継ぎ早に国政改革を開始します(建武新政)。また彼は足利高氏を倒幕の勲功第一として鎮守府将軍・左兵衛督に任じ、武蔵・下総・常陸を知行国として与え、自らの偏諱を授けて「尊氏」と改名させました。さらに義良親王・北畠親房顕家らを陸奥へ、成良親王・足利直義(尊氏の弟)らを鎌倉へ派遣して奥羽と坂東を統治させ、陸奥将軍府鎌倉将軍府を設置します。尊氏は朝廷鎮護のため軍勢を率いて京都にとどまりますが、護良親王は尊氏と対立して失脚し、鎌倉に送られ幽閉されました。義貞は鎌倉を足利氏に譲り渡して武者所の頭人となり、上野・越後・播磨守を兼ね、護良親王の捕縛にもあたっています。

 しかし後醍醐天皇の性急な改革は反発を招き、各地で北条氏残党の反乱が頻発、建武2年(1335年)には西園寺公宗・北条泰家(高時の弟)による後醍醐天皇暗殺計画が発覚しました。同年、信濃では10歳の時行が諏訪頼重に担がれて挙兵し、信濃守護と国司を撃破したのち上野に向かい、義貞と同じく武蔵を経て鎌倉へと攻め寄せました。直義は迎撃しますが撃ち破られ、時行に担がれぬよう護良親王を弑逆したのち、鎌倉を捨てて逃走します。

 京都で急報を受けた尊氏は、後醍醐天皇に時行討伐の許可を求め、さらに総追捕使・征夷大将軍の役職を要請します。天皇は要請を拒否しますが、尊氏は勅許を得ぬまま出陣し、直義と合流して時行軍を撃破、鎌倉を20日余りで奪還しました。諏訪頼重は責任をとって一族郎党とともに自害しますが、時行は死を偽装されて北条氏の故郷・伊豆へ落ち延び、匿われます。時行は「先代」の北条氏、「当代」の足利氏の間に鎌倉を占領したことから、誰言うともなく「中先代」「二十日先代」と呼ばれるようになりました。

 建武二年八月に鎌倉の合戦に打負て、諏防三河守(頼重)を始として宗との大名四十余人、大御堂(勝長寿院)の内に走入、顔の皮をはぎ自害したりし中に此太刀有ければ、定相摸次郎時行も此中に腹切てぞ有らんと人皆哀に思合へり。其時此太刀を取て新田殿に奉る。義貞不斜悦て、「是ぞ聞ゆる平氏の家に伝へたる鬼丸と云重宝也。」と秘蔵して持れける剣也。

『太平記』巻32

 また『太平記』によると、諏訪頼重らは時行の死を偽装するため自害の際に顔の皮を剥ぎ、鬼丸の太刀を時行らしき子供の死体の傍らに置いていました。鎌倉に入った足利軍がこれを回収したのち新田義貞に奉ったので、義貞は大変喜んだといいます。ただ当時京都にいた義貞が北条氏の太刀を格上の足利軍から奉られるとは奇妙な話で、本当かどうか定かでありませんが(最初の鎌倉陥落時に邦時が持っていたのを奪った可能性もあります)、こうして義貞は源氏の重宝「鬼切」と、平氏(北条氏)の重宝「鬼丸」をともに手に入れたと伝えられます。しかし義貞の命運も長くは続きませんでした。

◆鬼◆

◆滅◆

【続く】

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