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【つの版】度量衡比較・貨幣75

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 1573年、武田信玄の病死によって信長包囲網は崩れ、信長は信玄と通じていた足利義昭を京都から追放します。事実上の室町幕府の滅亡ですが、彼は将軍職を退いたわけではなく、西国の毛利輝元らを頼ってなおも信長と対立を続けることになります。

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天正改元

 幕府に仕える奉行衆・奉公衆ら幕臣のうち、100名余りは義昭に従いましたが、細川藤孝・明智光秀ら多くの者は京都に残り信長に仕えました。細川藤孝は幕府名門・細川氏の出身ですが、明智光秀は美濃源氏の土岐氏の支流にあたります。彼は美濃守護の土岐氏が斎藤利政(道三)に滅ぼされた後、斎藤義龍、朝倉義景を経て幕臣の細川藤孝に仕え、義昭の家来に取り立てられた人物でした。義昭が信長のもとに身を寄せて上洛を果たすと、彼は義昭を奉じる織田政権のもとで転戦して手柄をたて、藤孝ともども義昭を見限り信長に仕えることになったのです。彼らは室町幕府の行政組織を引き継ぎ、信長の京都・畿内の統治を円滑ならしめました。

 義昭追放後、信長は自らの権威の拠り所として朝廷(内裏・天皇)を重んじ、新時代が来たとして元号を元亀から天正へ改めるよう奏上しました。改元のことは1年も前から朝廷で議論されており、義昭は改元に際して経費がかかるとして拒んでいましたが、信長は朝廷の意向を尊重する態度をとり、自らが足利氏に代わる新政権の長であることを内外に喧伝したのです。

 改元からまもない天正元年(1573年)8月、信長は宿敵である浅井長政・朝倉義景を攻撃し、ほぼ同時に滅ぼします。ついで伊勢長島に進軍して一向一揆の軍勢と戦いますが頑強な抵抗を受け、大垣城へ撤退します。一方で河内の若江城にいた足利義昭と三好義継(長慶の甥)に対して佐久間信盛らの軍勢を差し向け、義昭は紀伊へ逃げ延び、義継は自刃に追い込まれます。大和の松永久秀も信長に降り、三好勢は畿内での勢力を失って行きます。

長篠合戦

 しかし1574年(天正2年)正月、越前で一向一揆が勃発し、これに呼応して信玄の息子・武田勝頼が信濃から美濃へ侵攻しました。彼は母方の諏訪氏の跡を継いでいましたが、信玄の嫡男・義信が廃嫡されたため武田氏に戻り信玄の後継者となった人物です。彼は東美濃各地を荒らしまわり、遠江にも侵攻して各地で城を陥落させ、信長・家康を震え上がらせました。

 信長はまず水軍を使って伊勢長島の一向一揆を包囲させ、兵糧攻めを行って疲弊させたうえ、火縄銃を一斉射撃したり焼き討ちを行ったりして2万人を殺し、天正2年9月末にようやく全滅に追い込みます。この間も勝頼は美濃や遠江を荒らし回っていましたが、1575年(天正3年)4月には三河国長篠城に攻め寄せます。ここには武田から徳川に寝返った奥平貞昌(のち信昌と改名)が立てこもり、必死で抵抗しつつ織田・徳川の援軍を待っていました。

 5月、3万の兵を率いて岐阜を出陣した信長は家康らと合流し、長篠近郊の設楽原に布陣します。信長・家康連合軍は合計3万8000余、対する武田軍は1万5000余でしたが勢いに乗っており危険でした。信長と家康はここで勝頼の野望を打ち砕くべく、地形を利用して堅固な防衛線を構築しました。要所には土塁と馬防柵を張り巡らし、丘陵と河川を天然の防壁とし、各地に兵を潜ませて誘い込み、火縄銃と弓矢で撃滅する作戦です。

 信長はまず金森長近・酒井忠次らに別働隊を率いさせ、長篠城包囲の要である鳶ヶ巣山砦を奇襲させます。これにより大きな損害を受け、かつ退路と補給を絶たれた武田軍は浮足立ち、勝頼の決断により設楽原の敵陣に総攻撃をかけることになります。火縄銃は装填に時間がかかるため、当時の戦術として馬防柵を騎馬隊の突撃で踏み破り、背後の鉄砲隊を蹂躙することは可能でした。しかし敵に倍する兵力と堅固な要塞と化していた設楽原の陣営は、朝から昼まで続いた武田軍の猛攻に耐え、多数の敵将兵を討ち死にさせました。いわゆる「三段撃ち」は後世の俗説のようですが、信長軍が多数の火縄銃と防衛施設により襲い来る武田軍を徹底的に撃破したのは事実です。

 勝頼は信濃へ逃げ帰り、家康は三河から武田軍を追い払って遠江まで攻め込んだものの、武田はなおも甲斐・信濃・駿河・東遠江を領有する大大名でした。信長は武田との戦いを家康らに任せると、上洛して朝廷に戦勝を報告し、ついで越前の一向一揆を攻め滅ぼします。10月には本願寺との講和が成立し、播磨・但馬・飛騨の諸大名も上洛して信長に出仕します。

 11月には源頼朝に倣って従三位・権大納言・右近衛大将に任じられ、足利家に代わる事実上の天下人となります。同月に織田家の家督を嫡男信忠に譲りますが、大御所として実権は握ったままで、寺社や公家に所領を配布したりしています。また1576年(天正4年)正月には、琵琶湖南東に居城として安土城を建設し始めました。ここは岐阜城より京都に近く、琵琶湖の水運や北陸街道も利用でき、天下の中心地となり得る要地でした。

鞆浦幕府

 この頃、足利義昭は紀伊を放浪しながら諸大名に反信長同盟を呼びかけていましたが同調者を得られず、1576年2月に毛利輝元を頼って備後国のとも(現・広島県福山市鞆)に移動しました。この地は海運の要衝であり、かつて足利尊氏が新田義貞追討の院宣を受け、近くは義昭の祖父・義稙がここに拠り、大内義興の支援で上洛を果たしたこともあります。そして義昭は輝元に幕府復興を依頼し、ここに居座りました。

 毛利輝元は元就の孫にあたり、足利義輝から偏諱を受け、祖父の後見のもと1566年に宿敵・尼子氏を滅ぼして、山陰四カ国(石見・出雲・隠岐・伯耆)と山陽五国(長門・周防・安芸・備後・備中)を統べる大大名となっていました。ただ尼子氏や大内氏の残党が各地で反乱を起こし、筑前では大友氏との争いがあり、将軍を奉じて上洛することは難しい情勢でした。信長は阿波の三好氏牽制のため毛利氏と友好関係を結んでおり、1571年7月に元就が逝去すると弔慰の手紙を送っています。

 信長と輝元の領国の間には、因幡・但馬・丹後・美作・備前・播磨などの国々があり、因幡・但馬には山名氏、丹後には一色氏らが割拠していましたが、大大名は存在しませんでした。1573年(天正元年)、信長は備前の戦国大名・浦上宗景(もと守護大名赤松氏の家臣)に「備前・播磨・美作三カ国の支配権」を朱印状によって授けましたが、これに反抗した備前の宇喜多直家は毛利氏や周辺勢力と手を結び、浦上宗景に反旗を翻しました。

 輝元は直家の要請に応じて支援を行いますが、直家に父を殺された備中の三村元親が毛利氏から離反します。輝元は1575年(天正3年)に元親を攻め滅ぼし、浦上宗景を播磨に駆逐して備中を掌握、因幡・但馬の山名氏も服属させ、信長の領国と境を接することとなります。こうした状況下で義昭が鞆へ到来し、輝元に信長との対決を呼びかけたのです。

 信長が支配権を授けた浦上氏に逆らった以上、宇喜多直家は反信長派で、それを支援した毛利氏も同罪です。丹波・但馬・大坂・紀伊・大和などの諸将は勢いづいて武装蜂起し、武田勝頼・上杉謙信も呼応しました。1576年(天正4年)5月、毛利輝元は義昭を奉じて信長に敵対することとし、義昭は彼を副将軍に任じて西国諸侯の筆頭としました。かつての大内義興の如く、毛利氏は将軍を担いで上洛を目指すことになったのです。

 同年、豊後の大友宗麟は、家督を息子・義統に譲って大御所となり、北部九州を巡っての毛利氏との対立を続けました。義昭は怒って大友氏を「九州六ヶ国の兇徒」と呼び、肥前の龍造寺隆信、薩摩・大隅の島津氏、土佐の長宗我部氏らを支援して大友氏と戦わせています。大友氏は信長と手を結び、信長は大友氏に周防・長門の守護職を授けて毛利氏を西から脅かします。

 宗麟は肥前西部の大村氏と共にイエズス会やポルトガル商人(南蛮人)を庇護し、布教を許可する見返りに火縄銃や大砲・硝石を輸入して軍事力を強化していました。信長も同様にイエズス会やポルトガル人の活動を庇護し、本願寺や比叡山と対立しましたが、彼本人は日蓮宗を奉じて旗印に「南無妙法蓮華経」を用いており、キリスト教徒に改宗してはいません。

 イエズス会の宣教師ルイス・フロイスの記録に「武田信玄は信長への書状で自ら『天台座主沙門信玄』と称し、信長は返書に『第六天魔王信長』と記した。彼は比叡山を焼き払っても神仏の罰を信じず、我こそ生身の神仏なりと称した」とあります。ただしこれは同時代の他の記録にないため、仏教を偶像崇拝者として嫌っていたフロイスの造作かとも思われます。信長は自らに逆らう宗教とは戦い、自らに従う宗教は庇護したというだけでしょう。

織田右府

 信長軍に包囲された大坂本願寺は、紀伊雑賀衆や毛利輝元の支援を受けて活気づきます。瀬戸内海を抑える毛利の水軍は、織田の水軍を撃破して大坂に兵糧や弾薬を運び込みました。信長は義昭に対抗するため朝廷を動かし、自らを正三位・内大臣に昇進させて箔を付けると、1577年(天正5年)2月に紀伊へ出兵して雑賀衆を降伏させ、同年8月に謀反を起こした大和の松永久秀を攻撃して、10月には自害に追い込みます(彼が平蜘蛛茶釜ごと自爆したというのは後世の伝説ですが、自害前に打ち砕いたという話はあります)。

 信長は11月に従二位・右大臣に昇進し、翌年正月には正二位となります。右大臣は太政大臣・左大臣に次ぐ官位で、藤原摂関家がほぼ独占しており、武家で右大臣になったのは源実朝以来です。翌年4月には右大臣・右近衛大将を辞しますが、息子信忠に官位を譲ろうとしており、朝廷を権威の源泉として重んじていたのは明らかです。ただ正親町天皇を譲位させて皇太子を次の天皇に擁立しようとしたとか、安土城を御所にするつもりだとかは言われており、自らの権威づけのために朝廷を利用したには違いありません。

 幸いにも上杉謙信は1578年(天正6年)3月に脳溢血で死去し、信長包囲網の一角が崩れました。信長は北陸方面を柴田勝家に任せ、畿内を脅かす毛利や本願寺との戦いに力を注ぎます。各地での謀反に手を焼いたものの、1580年(天正8年)には播磨を制圧し、同年に本願寺が勅命による講和を受け入れ、関東の北条氏も信長に服属を申し出ます。武田や毛利や義昭はまだ従っていませんが、本願寺降伏を画期として、信長は畿内ばかりか日本統一(天下一統)を成し遂げ得る存在となったのです。

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【続く】

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