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【つの版】度量衡比較・貨幣73

 ドーモ、あけましておめでとうございます。三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 1565年、室町幕府将軍・足利義輝は松永久秀らによって暗殺され、新たな将軍義栄が擁立されます。しかし義輝の弟・義昭は逃亡し、諸大名は義昭を奉じて上洛し天下を差配せんと機をうかがいます。最終的に彼を担いで上洛を果たしたのは、東方の尾張と美濃の大名・織田信長でした。

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織田勃興

 織田氏はもと越前国丹生郡織田荘の出身で、建武の新政の時に越前守護となった足利氏の分家・斯波氏の被官となりました。15世紀初めに斯波氏が尾張や遠江の守護を兼ねるようになると、織田氏は尾張に守護代(守護職の代理)として派遣され、斯波氏を主君として代々尾張を治める家となります。しかし斯波氏も織田氏も各地に分家を派遣して統治を委ねていたため、所領争いや跡目争いで分裂・衰退しました。

 信長の父・信秀は、織田氏分家のひとつ弾正忠家の出身で、尾張守護の斯波氏を奉じて尾張の半分(下四郡)を治める守護代・清洲織田氏に仕える清洲三奉行の一人でした。彼の父・信定は河川交通の要所である津島を掌握して経済力を強め、津島牛頭天王社(津島神社)の神紋・木瓜紋を家紋としています。弾正忠家はこれによって主家を凌駕する権勢を獲得し、信秀の代には各地に拠点となる城を築き、1539年(天文8年)には熱田を掌握します。

ファイル:佐屋路と周辺の主要街道.png

 津島も熱田も交通の要衝で、市場や宿場として経済的に栄えており、神社を中心とすることから多くの氏子も抱えています。ここから関銭(交通料)や津料(港湾使用料)、市場税を取るだけで莫大な銭が手に入るのです。

 これをもとでとして、信秀は上洛して朝廷や幕府に献金し、伊勢神宮遷宮のために材木や銭700貫文(1貫文10万円として7000万円)、内裏の修復のために4000貫文(4億円)を献じました。信秀はこうした繋がりをアピールして権威付けとし、三河の松平氏、美濃の斎藤氏、駿河・遠江の今川氏などと渡り合ったのです。ただし彼はあくまで「守護代の奉行」の地位を変えず、権威の源泉である守護の斯波氏、守護代の清洲織田氏らを排除することのないまま戦国大名化しました。

信長興隆

 信長は1534年、この信秀の嫡男・吉法師として誕生しました。1546年に元服して三郎信長と名乗り、翌年には初陣を果たし、1549年には美濃の戦国大名・斎藤利政の娘と政略結婚を行っています。1552年に父・信秀が逝去すると、18歳の信長は家督を相続し、上総守(のち上総介)を名乗りました。

 利政が出家入道し道三と名乗るのは晩年の1554年です。彼は一代で油商人から美濃国主に成り上がった下剋上の典型とされますが、実際は父の長井新左衛門尉(峰丸、法蓮房、松波庄五郎、西村勘九郎)と前半生が混同されたもののようです。彼は僧侶から美濃で油商人を経て武士となり、美濃守護の土岐氏のお家争いに介入したといい、子の利政が守護代・斎藤氏の跡を継いで土岐氏を追放したのです。どのみち信長より遥かに成り上がりですが。

 若い信長は周囲からナメられ、清洲織田氏は権力を取り戻すべく信長と敵対しました。しかし信長は斎藤利政との同盟を後ろ盾として戦いを有利に進め、清洲で尾張守護の斯波義統が殺害されるとその子・義銀を庇護し、清洲の守護代家を滅ぼしました。しかし1556年に義父・斎藤道三が子の義龍に敗れて死亡し、信長は後ろ盾を失って孤立します。柴田勝家ら有力家臣は信長の弟・信勝を擁立して挙兵しますが、信長はこれを撃破して服属させ、尾張半国(上四郡)の守護代・織田伊勢守家を打倒して尾張をほぼ統一します。1559年2月、信長は500名の軍勢を率いて上洛し、三好長慶と和睦した将軍・足利義輝に謁見しました。

 この時の信長はようやく尾張を統一したに過ぎませんでしたが、東の今川義元は駿河・遠江の守護職たる大大名でした。家格でも今川氏は斯波氏より格上の「御一家」で、足利本家が断絶した場合は将軍職の継承権があるとさえ言われます。また隣国三河の統一を進めていた戦国大名・松平氏(もとは三河守護の一色氏や細川氏の家来ですが、守護代ではありません)と連合して尾張を攻め続け、この頃には松平氏の当主・元康を従わせ、三河に今川氏の代官を置いて統治下に置いていました。

 今川義元は尾張を攻め取るべく、1560年(永禄3年)5月に大軍を率いて攻め寄せます。今川氏は斯波氏・織田氏と長年領地争いを繰り広げており、尾張東部の那古野城(名古屋)はもと今川の領地でした。信長は籠城することなく迎撃に打って出ると、桶狭間の戦いで今川義元らを討ち取り、大勝利をおさめます。大混乱に陥った今川勢は分裂し、三河の松平元康はこれを好機として今川氏から独立、翌年信長と同盟を結びます。1563年には名付け親であった義元の「元」の字を捨てて「家康」と改名しました。1566年には朝廷から三河守に叙任され、「徳川」の氏を用いることになります。

 1561年に美濃の斎藤(一色)義龍が急死し、子の龍興が後を継ぐと、信長は美濃攻略を開始し、近江の浅井長政と同盟して美濃を牽制します。1565年には犬山城の織田信清を下して尾張を統一し、同年武田信玄と同盟します。こうした中で永禄の変が勃発し、足利義昭が近江に逃れて諸大名に上洛への協力を呼びかけたのです。信長は書状を送って協力を約束しますが、龍興の妨害によって果たせませんでした。そこで信長は美濃の諸将に調略を行って味方につけ、1567年(永禄10年)に龍興を討って伊勢国長島へ敗走させ、ついに美濃を平定します。龍興はその後も各地で信長に抗戦を続けますが、ここに近江を経ての信長・義昭上洛の道は開けました。

天下布武

 信長は美濃斎藤氏の居城・稲葉山城に遷って「岐阜城」と改名し、「天下布武」の朱印を用い始めました。岐阜とは古代チャイナの名君・周の文王と武王が岐山に拠点を置いて天下を平定したのにちなみますが、信長のいう天下とは日本全国ではなく五畿内(山城・大和・河内・摂津・和泉)を指し、布武とは武を用いて戦乱を止め平和をもたらすことを言います。また1565年9月からは、花押に瑞獣たる「」の字を用い始めたともされます。

 越前へ逃亡していた足利義昭は1568年7月に信長に招かれて岐阜に入り、9月に上洛を開始しました。三好政権は内ゲバを起こして相争っており、大和の松永久秀らは義昭・信長と誼を通じて歓迎します。信長らは南近江の六角氏を蹴散らして大津に進軍し、摂津の三好氏らは阿波へ逃亡して、義昭はさしたる抵抗を受けることなく京都に帰還します。ここに三好政権は崩壊し、畿内(天下)は義昭をいただく織田政権に掌握されたのです。

 この時、松永久秀は恭順のしるしとして、唐物茶入「九十九髪茄子」と名刀「薬研藤四郎」を信長に贈与しました。ともに足利義満が所有していたとされる宝物で、九十九髪茄子は茶人・村田珠光が銭99貫文(990万円)で購入したことからその名がついたともいいます。のち越前の武将・朝倉宗滴が500貫文(5000万円)で購入し、京都の豪商を経て松永久秀が1000貫文(1億円)で入手しました。1569年に信長に謁見したイエズス会の宣教師ルイス・フロイスは、この茶入が「3万クルサード(1クルサード10万円としても30億円)もする」と驚嘆しています。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Map_Japan_Genki1.png

 しかし織田政権の基盤は脆弱で、三好氏や周辺諸勢力は虎視眈々と復権や勢力拡大を狙っていました。信長は岐阜を拠点として伊勢や近江・越前・摂津を転戦しますが、次第に足利義昭とも対立するようになります。信長包囲網はやがて大きく広がり、信長は生き残りのため日本各地の勢力と戦うことになるのです。

永精鐚銭

 貨幣経済に早くから触れていた信長は、永楽通宝(永楽銭)を旗印に用いました。伊勢・尾張以東では西国とは異なり、永楽通宝は良銭として尊重され、特に関東では通常の銭より高価な基準通貨として扱われていました。実際に永楽銭が流通したのか、私鋳銭や計算単位として永楽銭が用いられただけなのかは議論がありますが、1565年には伊勢の大湊で「永楽銭1枚は鐚銭7枚にあたる」などの記録があります。1569年に小田原北条氏は「永楽銭1枚は精銭3枚」と定めていますから、永楽銭1枚=精銭3枚≒鐚銭7枚です。精銭1枚が100円相当なら、永楽銭は300円、鐚銭は43円弱となります。

 1553年から66年にかけて、明国の沿岸部では大規模な倭寇の襲撃と、それに対する明朝の反撃が行われていました。最終的に倭寇は鎮圧されますが、彼らは大量の明銭(永楽銭・私鋳銭・鐚銭含む)を日本にもたらします。これは石見銀山の銀とともに日本経済を活性化させました。こうした中で比較的品質のよい永楽銭が基準通貨になったのかも知れません。1569年、畿内北部を制圧した信長は堺に矢銭(軍資金)2万貫文(20億円)を要求しています。同年には撰銭令を定め、各種の鐚銭が何枚で精銭1文に当たるかを設定しました(2枚、5枚、10枚と格付けがあります)。

 また上洛前の1567年には、美濃国加納で有名な「楽市・楽座」を行いました。市では賦課(税金)をかけず(楽市)、特権的な商工業者ギルド(座)にとらわれず商売を許した(楽座)ため、各地から新興商人が集まって自由に商売を行うことができ、地域経済の活性化に繋がりました。これは別に信長の独創ではなく、1549年には近江の六角氏が「紙の楽市」を行っていますし、1566年には今川氏真が富士大宮で楽市を開きました。河内や伊勢桑名にも例が見られます。ただ領国全体で行ったわけではなく、城下町など領主権力が強い都市でのみ行われ、座の解体には至っていません。

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【続く】

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