見出し画像

【つの版】度量衡比較・貨幣74

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 1568年(永禄11年)、尾張と美濃の大名・織田信長は足利義昭を奉じて上洛し、天下(畿内)を掌握しました。しかし彼の政権基盤は脆弱で、周辺諸勢力は虎視眈々と天下を狙い、信長包囲網を形成していきます。このうち特に重要な勢力が、甲斐と信濃を支配する大大名・武田信玄でした。

◆風林◆

◆火山◆

甲州黄金

 武田氏は河内源氏の支流・甲斐源氏の宗家で、頼朝や尊氏の祖・八幡太郎義家の弟・新羅三郎義光の末裔にあたる名門です。義光の子・武田冠者義清が天承元年(1131年)に甲斐に入ってより400年以上もこの地にあり、鎌倉時代より甲斐守護職をつとめていました。室町後期には国人や守護代が国内に割拠して力を失っていましたが、1465年に守護の武田信昌が守護代を倒して実権を掌握します。晩年には家督争いで再び甲斐は乱れますが、信昌の孫信虎が再統一し、甲斐を治める戦国大名となりました。

 信玄(晴信)はこの信虎の息子で、1540-50年代に信濃を平定して大大名となり、越後の長尾景虎(上杉謙信)と信濃を巡って渡り合いました。1554年には北条氏・今川氏と三国同盟を締結し、越後を牽制しています。出家入道して信玄と号したのは1559年、桶狭間の戦いの前年のことでした。

 山深い甲斐国(甲州)には黒川湯之奥など金山が多く、15世紀後半頃から砂金採取や金脈採掘が行われていました。武田氏は「金山衆」と呼ばれる専門の職能集団を組織し、金の採掘と精錬を行って資金源とし、高額の領国貨幣「甲州金」を鋳造・流通させています。これは碁石金ともいい、碁石めいた丸い金貨で、表面に両・分・朱・糸目など秤量単位が打刻されました。他に砂金や板金の形でも流通しています。

 甲州金の秤量単位は四進法で、1両は4.4匁(16.5g)、分は1/4両(1.1匁=4.125g)、朱は1/4分(1g余)、糸目は1/4朱にあたります。信長は金1両=銀7.5g(32匁)=銭1500文と定めていますから、仮に銭1文が現代日本円の100円相当とすれば金1両=15万円です。武田氏はこの金によって武具や兵糧を買い集め、あるいは恩賞や調略に用いて勢力を広げ、強国となりました。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Map_Japan_Genki1.png

 信長上洛と同年の1568年末、信玄は駿河に侵攻し、今川義元の息子・氏真を攻撃しました。三河の徳川家康は遠江割譲を条件として武田と同盟しますが、武田は翌年遠江に侵攻、今川を支援する北条領にも攻め込みます。そこで家康は武田と手を切って今川と和睦し、北条と結んで武田と戦うことになりました。また駿河から駆逐された今川氏真を庇護し、遠江の支配を固めています。信長は東方国境安定のため徳川・武田の両者と軍事同盟を結んでいましたが、徳川と武田は対立することとなったのです。

信長包囲

 この頃の信長の主な敵は、彼が駆逐した阿波の三好氏と、越前の朝倉義景です。義景は信長以前に義昭を庇護していましたが、上洛して畿内を制圧せよとの義昭の要請に応じず、失望した義昭に立ち去られています。また1568年には若狭に侵攻して義昭の縁者である若狭国主の武田元明を傀儡化しており、義昭・信長の上洛要請にも応じませんでした。

 1570年(永禄13年/元亀元年)4月、信長は家康らとともに若狭・越前討伐に出陣します。当初は優勢に戦を進めますが、突如北近江の浅井長政が朝倉氏に寝返り、信長に背後から襲いかかりました。彼は信長の妹(お市の方)と結婚しており、信長とは以前から同盟関係にありましたが、思わぬ裏切りに信長は驚愕し、急いで京都へ撤退します。

 これに乗じて近江の六角氏が蜂起し、南では摂津の武将・荒木村重が阿波の三好氏に内通、主君・池田勝正を追放して三好氏を呼び込みます。信長は体勢を立て直すと六角氏を退け、姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を破り、ついで三好氏を討つため足利義昭を奉じて摂津へ向かいます。信長は優勢に三好氏との戦いを進めますが、浄土真宗本願寺派(いわゆる一向宗)を率いる法主・顕如が三好氏に味方し、伊勢長島でも顕如の命を受けた門徒らが武装蜂起します。さらに近江の比叡山延暦寺も浅井・朝倉勢に味方して北から攻めかかりました。信長は南北から包囲されたのです。

 浄土真宗(浄土宗から「一向宗」と呼ばれました)は宗祖・親鸞の没後、本願寺・佛光寺・専修寺など各派に分かれていましたが、本願寺派教団の蓮如が15世紀後半に講を組織して全国に教勢を広げます。この講に集った信者(門徒)らは、乱世を生き抜くため宗教的団結心からなる一揆(同盟組織)を形成し、土豪や国人が加わって諸国の大名に反乱を繰り返しました。その勢いを恐れた日蓮宗は1532年に細川晴元と結んで山科本願寺を焼き討ちしますが、本願寺派教団は摂津国大坂の石山に本拠地を遷して要塞化し、大名に匹敵する権勢・武力・経済力を振るって恐れられていました。

 信長は苦戦の末に朝廷(正親町天皇)や将軍・足利義昭を担ぎ出し、その権威を背景として各勢力と和睦します。しかし1571年(元亀2年)には反撃を開始し、2月に南近江の佐和山城を攻略、5月に長島の一揆勢を攻撃、9月には比叡山焼き討ちを行いました。また三好氏を牽制するため西の毛利氏と同盟するなど粘り強く戦い続けますが、畿内では不穏な動きが始まります。

信玄西上

 信長は義昭の上洛を助けた功績があったものの、本来は幕臣や諸大名の連合体制の中での有力者の一人に過ぎませんでした。しかし「将軍の命令は信長だけが承る」として義昭の権力を統制し、幕臣や諸大名をないがしろにしたため、彼らの反感を買ったのです。義昭は信長なしでは無力ですからこれに従いますが、幕臣たちは反信長や反義昭に傾きました。

 1571年(元亀2年)5月、大和の松永久秀は河内半国守護・畠山秋高の家臣を殺害し、三好氏と連合して秋高を攻撃しました。信長と対立したのではなく、義昭を頂く幕臣の間での紛争ではありますが、義昭の後見人たる信長のお膝元で騒動を起こしたことに変わりはありません。また久秀は武田信玄と密かに手紙をやり取りしており、顕如や義昭も信玄と通じていたともいいます。同年には北条氏と信玄が秘密裏に和睦し、同盟を結びました。

 1572年(元亀3年)9月、信長は義昭に十七ヶ条の意見書を提出して脅しつけ、両者の関係は大いに悪化します。同年10月には武田信玄が多数の軍勢を集め、三河・遠江に侵攻しました。また美濃にも別働隊を向かわせ、信長との同盟を破棄します。ついに武田信玄が信長包囲網に加わったのです。

 信玄は事前の調略もあってたちまちのうちに遠江の大部分を支配下におさめ、三方ヶ原の戦いで徳川・織田連合軍を蹴散らしました(家康が糞を漏らして逃げたというのは後世の俗説のようです)。信玄勝利の報を聞いた義昭はついに信長を見限り、浅井・朝倉・武田・三好・松永・顕如ら反信長派の諸将に御内書(将軍の手紙)を送って同盟を結びます。信玄は兵を三河にまで進めて家康を脅かしますが、進軍途中で体調を崩し、1573年(元亀4年)4月に甲斐へ撤退、その道中で死去しました。

 岐阜にいた信長は京都へ進軍し、上京を焼き払って義昭を脅しつけると、朝廷を動かして講和したのち岐阜へ戻りました。しかし義昭は信玄の死を知らず、彼を頼りにして再び信長討伐を呼びかけます。怒った信長は7月に再び義昭を攻め、義昭は降伏したのち京都を去って河内へ遷りました。事実上の室町幕府の滅亡ですが、彼は将軍職を退いたわけではなく、西国の毛利氏らを頼ってなおも信長と対立を続けることになります。

◆どうする◆

◆家康◆

【続く】

つのにサポートすると、あなたには非常な幸福が舞い込みます。数種類のリアクションコメントも表示されます。