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【つの版】ウマと人類史:近世編28・瑞露大戦

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 1700年、皇帝ピョートル率いるロシア帝国はバルト海への出口を求め、スウェーデンとの戦争に乗り出します。スウェーデン王カール12世はデンマーク、ポーランドを矢継ぎ早に撃破し、ロシア軍も一時は撃破されたものの立て直し、イングリアとリヴォニアを占領しました。カールはポーランド王やウクライナ・コサックらを従え、ロシアとの戦いに挑みます。

◆General◆

◆Frost◆

瑞典東進

 スウェーデン王カール12世は、騎士道精神に溢れた軍事的天才でした。王国の人口は300万に過ぎませんでしたが、内政を重視した父によって国内は安定しており、徴兵制が敷かれ、7万人から12万人もの訓練された常備軍を動員できました。優れた騎兵のほか多数の銃砲を有し、占領地での掠奪や徴税・徴兵によってより多くの軍勢を動かすことも可能でした。

 対するロシアの人口は1000万を超えていましたが、開戦前の兵数は3万余で、外国人の将校が多数でした。ピョートルはスウェーデンに対抗するため大規模な軍制改革を行い、徴兵制を整備し、ロシア人将校を養成して、1707年には20万人もの大軍を動員できたといいます。

 周辺諸国のうち、ポーランドはスウェーデンの傀儡と化しています。神聖ローマ帝国皇帝ヨーゼフ1世は帝国内のザクセンまで攻め込んできたカールに恐れをなし、シレジア地方でのプロテスタントの権利をカトリックと平等にすることを認めることを条件に、スペイン継承戦争においてフランスに味方しないことを約束させます。

 この頃、西欧諸国はスペインの王位継承を巡って二つの陣営に分かれており、英国・オランダ・ポルトガル・アラゴン・プロイセン等はハプスブルク家に味方してフランス・カスティーリャ・バイエルン等と戦っています。そのためスウェーデンとロシアの戦いに介入するどころではありません。

 1707年、ピョートルはカールに和議を打診しますが、カールはロシアが占領した全ての土地の返還を要求し、交渉は物別れに終わります。同年9月、カールは4万4000の兵を率いてザクセンを出発し、ゆっくりと東に進軍を開始しました。目的地はイングリアやリヴォニアではなく、ロシア本土です。1708年1月、凍結したヴィスワ川を渡ってリトアニア領ベラルーシに入り、フロドナスマルホニを経てミンスクに到達します。

焦土作戦

 これに対し、ロシア軍はスキタイ以来の伝統である焦土作戦に出ます。フロドナ等の街は焼き払われたり放棄されたりしており、スウェーデン軍は補給不足や疫病、寒さに苦しめられました。カールはクールラントに駐屯するレーヴェンハウプト将軍率いる別働隊に使者を派遣し、10月までに補給を集めて本隊と合流せよと伝えています。6月に冬営地ミンスクを出発すると、スウェーデン軍はモスクワを制圧すべく、東のスモレンスクへ向かいます。

 ロシア軍はスウェーデン軍の渡河作戦を食い止められず、ホロウチンで撃ち破られます。しかし焦土作戦によりスウェーデン軍は補給が困難になり、モスクワへの直進を諦め、食糧補給が可能な穀倉地帯であるウクライナへ南下しました。ウクライナ右岸コサックの頭領マゼーパは数万のコサック兵と充分な補給を準備してカールと合流しようと図ります。

 1708年10月、ロシア軍はリガから南下してきたスウェーデン軍を阻んで散々に撃破します。さらにメーンシコフ将軍がマゼーパの本拠地バトゥールィンを襲撃し、マゼーパは這々の体で逃げ出します。レーヴェンハウプトとマゼーパは残った援軍(7000と5000)を率いてカールと合流したものの、食糧と大砲の大半を失っており、カールは食糧調達のためベラルーシやウクライナ各地で掠奪をするほかありませんでした。さらに冬将軍が襲いかかり、スウェーデン軍には数千の餓死者や病死者、凍死者が出ます。スウェーデン人が寒さに強いとはいえ、兵站を失って敵中に孤立すればこうなります。

 折悪しく、1708年後半から1709年前半にかけての欧州は大寒波に見舞われていました。英国でも1月の気温がマイナス12℃、大陸ではマイナス15℃を記録し、フランスでは大飢饉が発生して1710年末までに60万人が餓死したといいます。野外に陣営を張らざるを得ないスウェーデン軍の被害は大きく、対するロシア軍は寒波への備えが充分で屋内に宿営していました。

瑞露大戦

 天運に見放され、兵力を1/3の2万人ほどまで減らしたカールでしたが、1709年春に前進を再開し、ドニエプル川を渡って6月にはポルタヴァに到達します。奇しくもこのあたりには紀元前513年にスキタイを討伐したアケメネス朝ペルシア帝国の大王ダレイオスの軍勢が到達したと推測され、その城塞の遺跡が残っています。ピョートルは直ちに大軍を率いて駆けつけ、カールを逆に北から包囲しました。こちらの劣勢とみたカールはこれを突破して北方への脱出を図り、7月に会戦が勃発します。

 カールは6月に脚に銃撃を受けて負傷しており、指揮は将軍レーンスケルドに委ねられています。スウェーデン軍は2万のうち3000から4000をポルタヴァへの牽制に残すと、出せる兵は1万6000から1万7000に過ぎず、大遠征と焦土作戦、疫病と寒波でクタクタです。対するロシア軍は4万2000から4万5000もの大軍で、72門の大砲を装備しており、兵力は2倍以上で、さほど疲弊もしていません。ロシア領内で迎え撃つのですから兵站も充分です。しかしピョートルは慎重な姿勢を崩さず、川沿いに多数の堡塁を備えた堅牢な野戦陣地を築いて敵軍を待ち構えます。

 スウェーデン軍騎兵部隊は未明に堡塁めがけて奇襲突撃を開始し、迎撃に出たメーンシコフらのロシア騎兵部隊と激突、これを退けて堡塁を奪取します。しかしロシア軍は動きの遅い後続の歩兵部隊に集中砲火をかけて降伏させ、反撃に転じます。カールは全軍に撤退を命令、スウェーデン軍は野営地も放棄して南へ敗走しました。カールとマゼーパは追跡を逃れたものの、この敗戦で5000人以上のスウェーデン兵が戦死し、残りの将兵と援軍合わせて2万余はロシア軍に降伏、捕虜となってシベリアに送られました。

露土戦争

 1709年9月、マゼーパは亡命先のオスマン帝国領モルダヴィア(モルドバ)のベンデルで失意のうちに病死しました。アウグストは勢力を盛り返してポーランドを奪還し、10月にピョートルと会見して対スウェーデン同盟を復活させ、トルン条約を結びます。後ろ盾を失ったレシチニスキはスウェーデン領ポメラニアに亡命しました。さらにデンマークとの同盟も復活し、プロイセンとの交渉も進められます。スウェーデン帝国はカール不在のまま、周辺諸国によって解体・分割されようとしていました。

 しかしカールは諦めず、亡命先のオスマン帝国に対ロシア戦争を呼びかけます。オスマン帝国はロシアとの交渉で中立を維持していましたが、あまりロシアが強くなりすぎるとクリミアなど帝国北方が脅かされますし、アゾフ海から黒海への出口を奪われでもしたら帝都イスタンブールまでロシア艦隊が襲撃して来るかも知れません。

 さらにフランスのトルコ駐在大使がカールを支援し、宮廷工作を行います。フランスはスペイン継承戦争によりハプスブルク家や英国・オランダを敵に回し欧州で孤立していましたから、敵の敵は味方というわけです。オスマン皇帝アフメト3世は1710年11月に対ロシア開戦に踏み切り、駐在ロシア大使を投獄します。ピョートルはカールらの引き渡しを要求し、和平交渉を進めたものの決裂、1711年2月にオスマン帝国へ宣戦布告します。

 ピョートルはオスマン帝国の属国であるモルダヴィアとワラキアを唆して反乱させ、ロシア軍を再編成して南へ進軍します。しかしロシア軍は寒さに強くとも南国の猛暑には弱く、モルダヴィアやワラキアからの食糧補給も受けられないまま進軍しました。オスマン軍は準備不足のロシア軍を撃破してかなりの損害を与えたものの、ロシア軍も別働隊が敵軍の食糧基地を占領、集中砲火を浴びせてオスマン軍に損害を与えます。やむなくオスマン軍は7月にロシアと和睦し、プルト条約を結びました。

 この条約において、ロシアはアゾフをオスマン帝国に返還し、タガンログなどのロシア側の要塞を破壊すること、右岸ウクライナから撤退すること、ポーランドの政治への不介入、カールにロシア経由での帰国を許可することなどを約束します。オスマン帝国は満足して停戦しますが、ロシアを叩きたいカールやクリミアは戦争継続を主張します。皇帝アフメトは主戦論者に引きずられ、講和条件の履行の遅れを理由として二度に渡り開戦しますが、戦うこともなく和平を結んでいます。

流星落命

 立場が悪化したカールは1713年に幽閉されますが、1714年10月に単身騎馬で脱出、2週間足らずで北ドイツ(ポメラニア)のスウェーデン領シュトラールズントに帰還しました。この間にピョートルはハノーファー選帝侯やブランデンブルク=プロイセンと同盟して戦争に巻き込み、イングリア、リヴォニア、エストニアに加えてフィンランドを占領、モスクワからサンクトペテルブルクに遷都しています。

 カールは各地を転戦して抵抗しますが、もはやバルト帝国の崩壊を押し留めることはできず、ハノーファー選帝侯ゲオルクが英国王に即位したため英国までもが敵に回ります。カールはロシアと交渉を行いつつ西のノルウェーに攻め込みますが、1718年11月に頭部に流れ弾を受けて戦死しました。

 ロシア軍はスウェーデン本土への攻撃を繰り返し、これを脅威とした英国・デンマーク・プロイセンは対ロシアのためスウェーデンと講和します。1721年、スウェーデンはロシアと講和条約を締結し、イングリア、リヴォニア、エストニア、カレリアの大部分を正式に譲渡しました。ここに長きに渡る大北方戦争は終結し、スウェーデンに代わってロシアがバルト海東部の覇者となったのです。

俄羅皇帝

 勝ち誇ったピョートルは同年に元老院から「全ロシアのインペラートル」の称号を奉らせ、国号を正式に「ロシア帝国(ラスィーイスカヤ・インピェーリヤ、ロシアのインペラートルの国)」と定めます。

 それまでのモスクワ・ロシアの君主はカエサルが訛った「ツァーリ」を名乗っていましたが、インペラートルは古代ローマ帝国の皇帝が持っていた軍事指揮官としての称号であり、本来は「凱旋将軍」に呼びかけられるものでした。大北方戦争に勝利したピョートルにとってはふさわしいと言えるでしょう。またインペリウムは元老院から公職者に授けられた命令権のことでもあり、インペラートルはその職務範囲に対するインペリウムを持つ者のことです。「全ロシアのインペラートル」となったピョートルは、文字通りに「全ロシアに命令権を持つ」絶対君主、皇帝となったわけです。

 ここにロシアは名実ともに帝国となり、その君主は新たな帝号を名乗ることとなりました。しかしピョートルの寿命はまもなく尽き、ロシア帝国はまたしばらく混乱の時代を迎えることとなります。

◆IMPER◆

◆LLITTERI◆

【続く】

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