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【つの版】度量衡比較・貨幣71

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 日本と南蛮(ポルトガル)との貿易は加熱し、大量の銀が輸出され、世界経済を動かしていきました。同じ頃、メキシコやペルーでも銀山開発が進められ、世界には大量の銀が流れ出し始めます。いったん日本から離れ、世界に目を戻してみましょう。

◆ハイパー◆

◆インフレーション◆

銀山開発

 アステカ帝国が征服された後、スペイン人はメソアメリカ各地で調査を行って鉱山を見つけ出しました。1532年には現ゲレロ州のタスコ(メキシコシティ南西170km)で銀の鉱脈が発見され、1540年代には北西のグアナファトで金銀の鉱床が見つかります。これらはかなりの富をもたらしましたが、メキシコで最大級の銀山は、さらに北方のサカテカスにありました。

 1540年頃に征服されたこの地では、1546年に岩石の調査によって銀と鉛が産出することが確認され、1548年に銀山が開発されました。この地には多数のスペイン人が集まり、メキシコシティに匹敵する都市となっていきます。

 1545年頃、南アメリカのペルー副王領東部(現ボリビア)ではポトシ銀山が開発されました。先住民は労働力として苛酷な鉱山採掘に駆り出されて死んでいきますが、補って有り余る富を産み出します。

 20年後にはポトシの良質な自然銀は掘り尽くされてしまいますが、同じ頃ペルーのワンカベリカ鉱山で水銀の鉱床が発見され、水銀アマルガム法による銀の大量精錬が可能になります。それまで水銀はスペイン本国からの輸入に頼っていたのですが、これで近場で調達可能となり、ポトシの銀生産力は1575年から1590年までの間に6倍となります。また16世紀から18世紀にかけて、ポトシの銀は世界の銀産出量の8割を占めたといいます。当然凄まじい量の水銀が消費され、労働者は劣悪な労働環境で大量に死んでいきました。

 ペルーの北東、現コロンビアには「エル・ドラード(スペイン語で「黄金の人」)の伝説があり、黄金を纏った人々が住む黄金郷があると信じられていました。これは現ボゴタ付近に住むムイスカ人が湖に黄金製品を捧げる儀式を行っていた話に尾鰭がついたもののようですが、スペイン人たちは一攫千金を求め、血眼になって黄金郷を探索しています。ボゴタは1538年に征服されて植民都市が建設され、今はコロンビアの首都となっています。

価格革命

 これら「新大陸」から産出した大量の銀はスペインを経由して欧州にもたらされ、銀の値崩れと、それに伴う大規模なインフレーション(物価上昇)をもたらしました。15世紀後半から17世紀前半の150年間に、物価は平均して3倍(2-6倍とも)に上昇しています。これは年1.2%に相当し、当時としては相当なインフレ率です。黒死病から立ち直った社会の人口増加と都市化がインフレに拍車をかけ、永続的なものとしました。議論はありますが、銀の値崩れだけでも人口増加だけでもなく、両方が原因となったのでしょう。

 15世紀後半から16世紀前半には、ボヘミアやドイツ、オーストリアなど中欧で盛んに銀が採掘されていました。欧州の銀生産量はこの間に倍増しており、ドゥカート/グルデン金貨に相当する大型銀貨ターラー(ターレル)が誕生したのもこの頃です。しかし欧州の銀生産量は1530年代にピークを迎え、30年間ゆっくりと減少したのち、1560年代から激減しています。これはポトシなど新大陸の銀が大量に輸入されたことによるものと推測されます。

 加えて、この時代には君主による貨幣悪鋳が横行していました。この頃の英国王の年間歳入は20万ポンド(180万ドゥカート=2160億円)でしたが、毎年45万ポンドもの軍事費がかかっており、常に大赤字でした。英国王ヘンリー8世は、1526年に貨幣に含まれる銀の純度を半分に引き下げ、1544-46年には1/3にまで引き下げます。これは貨幣を安くすることで海外への輸出を強くし、フランスやスコットランドとの戦争で軍事費を調達するためでしたが、この横暴極まる政策によって物価は2-3倍に跳ね上がり、しかも賃金は上昇しなかったため困窮者が満ち溢れ、一揆が頻発しました。

 1547年にヘンリーが崩御したのち、1551年10月からは貨幣改鋳が行われて銀純度が引き上げられ良貨に戻りますが、スペインからの銀の流入でインフレに歯止めがかからず、輸出にも悪影響が出るという悪循環に陥ります。このため曲がりなりにも発展を続けていた英国経済は大不況に陥るのです。

 1551年、英国王室の金融代理人に任命されたトーマス・グレシャムは、アントウェルペンの取引所で金融操作を行い、負債の大部分を精算することに成功しました。彼は「悪貨は良貨を駆逐する」すなわち「品質の良い貨幣と悪い貨幣がある時、人々は(国が貨幣価値を保証する)悪い貨幣を使い、(実質価値が高い)良い貨幣は貯蓄していざという時の財産とするため、良貨は市場に出回りにくくなる」という古来の法則を国王に報告し、貨幣は全て良質なものにすべきであると進言しました。1858年に英国の経済学者マクロードがこれを取り上げ、「グレシャムの法則」と名付けています。

 具体的に見ていくと、1520年代にはドイツでは月に2グルデンあれば一家族がなんとか暮らせました。熟練職人や学校教師、傭兵なら月4グルデンほどですから、1グルデンは現代日本で12万円というところでしょう。神聖ローマ皇帝お抱えの絵師アルブレヒト・デューラーの年俸は、1520年時点で100グルデン(1200万円)でした。英国では小麦1クォーター(50.8kg、1人の1年間の消費量)あたり5シリング(1シリング=12ペンス=3万円として15万円)を上回ることはありませんでした。

 ところが、60年後の1580年頃には物価が3倍になっています。1グルデンの価値も1/3になり、12万円が4万円になったのです。特に穀物価格の上昇は劇的で、小麦1クォーターの価格は40シリングを下回らなくなりました。8倍から10倍もの上昇です。1シリングが1万円になったとしても、年間の小麦代が15万円だったのが40万円以上になったわけです。相次ぐ戦乱や飢饉、疫病や重税などにより、農村から都市に人口が流入して都市人口が急激に増大し、食料供給が需要に追いつかなくなったのです。当時の欧州は、同時代の日本の戦国時代が牧歌的に見えるほどのマッポーの世でした。

 これを解決するため、西欧諸国は東欧諸国から穀物を大量に輸入することにしました。ハンガリーはオスマン帝国にほぼ征服されていますから、この場合の東欧とは主にポーランド・リトアニアです。広大で肥沃かつ人口希薄なこの大国では、外貨獲得のため農民が農奴化させられ、大名じみた大貴族(マグナート)のもとで穀物生産に従事します。生産された穀物はバルト海からネーデルラントへ輸出され、西欧諸国に行き渡ったのです。ネーデルラントは英国との毛織物取引に代わり、穀物の輸出入で富み栄えました。

 ネーデルラントは神聖ローマ皇帝カール5世の生まれ育った土地であり、ハプスブルク家の支配する領域でした。しかしカールはフランスやオスマン帝国、プロテスタント諸侯との戦争によって湯水の如く帝国の収益を使わざるを得ず、インフレをまともに食らったこともあって莫大な財政赤字を抱え続けました。1556年に痛風が悪化して退位した時、彼の借金は3700万ドゥカート(1ドゥカート12万円として4.44兆円)にも達していたといいます。当時の帝国の歳入が200-250万ドゥカートですから、まさに桁違いです。

 がたついていたハプスブルク家の帝国をさらに揺るがしたのが、巨大な財源であるネーデルラントの独立運動です。カールは広大な帝国のうちオーストリアと帝位を弟フェルディナントに、スペインとネーデルラントと海外植民地を息子フェリペに分け与えましたが、フェリペはスペインで生まれ育ったガチガチのカトリックで、ネーデルラントに広まっていたプロテスタント勢力から嫌われていました。フランスや英国がこれにつけこみ、反スペインのプロパガンダを行って反乱を煽り立てます。またスペインの船に海賊行為を行い、カネを稼ぐとともにスペインに打撃を与えました。しかしフェリペはカトリックの盟主としてこれに立ち向かい、スペインに最後の黄金時代をもたらすことになります。

◆銀◆

◆龍◆

【続く】

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