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【つの版】度量衡比較・貨幣76

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 足利義昭を京都から追放した織田信長は、幕府に代わって朝廷を権威の源泉とし、事実上の天下人となります。義昭は西国の毛利輝元を頼って信長包囲網を再構築しますが、信長は粘り強く戦い続け、諸大名の上に立って日本統一を成し遂げ得る存在となりました。

◆天下◆

◆布武◆

甲州征伐

 1581年(天正9年)、信長は京都と安土城で大規模な「馬揃え(軍事パレード)」を開催し、織田軍の実力を朝廷・民衆・武将・大名らにアピールしました。この時点での信長の版図は、東は家康領の遠江から西は備前まで(宇喜多直家は信長に寝返りました)、北は越前から南は大和まで広がっており、残る大敵は東の武田と上杉、西の毛利だけとなっています。

 同年、紀伊の高野山が信長に背いた荒木村重らの残党を匿い、根来衆や義昭と通じて反旗を翻します。また1579年に息子・織田信雄を敗った伊賀衆も不穏な動きをみせ、信長を南から脅かしました。信長は信雄を総大将とする5万の大軍を伊賀に向かわせ、一族の織田信張を総大将として高野山を攻撃させます。伊賀は内部での裏切りもあって勝利し、報復として大勢が殺戮されますが、高野山は頑強に応戦し、戦闘は長期化することになります。同年には上杉氏の占領する越中国に侵攻して大部分を制圧しました。

 1582年(天正10年)2月、武田信玄の娘婿・木曾義昌が調略を受けて信長に寝返り、まもなく信長は武田討伐のため大動員を発令します。徳川家康、北条氏直はこれに応じて遠江と相模から出兵し、信長の嫡男・信忠が総大将となって10万の大軍を率い、美濃から信濃へ進軍しました。武田勢はすでに調略されており、次々と織田軍に降伏します。駿河を守る穴山信君も家康に投降し、徳川軍を先導して富士川を遡り、甲斐国へ侵攻させました。

 諏訪にいた武田勝頼は急いで甲斐へ戻りますが、織田軍の勢いは凄まじく、3月8日には甲府が占領され、11日に勝頼は自刃に追い込まれました。甲斐武田氏はあっという間に滅亡し、信長は悠々と信濃に入って論功行賞を行い、武田の旧領を分配します。彼は家臣の滝川一益を関東管領に任命し、上野国と信濃の2郡を与え、北信濃4郡は森長可、南信濃は毛利長秀、穴山領を除く甲斐の大部分は河尻秀隆に授けました。そして家康はかつて育った駿河国を獲得し、旧今川領のほぼ全てを征服したのです。

 信長は甲府や富士山を見物し、家康や北条氏の接待を受け、浜松から船で吉田城に入り、清洲を経て安土城に戻ります。僅かな間に武田氏を滅ぼし、天下の名勝富士山を訪ね、故郷尾張を訪ねての悠々たる帰還は、人々に彼こそが天下人であると強く印象付けたことでしょう。関東や奥羽の大名たちはこぞって信長に使者を遣わして恭順し、朝廷は信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任ずるとの意向を伝えます。

中国攻略

 次なる信長の目標は、西国の大大名で足利義昭を奉じる毛利輝元です。本願寺が降り武田が滅んだとはいえ、山陰・山陽の中国十カ国を支配下に収め石見銀山も擁する毛利氏の勢力は侮り難く、瀬戸内海には海賊・水軍が跳梁跋扈して織田軍の兵站を脅かしました。信長はこれを牽制すべく九州に使節を派遣し、南九州の島津氏を大友氏と和解させて同盟に引き込みます。毛利氏らに対する中国路方面軍を率いていたのは、重臣の羽柴秀吉でした。

 秀吉は信長に低い身分から取り立てられた人物で、調略や外交、戦争など各方面で大活躍して出世を重ね、1577年から播磨国に対毛利方面軍の司令官として派遣されています。彼は黒田官兵衛らの協力により播磨・但馬を平定し、備前・美作を領有する大名となっていた宇喜多直家を調略し、反乱を兵糧攻めで鎮圧しつつ毛利と対峙していました。1581年(天正10年)には因幡と淡路を制圧し、翌年3月には備中に侵攻、毛利方の清水宗治が籠もる備中高松城を包囲しました。毛利輝元・吉川元春・小早川隆景らは5万の大軍を率いて備中救援に向かい、秀吉は信長に援軍を要請しています。

 四国では土佐の長宗我部元親が明智光秀の仲介で信長と同盟し、伊予・讃岐・阿波に侵攻して三好氏の残党らを打ち破っていました。しかし劣勢となった三好氏らは信長に降伏し、信長・秀吉らに働きかけて本領安堵を願います。1580年、信長は「土佐と阿波半国を安堵するから、占領地はもとの領主に戻せ」と元親に伝え、怒った元親は信長に反旗を翻しました。彼は毛利氏とは敵対していたものの、敵の敵は味方ですから毛利氏と手を組むおそれは充分にあります。

 1581年(天正9年)3月、信長は三好康長・十河存保らを支援して元親を攻撃させ、翌1582年(天正10年)5月には信長の子・信孝を総大将とした四国討伐軍が編成されます。元親を見限って三好氏らに寝返る者が相次ぎ、恐れた元親は恭順する意向を示しますが、その矢先に本能寺の変が勃発します。

本能寺変

 この頃、明智光秀は織田家屈指の重臣でした。1579年には長期戦の末に丹波・丹後を平定し、丹波国を拝領して大名となり、北近江・山陰方面の諸大名を寄騎(与力、同盟者)として授けられました。秀吉が中国路、柴田勝家が北陸路、徳川家康が東海道を担当したように、光秀は近畿北部を指揮下に置いたのです。細川改め長岡藤孝は丹後国を授かり、元家臣であった光秀の寄騎となっています。信長とともに畿内近くにいた光秀は、京都での馬揃えの運営責任者などにも任じられ、甲州征伐にも信長と同行しました。

 天正10年(1582年)5月14日、信長は安土城で長岡藤孝と会い、翌日訪問する徳川家康・穴山信君らの接待を光秀に命じると告げます。光秀は知らせを受けて安土城へ駆けつけ、京や堺から珍物を沢山取り寄せ、翌15日から3日間、家康らを大いにもてなします。17日には秀吉から援軍要請の書簡が届き、信長は光秀と寄騎衆らに出兵を命じました。丹波・但馬から山陰道を進めば、因幡・伯耆・出雲などへ侵攻可能です。光秀は居城の近江坂本城へ飛び戻り、急いで寄騎衆を招集しました。饗応に不調法があったから解任されたわけではなく、援軍要請に応じて毛利氏を攻めるための当然の行動です。

 信長はその後も家康らとの饗宴を続け、「京都・大坂・奈良・堺をゆるりと見物されよ」と告げて21日に安土から送り出します。家康は僅かな供回りを連れて京都へ向かい、信長の嫡男・信忠も京都へ向かって妙覚寺に逗留します。29日、信長は名物茶器38点を携えて京都へ向かい、本能寺に逗留しました。6月1日には公卿や僧侶を集めて茶会を催し、ついで酒宴を催して信忠と酒を酌み交わしました。家康はすでに堺にいましたが、彼らの行動は単なる物見遊山ではなく、6月2日に渡海を予定していた四国討伐軍の見聞や毛利攻めの準備とも言われています。しかし信長に平定された畿内は平和で護衛の数も少なく、本能寺や妙覚寺は要塞化されて防衛面では優れていたとはいえ、大軍に襲撃されればひとたまりもない状況ではありました。

 光秀は5月末から丹波亀山城(京都府亀岡市、京都市街地の西)にあって軍勢を集めていましたが、6月1日に「上様(信長)が出陣前に陣容や馬を検分されるとの仰せだ」と告げ、手勢1万3000を率いて京都へ出発します。一行は丹波と山城の境をなす老ノ坂(大江山/大枝山)を越えて京都に入り、6月2日未明に本能寺を包囲しました。明智軍の将兵らは訝しみ「家康様を討ち取れという上様の密命だろうか」と噂したといい、光秀が「敵は本能寺にあり!」と言ったというのは後世の俗説のようです。

 油断していた信長は寺の門も開け放っており、四方から攻めかかった明智勢に応戦しますが衆寡敵せず、御殿に火を放ったのち切腹しました。享年は49歳です。信忠は異変を聞いて駆けつけようとしますが制止され、二条御所に籠もって手勢を呼び集めますが、明智勢に囲まれ応戦ののち自刃します。信長と信忠の遺骸は炎に飲まれて灰燼と化し、光秀は執拗に探させましたが見つかりませんでした。京都を電撃的に占領した光秀は、すぐに近江へ攻め込んで安土城を奪い、信長の集めていた財宝を接収します。ここに1568年から15年近く続いた織田信長の畿内政権は、武田氏滅亡から3ヶ月も経たぬうちにあっという間に滅亡したのです。

 世にも名高い「本能寺の変」ですが、原因については諸説が乱れ飛んでいて定説はありません。個人的な怨恨や野望、不安や義憤、朝廷や義昭、毛利氏や長宗我部氏、秀吉らの陰謀とする説などもあります。ただ少なくとも毛利氏はこの件において全く知らず、畿内を制圧する大チャンスにも関わらず秀吉と和睦し、動いていません。長宗我部元親は討伐を受けずに済みましたが、光秀が元親を助けるためだけにこんなことをするとも思えません。義昭や朝廷も何かした様子はなく、援軍を待っていた秀吉が光秀を唆したとすれば自殺行為です。おそらく様々な要因が積み重なって起きたのでしょう。無防備な信長と信忠がすぐ近くにいる状況で、光秀だけが多くの手勢を持っていたため、つい魔が差してやってしまった、ということかも知れません。

 しかし、織田氏はまだ滅びてはいません。各地に派遣されていた方面軍もそのままです。援軍を待っていた羽柴秀吉は急報を聞いて驚愕し、毛利氏と和睦すると全速力で畿内へ取って返し、光秀を討つことになります。

◆Monkey◆

◆Magic◆

【続く】

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