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【つの版】ウマと人類史:近世編27・北方戦争

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 ロシア皇帝ピョートルは、1697年から98年まで西欧諸国を歴訪し、先進的な技術や知識を多数の技術者もろとも持ち帰りました。彼によってロシアは近代国家への飛躍を遂げ、欧州列強の一翼を担う帝国へと発展します。

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国政改革

 1698年8月、モスクワに帰還したピョートルは、妃エヴドキヤを離縁してスーズダリの修道院に送り込みました。彼女はピョートルの母ナタリヤの勧めで1689年に嫁ぎ、1690年に息子アレクセイを産みましたが、次男アレクサンドルとパーヴェルは夭折しています。またピョートルは彼女の親族たちを頑迷固陋とみなして有力貴族に取り立ててやることもせず、オランダ人の愛妾アンナを寵愛し、エヴドキヤを嘆かせました。エヴドキヤは追放後もピョートルを恨み、のちに反ピョートル派の旗頭となっていきます。

 続いて、ピョートルは臣民一同に「顎髭を剃れ」と命じます。ロシアでは古来顎髭は成人男性の威厳の象徴として重要視され、宗教的な理由から聖職者は長く伸ばしていましたが、当時の西欧諸国では口元にちょび髭を生やす程度になっていたのです(19世紀にはまた顎髭を伸ばし始めますが)。江戸時代の日本人にちょんまげを切れと命じたり、清朝が辮髪を強制したようなもので、当然ながら保守派から反発を受けました。

 そこでピョートルは「ひげ税」を制定し、顎髭を残したい者は代わりに税金を支払えと命じます。裕福な商人は年100ルーブリ、貴族や軍人、公務員は年60ルーブリ、モスクワ市民は年30ルーブリ、農民は都市に入る時と出る時に各半コペイカ(1コペイカは1/100ルーブル)を納めよというのです。

 この頃のルーブル(複数形ルーブリ)は重さ28g、銀含有率72%の銀貨で銀20gに相当します。おおよそ現代日本の2万円に相当するとすれば、1コペイカは200円、30ルーブリは60万円、60ルーブリは120万円、100ルーブリは200万円にもなります。農民の多くは顎髭を残せたでしょう。

 ひげ税の支払いを拒否した者は、警察によって公の場で強制的に顎髭を剃られる刑罰を受けました。またひげ税を納めた者にはヒゲを刻んだメダルが授与され、これを携帯することが義務付けられました。ピョートルはさらに廷臣や役人に西欧式の衣服を着るよう義務付け、暦法も改正します。

 ロシアでは10世紀末に東ローマ帝国から正教を受け入れて以来、その暦法を採用して「世界創造紀元」を用いていました。これはギリシア語訳聖書において、神が世界を創造した時を元年とする紀年法で、キリスト紀元(A.D.=Anno Domini/主の年、いわゆる西暦紀元)に換算すれば紀元前5508年が元年となります。また9月1日を年初としていましたが、ピョートルは西暦1700年に1月1日を年初とし、世界創造紀元を7208年目にして廃止しました。

 ただし暦法は1582年10月にローマ教皇が制定したグレゴリオ暦ではなく、古来のユリウス暦のままとしました。カトリックの総本山のローマ教皇庁が決めたのですから、これを導入すれば正教会を否定するも同然です。欧州でもカトリック諸国はグレゴリオ暦を受け入れましたが、ドイツのプロテスタント諸侯やデンマークは1700年3月に、英国は1752年に、スウェーデン=フィンランドは1753年にようやく受容し、ロシアでは結局1918年のロシア革命までユリウス暦のままでした。

 ロシア正教会はこうした改革に激しく反発しましたが、1700年10月にモスクワ総主教アドリアンが亡くなると、ピョートルは後任の総主教の選任を認めず、代行のみを置くこととしました。のちには総主教座自体を廃止し、正教会を皇帝の管理下に置いています。これより1918年のロシア革命までモスクワ府主教はいても総主教はいなくなったのです。まあ総主教座が置かれたのも1589年ですから、110年ちょっとしか続いていないのですが。

北方戦争

 こうした改革を進めつつ、ピョートルはスウェーデンとの戦争の準備に邁進します。1699年9月、ロシア、ポーランド(兼ザクセン選帝侯領)、デンマークの三国はドレスデンにおいて反スウェーデン秘密同盟を締結し、ロシアはバルト海沿岸のイングリア、ポーランドはリヴォニア、デンマークは南に隣接するシュレースヴィヒ=ホルスタイン公国(スウェーデンの同盟国)へ侵攻することを決めました。

 スウェーデンは17世紀にバルト海沿岸部を手中に収め、「バルト帝国」ないし「スウェーデン帝国」と呼ばれる大国を築き上げていました。しかしプロイセンやデンマークなどが反発し、オランダやフランスなど周辺諸国を巻き込んでの戦争が繰り返され、次第に勢力を衰えさせています。1697年4月には国王カール11世が崩御し、14歳10ヶ月の少年王カール12世が即位したため、周辺諸国はこれを機会として対スウェーデン同盟を結んだわけです。これに対してカールは英国およびオランダと同盟を締結しました。

 1699年12月、まずポーランドがリヴォニアに攻め込み、リガを攻撃しますが撃退されます。これに続いて1700年2月、デンマークがシュレースヴィヒ=ホルシュタインへ侵攻、ポーランドも再度リガを攻めます。ロシアはこの時オスマン帝国との和平交渉中で動けず、8月にようやく宣戦布告します。

 カールはまずデンマークに照準を合わせ、7月に英国・オランダ艦隊の支援を受けてデンマーク艦隊を撃退、首都コペンハーゲンに進軍します。8月には早くもデンマークがスウェーデンと和平条約を結び、北方同盟から離脱してしまいました。ピョートルは遅れてナルヴァへ侵攻しますが、包囲が長期化して攻めあぐね、11月にスウェーデン騎兵を率いて駆けつけたカールによって吹雪の中で急襲を受け、散々に蹴散らされてしまいます。

 1701年、カールは返す刀でリガを包囲するポーランド軍を蹴散らし、1702年には国王アウグストの退位を求めてポーランドへ侵攻、ワルシャワやクラクフを陥落させて暴れまわります。ピョートルはこの隙に急いで軍隊を立て直し、大規模な徴兵を行い、外国人の専門家らを教師として西欧式の軍隊教育を施し、教会の鐘まで供出させて大砲を鋳造させます。1701年末、ロシア軍はリヴォニアへ再び進軍し、物量作戦でもってスウェーデン軍を圧倒します。1702年夏にはリヴォニアのスウェーデン軍を壊滅させ、10月にはイングリアへ侵攻、1704年夏にはドルパトとナルヴァがついに陥落します。

 1703年5月、ピョートルはイングリア地方のネヴァ川河口部に要塞を建設させ、ペトロパヴロフスクと名付けました。のちのサンクトペテルブルクです。付近にはニェンスカンという港町がありました。

波蘭没落

 1704年7月、カールはポーランド貴族スタニスワフ・レシチニスキを新たなポーランド国王に選出します。あからさまな傀儡ですが、アウグストはこれに対してピョートルと改めて同盟し、援軍を要請しました。ピョートルはポーランドへロシア軍を派遣し、アウグスト側の軍勢と連合してワルシャワを攻めますが、スウェーデン軍に阻まれて撃退されます。

 1705年10月、レシチニスキはワルシャワで戴冠式をあげ、11月にスウェーデンと条約を結び、ポーランドは事実上スウェーデンの属国となります。国内でのスウェーデンの占領・徴兵は無制限に許可され、ポーランドはスウェーデンの許可がなければ条約を締結できず、商品の輸出もスウェーデン領のリガを経由することと定められ、スウェーデン商人には免税・定住などの特権が認められます。さらにリヴォニアとクールラントはスウェーデンに引き渡されること、ロシアに引き渡されたスモレンスクとキエフ(キーウ)はポーランドが取り戻すことも決められます。

 この頃ポーランドのコサック領ドニエプル右岸ウクライナではイヴァン・マゼーパがヘーチマン(頭領)でしたが、彼はスウェーデン軍に味方し、ロシアに侵攻して左岸ウクライナを奪還しようと画策しています。

 1706年8月、スウェーデン軍はアウグストの本国ザクセンに侵攻し、9月に彼を退位に同意させ、レシチニスキを唯一の正統なポーランド王と認定させました。カールは奪われた領土を奪還するため、ピョートル率いるロシアと戦うことになります。

◆Top Gun◆

◆Maverick◆

【続く】

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