【つの版】度量衡比較・貨幣84
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
英国女王エリザベスはネーデルラントやフランスのプロテスタント勢力に援助を与え、敵国スペインの船舶や植民地に対する海賊行為を支援します。その一人フランシス・ドレークはスペイン領に多大な被害を与えながら世界周航を果たし、莫大な財宝を持ち帰りました。激怒したスペインは各地のカトリックを支援して対抗し、ついに英西戦争が勃発します。
◆龍◆
◆戦◆
英蘭同盟
1584年6月、フランスの王族のアンジュー公フランソワが逝去します。彼はカトリックながらネーデルラントの反乱を支援しており、反乱指導者のオラニエ公ウィレム(彼も敬虔なカトリックでした)から「ネーデルラントの君主に迎えたい」と要請されています。またエリザベスも22歳も年下の彼との結婚による同盟を真剣に考え、しばしば打診していました。結局どちらも実現することなく、フランソワは29歳の若さで亡くなったのです。さらに翌月、オラニエ公ウィレムもフランス人のカトリック教徒に暗殺されます。
混乱する北ネーデルラント/オランダに対し、スペインのネーデルラント総督・パルマ公ファルネーゼは総攻撃をかけます。アントウェルペンやブリュッセルも陥落し、ウィレムの息子マウリッツは英国に助けを求めます。1585年8月、英国はオランダとの間に同盟条約を締結し、騎兵1000、歩兵6400および年60万フローリンの支援金を拠出すること、駐屯費用は英国が支払うことで合意します。その代償としてオランダはブリエルとフリシンゲンの二つの町を割譲し、連邦議会に2人の英国派の評議員を迎え入れました。
スペインはこれを宣戦布告とみなしますが、エリザベスは当初は全面戦争を行うつもりはなく、オランダを英国側に取り込みつつ有利な条件でスペインと講和する腹積もりでした。彼女がオランダへの援軍の指揮官として派遣したのは寵臣のレスター伯ダドリーで、「スペインとの戦いを避け、オランダで総督の地位を受け取らぬように」と命令されています。
1585年12月、英国軍を率いてオランダに到着したレスター伯は大歓迎を受け、女王の命令を無視してオランダ議会からネーデルラント総督の地位を受け取ってしまいます。怒った女王は彼を叱りつけますが、彼女がスペインとの秘密交渉を目論んでいたことはオランダ側の知るところとなり、支援を受けられなくなった英国軍とオランダ軍の士気もガタ落ちとなりました。
パルマ公率いるスペイン軍は、これに乗じて次々と都市を陥落させます。また英国やアイルランド、スコットランドのカトリック勢力もスペインからの支援で活気づき、1586年にはエリザベス女王暗殺未遂事件が勃発します。これにはイングランドに亡命していた前スコットランド女王メアリーが関与していたとされ、エリザベスはやむなく1587年2月に彼女を処刑しました。
海賊横行
こうした中、フランシス・ドレークはスペインへの海賊行為で大活躍しています。1585年9月にはプリマス港から大遠征に出発し、まずスペイン領ガリシアの港町ビーゴを襲撃します。さらにアフリカの西に浮かぶカーボベルデ諸島(ポルトガル領ですがフェリペがポルトガル王を兼ねています)のサンティアゴを占領したのち、大西洋を横断して1586年にイスパニョーラ島の植民都市サント・ドミンゴを襲撃しました。
続いて現コロンビアの港町カルタヘナを襲撃し、6月にはフロリダ半島に移動してサン・アグスティン(現セント・オーガスティン)を襲撃、現ノースカロライナ州ロアノーク島に建設され始めた英国植民地を経て、7月に英国へ帰還します。その戦利品はまたも莫大で(サント・ドミンゴでは身代金だけで2.5万ドゥカート≒6250ポンド≒6.25億円、カルタヘナでは身代金と略奪品合わせて85.7万ペソ/ドゥカート≒21.425万ポンド≒214.25億円とも)、ドレークは英雄として大歓迎を受けました。
翌1587年4月には女王の命令を受けてスペイン本土南西の港カディスを襲撃し、3日間占領して掠奪と破壊活動を行います。これにより対英国のために集結していた艦隊のうち30隻あまりが焼かれ、多数の店舗が破壊され、食糧を積んだ数隻の船が拿捕されました。さらにドレークは北上しつつポルトガル沿岸の要塞を襲撃し、100隻以上の船を破壊・拿捕し、船に水や酒を積むための樽材を大量に焼却しました。
続いてドレークはインドからポルトガルに戻ってきた商船サン・フィリペ号をアゾレス諸島沖で拿捕して、莫大な黄金・絹・香辛料を獲得しました。その積荷の総額は10.8万ポンド(108億円)と見積もられ、7月に帰国したのち5割は女王に献上され、1割はドレークのものとなります。またこの船にはインドでの取引に関する様々な機密文書が積まれており、英国にインドについての詳細な情報を与えることにもなったのです。
カディスとリスボンで対英国艦隊を建造していたスペイン海軍は、この一連の襲撃で大打撃を被りました。1571年10月にレパントの海戦でスペイン海軍がオスマン海軍を打ち破った時、オスマン帝国側は「奴らは我らのひげを剃り落としたに過ぎぬ。また生えてくる」と嘯きましたが、ドレークはこれを真似て「スペイン王のひげを焦がしてやったぞ!」と嘯いたといいます。
無敵艦隊
怒り狂ったフェリペは教皇シクストゥス5世からエリザベスの討伐を許可され、彼女に処刑されたスコットランド女王メアリーの遺言により、フェリペが選ぶ人物をイングランド王位に就けることも許されました。エリザベスは既に破門されていますから、これはカトリックによる正当な十字軍です。フェリペは財源として十字軍税を徴収し、改めて大艦隊を集結させました。
1586年の計画では796隻もの大艦隊が動員され、予算総額は15億2642万5898マラベディとされています。34マラベディで1レアル、8レアルで1ペソ≒1/4ポンド≒2.5万円ですから、34で割って約4489万4880レアル、8で割って561万1860ペソ、4で割って140万2965ポンド、およそ現代日本円に換算して1403億円です(とすると1マラベディ≒92円、1レアル≒3128円)。これは当時の英国の通常歳入の7倍、レパントの海戦に費やした経費(2.25億マラベディ≒60万エスクード強)の7倍にあたり、超大国スペインといえど無理な額でした。やむなくフェリペは艦隊規模を縮小させ、パルマ公の率いる陸軍を英国への上陸部隊に活用することとします。
波の穏やかな地中海では、櫂と帆を用いるガレー船やガレアス船が主流でしたが、大西洋や太平洋を航行するには大型帆船ガレオン船を用いました。当時の海戦は大砲で遠方から打撃を与えて無力化したのち、衝角をぶつけて沈没させるか、接舷して兵士が切り込んでくるという戦法です。英国船はスペインの船より小さいぶん機動性に優れ、軽量ながら射程の長い半カルバリン砲を積んでいて、大型のスペイン船を翻弄しました。そこでスペインは大型船の利点を活かすべく大砲の数を大幅に増やしますが、かえって船体が不安定になり、命中率は低下しました。とはいえ長距離砲も命中率や威力は低く、接近戦では兵数で勝り火力の高いスペインが有利です。
こうして編成された艦隊(Armada)は、ガレオン船20隻、大型帆船(武装キャラック船とハルク船)20隻、小型補給船34隻、ガレー船4隻、ガレアス船4隻等の計130隻から成り、水夫8000、兵士1.8万、真鍮砲1500門、鉄製大砲1000門に及びました。総司令官メディナ=シドニア公は名門貴族かつ温厚な行政官で海戦経験は皆無でしたが、有能な海軍軍人が補佐役に任命されます。艦隊規模は当初の計画の1/6に減ったものの、高価な大砲や砲弾・火薬を大量に積んだため、費用は当初の倍近い1000万ドゥカート≒250万ポンド(2500億円)にも膨れ上がっていたといいます。またスペイン領ネーデルラント(現ベルギー)ではパルマ公の兵3万が待機し、艦隊に護衛されて艀(はしけ)で英国へ上陸する手筈となっていました。
対するイングランドは、王室所属の軍艦(ガレオン船等)は34隻しかなかったものの、武装商船や私掠船(国家公認の海賊船)163隻をかき集めて197隻を揃え、総司令官にチャールズ・ハワード卿、副司令官にフランシス・ドレークを任命します。当然指揮を取るのは英雄ドレークでした。1588年5月にリスボンを出航したスペイン艦隊は、7月末に英仏海峡に入ったところで英国艦隊の襲撃を受け、遠距離砲撃を浴びて大打撃を被ります。
なんとかカレー沖に到達したスペイン艦隊でしたが、ダンケルク港に集まっていたパルマ公の兵3万は疫病で半減していたうえ、港はオランダ艦隊に封鎖されて入ることも出ることもできません。さらにドレークは8隻の船に火薬や可燃物を積んで火をつけ、深夜に風上からスペイン艦隊へ突っ込ませます。混乱したスペイン側は打撃を受けて分散し、パルマ公との合流も叶わず、追撃を受けながら北上してスコットランドへ向かいました。
しかし海上で嵐に遭遇して甚大な被害を受け、上陸しての補給もままならず、アイルランド沖を南下して、這々の体でスペインに帰り着きます。乗組員は長旅と補給不足、戦と疫病でズタボロになっており、帰国できたのは半数の67隻・1万人で、船の半数は使用不能になっていました。対する英国の被害は軽微でしたが、疫病の流行で数千人が死んだともいいます。
英国とオランダは勝利に湧き、人々は「主は風を吹かせて彼らを吹き飛ばした」という聖句を刻んだメダルを鋳造し、神と女王を讃えたといいます。しかし英国も遠征先でしばしば敗れて制海権を得られず、英西戦争はエリザベスが崩御するまで20年も続くことになりました。
◆神◆
◆風◆
【続く】
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