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【つの版】度量衡比較・貨幣72

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 ポルトガル人やイエズス会が日本と交易を開始した頃、スペインは太平洋の彼方で銀山開発を進めていました。やがてスペインはフィリピンへ進出して来ますが、まずはザビエル離日後の日本を見ていきましょう。

◆戦国◆

◆乱世◆

文化受容

 1551年(天文20年)11月、ザビエルはトーレスに日本での布教活動を委ねると、鹿児島のベルナルドら日本人数名を率いて日本を離れ、マラッカを経て1552年2月にインドのゴアへ戻ります。ザビエルは同年4月にチャイナへの布教を目指してゴアを離れますが、12月に病没します。ゴアに残った日本人たちはイエズス会の学校で学んでいましたが次々と病死し、残ったベルナルドは1553年3月にゴアを出発、9月に日本人として初めてポルトガルに到達しました。彼はイエズス会の長ロヨラに招かれてローマに入り、教皇パウルス4世と謁見しますが、長旅のため体調を崩し、1557年3月に病死しました。遠く日本から来た彼の姿はヨーロッパ人に感銘を与えたといいます。

 日本では、ザビエルの盟友トーレスが豊後・周防・平戸を巡りながら地道な宣教活動を続け、信徒らを獲得していました。トーレスらは布教のために日本の文化を尊重し、衣食住を日本風に改め、通訳の力を借りながら日本語で伝道を行っています。こうしたやり方をインカルチュレーション(文化受容)といいます。ヤジロウはザビエル離日後に消息不明となりましたが、琵琶法師のロレンソ了斎はトーレスを支え、布教に尽力しています。

 1552年、ポルトガルの冒険商人アルメイダが平戸に来訪し、マカオとの交易を開始しました。彼は山口でトーレスに出会い感銘を受け、5000クルザード(6億円)もの私財を投じて豊後府内(大分市)に孤児院や病院を建て、日本に初めて西洋医学を伝えました。1556年にはイエズス会に入会し、宣教師として活動を始めます。彼はユダヤ教徒からカトリックに改宗したコンベルソの出自で、本国では差別されていましたが、学識深く医師免許も持ち、日本のイエズス会を財政面でも支えました。イエズス会士で元ユダヤ人ですから陰謀論界隈では中傷されますが、彼が善意によって多くの人を助けたことは確かです。ただ彼の担当は外科で、内科は日本人が担当しました。

毛利勃興

 彼らイエズス会の活動を庇護したのが、豊後の大名・大内義鎮です。彼は北の周防に弟の晴英(大内義長)を送り込んで当主とし、北部九州と周防・長門に影響力を広げる大大名となっていました。義鎮は各地の領主と戦って服属させ、家臣の謀叛も鎮圧し、1554年には近江にいた将軍・足利義輝に使節を派遣して肥前国の守護に任じられます。1556-57年には大内氏が所有していた「日本国王」の印を用いて遣明船を派遣し、朝貢貿易を行いました。

 しかし、義鎮の同盟相手であった陶晴賢は1555年に安芸の毛利元就に敗れて戦死します。彼は大内氏と尼子氏の間で揺れ動く小領主に過ぎませんでしたが、石見の吉川氏・安芸の小早川氏を養子縁組などで取り込んで勢力を広げ、大寧寺の変に際しても晴賢を支持しています。しかし晴賢が専横を行い人望を失ったのに乗じて反旗を翻し、晴賢を討ち取ったのです。1557年、元就は周防に攻め込み、義長を自害に追い込んで大内氏を滅亡させました。ここに毛利氏は西国の大大名となり、大友氏と対立することになります。

 大友義鎮は毛利氏に呼応した筑前国の秋月氏を滅ぼし、北部九州を確保しますが、戦略の転換を強いられます。そこで彼は京都へ使節を派遣し、室町将軍の権威をもって毛利元就を抑え込もうとしました。

義輝謁見

 1558年末、足利義輝は長年の戦いの末に三好長慶と和睦し、京都に戻って諸大名に官職をばらまき、幕府の権威を立て直そうとしていました。毛利氏も天皇や将軍に多額の献金を行い、その権威で所領を安堵されようとしていますから早いもの勝ちです。

 大友氏の権勢を示すためもあり、この使節にはポルトガル出身のイエズス会士ガスパル・ヴィレラ、日本人キリシタンのロレンソ了斎らが同行しました。ヴィレラは1556年に豊後府内に到来し、のち平戸で布教を行いましたが仏教徒の反発を受け、領主の松浦隆信により追い払われていました。彼らはザビエルが果たせなかった「日本国王」との謁見により、その権威によって日本国内での布教活動を許可してもらおうとしたのです。

 1559年(永禄2年)、大友義鎮の使節は京都に入り、足利義輝に謁見して多額の献金を行いました。義輝は喜んで6月に義鎮を筑前・豊前守護に、11月には九州探題に任じ、大内氏の家督とそれに伴う防長二国の守護の資格も与えています。これにより大友氏は九州の支配権を授かり、安芸守護の職しか授かれなかった毛利氏を防長二国から駆逐可能になったのです。毛利氏は名門大江氏の末裔を称していますが成り上がり者で、長年室町幕府に尽くして来た大友氏の方が権威では上だったようです。さらに翌年には畠山氏に匹敵する左衛門督の官位を授けられ、ヴィレラたちは京都や畿内でキリスト教を布教する許可を授かっています。

 しかし永禄3年末(1561年1月)、山陰の大大名であった尼子晴久が47歳で急死し、息子・義久が跡を継いだものの家臣団に動揺が走ります。毛利元就はこれを好機として石見に侵攻し、翌年に和議を結んで「石見不干渉」の条件を受諾させ、尼子家臣団を謀略で混乱させつつ、大友義鎮(1562年に出家入道し宗麟と号す)とも和議を結びました。また元就は幕府に多額の献金を行い、息子の隆元は安芸守護に加え備中・備後・長門・周防の守護職を授かることになりましたが、1563年9月に隆元は急死してしまいます。元就は隆元の息子・幸鶴丸(輝元)を当主に立て、尼子氏との合戦を継続しました。

 同年、肥前国の大名・大村純忠がトーレスから洗礼を受け、日本人初のキリシタン大名となっています。彼は前年にポルトガル船の寄港地として領内の横瀬浦を提供しており、改宗は経済的利益を求めてのことでしたが、領民にも改宗を強制し仏教徒を迫害するなど狂信的な人物でもあったようです。

 この頃、三好長慶の家臣で大和国(奈良県)を支配していた松永久秀は、仏教徒たちの依頼を受けてキリスト教の宣教師を追放しようとし、儒者の清原枝賢らを遣わしてロレンソ了斎らと議論させました。しかし清原と審議に当たった結城忠正・高山友照(高山右近の父)はかえってキリスト教に感化され、ついに洗礼を受けてキリスト教徒になったといいます。

永禄之変

 義輝・長慶の和睦により畿内の戦乱はおさまりましたが、1564年7月に長慶が死去するとパワーバランスが崩れ、義輝は諸大名の盟主として三好政権と対立します。これに対し1565年、三好・松永連合軍(三好三人衆)が義輝を襲撃して殺害し、堺公方・義維の子である義栄を将軍に擁立します。しかし義輝の同母弟で奈良興福寺にいた一乗院覚慶が幕臣の手引で脱出し、近江で還俗して義秋(のち義昭)と名乗って将軍を称します。

 足利将軍家は再び分裂し、諸大名は義昭を奉じて上洛し天下を差配せんと機をうかがい始めます。最終的に彼を担いで上洛を果たしたのは、東方の尾張と美濃の大名・織田信長でした。

◆信長◆

◆野望◆

【続く】

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