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【つの版】度量衡比較・貨幣132

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 1713年にスペイン継承戦争が終結し、1715年にルイ14世が崩御すると、英国はフランスやハプスブルク家、ポルトガルと手を組んでスペインを抑え、均衡政策により西欧に平和をもたらします。この頃、東欧はオスマン帝国・スウェーデン・ロシアが覇権を争う激動の時代でした。

◆Russian◆

◆Roulette◆


大帝改幣

 西欧でプファルツ継承戦争が終結した頃(1697年)、モスクワ・ロシアの君主ピョートル1世は大使節団を西欧諸国に派遣し、自らもその中にお忍びで加わって諸国を歴訪しました。クールラント(ラトビア)、プロイセン、デンマーク、オランダを経て英国に到着し、西欧の先進文明を貪欲に学んだピョートルは、1698年に帰国すると急激な国政改革を推し進めます。

 この頃、ロシアにはコペイカ銀貨(0.4g)が主に流通しており、100コペイカ(40g)が1ルーブリとされていました。ピョートルの父アレクセイは、西欧諸国で流通していたターレル銀貨(イェフィモク)を導入しようとし、またコペイカを銅貨に置き換えようとしましたが、混乱を招いたため取りやめられていました。ピョートルはこの貨幣改革を再開したのです。

 1698年、コペイカ銀貨の重量が0.28gに減らされます。100コペイカ=1ルーブリはそのままですから、1ルーブリは必然的に西欧諸国のターレル銀貨と同じ28gになります。しかしルーブリ銀貨はまだ鋳造されず、1700年にはコペイカより低額面の各種新銅貨が、1701年にはルーブリより低額面の各種新銀貨が次々と発行されます。そして1704年、満を持して新しいルーブリ銀貨とコペイカ銅貨が発行されたのです。これらの新貨幣は、西欧式に機械で製造・打刻され、大きなサイズと正円形を特徴としていました。

 1700年に発行された新銅貨は、1/2コペイカに相当するデンガ、その半分(1/4コペイカ)のポルーシカ、さらに半分(1/8コペイカ)のポルポルーシカなどでした。当初は1プード(16,380g)の銅から12.8ルーブリ=1280コペイカ=2560デンガの銅貨が発行されたといいますから、1コペイカ(0.28gの銀貨)は約12.8gの銅貨と等価とされたわけです。銀:銅=1:45.7の比率ですが、1702年には1プードから15.4ルーブリ、1704年には20ルーブリ=2000コペイカとされます。とすると1コペイカ=8.19g、1デンガ=4.1gほどで、100コペイカ/銅819g=1ルーブリ/銀28g。銀:銅=1:29.25になりました。ただしルーブリ銀貨は純度が72%しかなく、含まれる銀は20gほどだったといいます。当時ロシアはポーランドを巡ってスウェーデンとの戦争(大北方戦争)に突入しており、軍事費が必要でした。コペイカ銀貨も銀の品位は77/96でしたから似たようなものですが。

 この頃、ロシアでは下級労働者の日当が5-8コペイカ、穀物1/10プード(1.6kg余)が1コペイカ、肉1/30プード(546g)が1コペイカでした。銀1gを現代日本円の1000円とすれば、1ルーブリ=2万円、1/100ルーブリ=1コペイカ=200円ですが、下級労働者とはいえ日当が1000-1600円とは酷い低賃金です。彼らの感覚からすれば1コペイカ=2000円、1ルーブリ=20万円ほどでしょうか。1デンガは1000円、ポルーシカは500円、ポルポルーシカは250円となるわけです。王侯貴族や西欧からすれば、ロシアの下級労働者や農奴は通常の1/10の賃金で働く、奴隷も同然の存在でした。

 またピョートルは有名な「ひげ税」を制定し、顎鬚を残したい者は代わりに税金を支払えと命じます。裕福な商人は年100ルーブリ、貴族や軍人、公務員は年60ルーブリ、モスクワ市民は年30ルーブリ、農民は都市に入る時と出る時に各半コペイカ(1デンガ)を納めよというのです。目端の利くものは顎鬚を剃ってピョートルに取り入り出世することになったでしょう。

銅貨半減

 しかしスウェーデンは恐るべき強敵でした。人口はロシアの1/3にも及びませんが、17世紀以来軍事大国として発展を遂げ、多数の常備軍、騎兵、銃砲を有しています。また欧州の穀倉地帯であるポーランドはスウェーデンの侵略に屈して属国化しており、オーストリアはスペイン継承戦争に介入しないようスウェーデンと条約を結んでいます。1708年に大軍を率いてロシア本土に攻め込んだスウェーデン国王カール12世に対し、ロシアは焦土作戦で対抗し、激戦の末にスウェーデン軍を撃ち破ります。

 カールはオスマン帝国へ亡命し、フランス大使とともにスルタンを焚き付けてロシアへ宣戦布告させますが、ピョートルはポーランドを属国化し、オスマン軍を撃破して講和条約を結び、ドイツ諸侯やプロイセン、英国とも手を組んでスウェーデンに対抗します。カールは各地を転戦した末1718年に戦死し、ロシアはスウェーデンを屈服させてバルト海沿岸に進出しました。勝ち誇ったピョートルは1721年に元老院から「インペラートル(皇帝)」の称号を奉らせ、名実ともにロシア帝国を打ち立てました。

 とはいえ20年にも及んだ大戦争はロシアを疲弊させ、貨幣にも影響が及んでいます。旧来のコペイカ銀貨は1718年1月まで鋳造が続けられていましたが、1713-14年と1718年には円形の新コペイカ銀貨が少量発行されました。これは従来のコペイカ銀貨の2倍の重量(0.57g)がありましたが、銀の品位は77/96から38/96と半分に減らされており、いわゆるビロン(半合金)貨幣でした。また1718年には銅貨自体の重量が1704年の半分に減らされ、1プードの銅から40ルーブリ相当の銅貨が製造されると定められました。すなわち1プード=4000コペイカで、1コペイカ銅貨は4.1gほどになります。

◆Russian◆

◆Roulette◆

【続く】

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