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【つの版】度量衡比較・貨幣83

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 英国の新女王エリザベスは、父の遺産であった悪貨問題をなんとか解決しました。しかし国内には反エリザベス派や急進的なプロテスタント諸派も多く、国外では超大国スペインが英国をカトリック陣営に引き戻そうと狙っています。エリザベスは難しい舵取りを迫られることになりました。

◆英◆

◆国◆

宗教政策

 ヘンリー8世は、アン・ブーリンと正式に結婚するためローマ・カトリックから離脱してイングランド国教会を創設したのですから、二人の娘であるエリザベスはカトリック世界からすれば異端の庶子でした。異母姉メアリーは彼女を幽閉して殺そうとしたことさえあります。もしエリザベスがカトリックを迫害すれば、スペインを始めカトリック世界を敵に回し、十字軍が攻め込んでくるに違いありません。一方で急進的なプロテスタント諸派を弾圧しても、テロや内乱が勃発しかねません。となると、両者を刺激せぬようバランスをとりつつ、自らの権威と権力を国内で確立するしかありません。

 エリザベスは国王を唯一の首長(統治者)とするイングランド国教会を復活させ、法整備を進めます。一方で異端排斥法を廃止し、カトリックを弾圧することなく共存する方針を打ち出します。現実的ではありますが、カトリックも急進派プロテスタントもいい顔はしませんでした。国外ではスコットランド女王メアリー・スチュアートがフランスの支援を受けてイングランド王位を要求しており、エリザベスは親英派プロテスタントを支援して妨害するなど、結局は反カトリック的行動を取らざるを得ませんでした。

 国外からの介入を牽制するため、エリザベスはハプスブルク家に自分との結婚をちらつかせています。スペイン王フェリペ2世からの求婚は1559年に拒否しますが、彼の従弟でオーストリア公のカール2世と数年にわたって婚姻を交渉し、ローマ教皇による破門や十字軍の派遣を行わせないようにしたのです。この引き延ばし作戦は見破られ、1570年に教皇は彼女を破門しますが、エリザベスは続いてフランス王家との婚姻交渉を行い、カトリックやハプスブルク家を牽制しました。彼女には大勢の愛人もいましたが、誰とも結婚することがなく、後継者の指名さえも行いませんでした。

私掠海賊

 またエリザベスは外貨獲得のため、奴隷商人ジョン・ホーキンスの事業を支援しています。彼はイングランドの港町プリマス出身で、大西洋における黒人奴隷の貿易に携わっていましたが、1562年にスペインやポルトガルの許可を得ずにアフリカ西海岸へ向かい、ポルトガルの奴隷船を襲撃して奴隷300人あまりを手に入れ、勝手にカリブ海諸島のスペイン植民地で売却します。スペインは抗議し、英国商人がこの地で商売を行うことを禁じますが、この海賊行為は貧乏国イングランドに巨額の富をもたらしました。

 1564年、女王は彼に大型の船を提供し、二度目の航海に出発させます。ホーキンスは再びアフリカ西海岸へ向かい、海賊を働きながら400人の奴隷を捕まえ、スペインの役人を脅しながら奴隷を売却すると、1566年に帰還して莫大な富をもたらします。1567年には三度目の航海を開始し、またも400人の奴隷を捕らえてメキシコまで侵攻しますが、1568年ベラクルス沖の海戦でスペイン海軍に撃退されます。這々の体で帰国したホーキンスは、従弟のフランシス・ドレークとともに、スペインに対し雪辱を誓うことになります。

 ドレークは1570年から海賊としてカリブ海諸島でスペイン側の船や町を襲撃し始め、1573年にはパナマから金銀を運ぶラバ隊を襲撃して大量の財宝を獲得します。1577年には「南アメリカ西海岸を南下し、太平洋へ通じる新しい航路を発見する」という名目で女王から多額の支援を受け、5隻の艦隊を率いて世界一周の大遠征に出発します。旗艦はガレオン船「ペリカン」で、1578年に「ゴールデン・ハインド(黄金の牝鹿)」と改名されました。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:DRAKE_1577-1580.png

 プリマス港を出航したドレークらは、西アフリカ沿岸を南下したのち大西洋を渡ってブラジルに至り、1578年にマゼラン海峡に到達します。しかし暴風に遭って南へ流され、フエゴ諸島南端のホーン岬と、その南に広がる広大な海(南極大陸との間のドレーク海峡)を発見しました。彼はここから北上して太平洋側に出、スペイン領ペルー(現チリ、ペルー、エクアドルなど)の沿岸を北上しながら、船や港町を襲撃して財宝を掠奪します。

 1579年3月、ドレークは現エクアドル沖でスペインのガレオン船「受胎の聖母」号(愛称はカカフエゴ/火を放つもの)を襲撃し、拿捕することに成功しました。この船には銀26t、黄金80ポンド(500kg)のほか貨幣・磁器・宝石・装飾品が多数積まれており、総額は36万ペソ、英国の貨幣で20万ポンド(1ポンド≒10万円として200億円)にも相当し、積み替えるだけで6日を要したといいます。ドレークはさらに北上してメキシコやカリフォルニアの沿岸まで到達したのち、マゼランにならって太平洋を西へ横断します。

 すでにスペインのマニラ・ガレオンがメキシコとマニラの間を往復していましたから、その航路を進めばスペイン船がおり、補給路も確保できます。ドレークはパラオを経てミンダナオ島に到達し、ポルトガル領のモルッカ諸島(香料諸島)に至り、高価な香辛料のクローブを6tも積み込みます。さらにインド洋南部を横断して喜望峰に達し、アフリカ西海岸を北上して、1580年9月26日にプリマス港へ戻って来ます。5隻あった船は旗艦だけになっていましたが、積荷の売上は60万ポンド(600億円)出資額の47倍もの利益となり、半分の30万ポンドが女王と国庫に納められます(女王の取り分は16万ポンド)。当時のイングランド王国の歳入は20万ポンドでした。

 この臨時収入により、王室は溜まっていた債務を全て清算し、残金はオスマン帝国との取引を行う国策会社(レヴァント会社、東インド会社の前身)に投資されました。ドレークは海軍中将に任命され、叙勲を受けて「サー」の称号を賜り、翌年にはプリマスの市長に選ばれます。スペインは激怒して反エリザベスのため各地のカトリック勢力を支援しますが、エリザベスはフランスやプロテスタント勢力を支援して対抗し、両国の緊張関係は高まりました。そして1585年、長きにわたる英西戦争が勃発するのです。

◆海◆

◆賊◆

【続く】

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