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【つの版】ユダヤの闇04・西欧動乱

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

ルターが起こした宗教改革は各地へ飛び火し、様々な分派を生みます。北欧諸国やイングランドもカトリック教会から独立し、神聖ローマ帝国の諸侯は反皇帝同盟を結びました。欧州はさらなる動乱の時代を迎えます。

◆Tarkus◆

◆Tarkus◆

合従連衡

16世紀の欧州情勢は複雑怪奇です。まず1516年、スペイン王フェルディナンドの跡をハプスブルク家のカールが継承しました。カールは1519年には神聖ローマ皇帝に選出されます。南イタリアは既にスペイン領でしたから、カールの帝国は欧州最大となりました。またスペインは大西洋の彼方に南北アメリカ大陸を発見し、既に征服活動を開始していますし、1522年にはマゼランが太平洋を横断しました。ブラジル・アフリカ・インド洋・東南アジアに進出したポルトガルと並ぶ、地球規模の海洋世界帝国の誕生です。

フランス王フランソワはカールと敵対し、イタリアへ進出します。彼は皇帝の勢力拡大を危険視する教皇と手を結び、イングランド王ヘンリーやルター派の諸侯、果てはオスマン帝国とまで同盟を結びました。カールもこれに対してイタリアを攻撃し、1526年にはフランソワを一時捕虜にしています。両国の争いでイタリアは荒廃し、ヴェネツィアが勢力を伸ばしました。

1534年、パリ大学でイグナチオ・デ・ロヨラたちにより男子修道会「イエズス会」が創設されます。彼らは教皇に忠誠を誓い、プロテスタントへの抵抗と世界宣教を使命としていました。教会の改革に取り組み始めていた教皇パウルス3世は喜んで彼らに認可を与え、情熱に燃える彼らは遥か彼方の日本やチャイナにまで宣教師を派遣しています。

また欧州では大学教育の改革に取り組み、高い知的レベルを持った人材を多数輩出しました。彼らの活躍もあってフランス、南ドイツ、ボヘミア、ハンガリー、ポーランドではプロテスタントの進出が抑えられ、カトリック教会は勢力を強めました。またプロテスタントや国教会に支配された地域にも宣教師を送り込み、カトリックに引き戻すための陰謀を巡らしています。一方で異端審問や禁書目録の作成が行われたのもこの時代でした。

1555年、神聖ローマ帝国では皇帝とルター派諸侯との間に和議が結ばれ、互いに暴力を行使しないこと、諸侯はカトリックとルター派のどちらかを自由に選べ、領民の信仰は領主に従うことなどが取り決められます。妥協的だとして教皇は喜びませんでしたが、これで帝国の内乱は一時収まりました。

この頃、フランスにノストラダムス(ミシェル・ド・ノートルダム)という医師がおり、詩人・占星術師としても多くの著作を残しています。彼の父方の曽祖父はユダヤ教徒で、アヴィニョンで商業を営んでいましたが、1453年にキリスト教に改宗しました。その後も代々カトリックで、母方もカトリックのため、ミシェルはユダヤ教徒でもユダヤ人でもありません。後世に彼の予言書がもてはやされると、カバラがどうのと尾鰭がつきました。

英国動乱

イングランドでは、1547年にヘンリー8世が崩御すると、幼い息子エドワード6世が即位します。1553年に彼が崩御するとヘンリーとアラゴン王女の娘メアリーが擁立され、女王として即位します。彼女は母方からしてバリバリのカトリックで、プロテスタントとイングランド国教会を弾圧し、300人を処刑しました。さらにカール5世の子フェリペと結婚しますが、子を儲けることなく1558年に崩御しています。

続いて即位した女王エリザベス1世は、イングランド国教会を復活させ、かつ国内のカトリックも弾圧せずに共存する方針を打ち出しました。現実的ではありますが、教皇や皇帝からいい顔はされず、イングランドは国際的に孤立します。またスコットランド女王メアリー・スチュアートは、フランス王フランソワ2世の妃であり、当然カトリックで、ヘンリー7世の曾孫であったことからイングランドの王位を要求していました。

エリザベスはスコットランドのプロテスタント系貴族を支援してメアリーを孤立させた上、彼女に「夫殺し」の疑惑をかけて失脚させ、1568年に幽閉しました。ジョジョ第一部ではここで密かに処刑されていますが、史実のメアリーは脱獄して各地を転々とし、反エリザベスの陰謀を巡らします。

またエリザベスはネーデルラントやフランスの反乱を支援したり(オランダ独立戦争ユグノー戦争)、スペインの商船を海賊に襲わせたりやりたい放題でした。1587年にはついにメアリー・スチュアートが処刑され、怒ったスペインは「イングランド女王を僭称し、犯罪の僕であるエリザベス」を討伐せんと大艦隊を派遣しますが、大敗を喫して逃げ帰ります。

1589年にはカルヴァン派プロテスタント(ユグノー)の盟主アンリがフランス王に即位し、カトリックに改宗して国内を平定、1598年にナントの勅令を発布してユグノーにも信仰の自由を認めました。エリザベスは彼を支援しようと出兵しましたが、特に戦果もなく撤退しています。また晩年のエリザベスは、スペインの支援を受けたアイルランドの反乱にも直面しました。

ヨーロッパ諸国が地球規模で海外へ進出し、宗教改革によって分裂していく中で、イングランド王国は反カトリック・反ハプスブルク帝国の旗手として「大英帝国」への発展を始めました。またアメリカ大陸や日本から流れ込む大量の銀は価格革命を引き起こし、世界経済を活性化させます。ユダヤ人に頼らずとも多額のカネが稼げる時代が来たのです。

人肉裁判

このような時代に、劇作家ウィリアム・シェイクスピアがロンドンに現れます。彼は1594-97年頃に喜劇『ヴェニスの商人』を著し、ユダヤ人の金貸しシャイロックを登場させました。舞台は遥か異国ヴェネツィアです。原話は1383年にフィレンツェで書かれた『イル・ペコローネ』という説話集にありますが、シェイクスピアがオリジナリティをつけ加えました。

あらすじはこうです。放蕩者のバサーニオは、ベルモントの町に住む富豪の娘ポーシャと結婚したいと考え、友人であるヴェネツィアの貿易商アントーニオにカネを無心します。ところがアントーニオの全財産は航海中の商船に積まれていて(リスクヘッジを無視しています)貸せず、悪名高い高利貸しのユダヤ人シャイロックにカネを借りようということになりました。

シャイロックは日頃アントーニオに(阿漕な)商売を邪魔されて恨みを募らせており、意趣返しに「指定された日付までに借金を返せなければ、お前さんの肉を1ポンドよこせ」と条件をつけます。アントーニオはやむなく契約に合意し、バサーニオにカネを用立てますが(彼が行けばいいと思うのですが)、全財産を積んだ船が沈没して無一文になってしまいます。シャイロックはしめしめと喜びますが、彼の娘ジェシカは親父の阿漕さに嫌気がさし、財産を盗んで男と駆け落ちしてしまいました。

その頃バサーニオはポーシャに結婚を申し込み、無事に結婚が成立しましたが、アントーニオから「借金返済ができなくなった」と知らせを受けます。そこでポーシャに事情を話してカネを受け取り、アントーニオを救わんとヴェネツィアへ急ぎます。シャイロックはバサーニオから頑としてカネを受け取らず、裁判に訴えてアントーニオに「肉をよこせ」とゴネました。この時のシャイロックのセリフがふるっています。

(あいつの肉を削ぎ取れば)釣りの餌ぐらいにはなる、少なくとも復讐にはなるさ。あいつはおれをバカにし、ことごとくおれの邪魔をし、おれの損を嘲笑い、稼ぎを罵った。おれたちを侮辱し、取引を妨害し、俺の味方を尻込みさせ、敵を煽った。なぜだ? おれがユダヤ人(Jew)だからだ。
ユダヤ人には目がないか、手がないか。はらわた、手足、感覚、感情、情熱がないか。キリスト教徒と同じ物を食べ、武器で傷つき、病気に罹り、治療を受ければ治る。冬の寒さ、夏の暑さも感じる。ユダヤ人は刺されても血が出ないか? くすぐっても笑わないか? 毒を盛っても死なないか? 迫害されても復讐しないか? ユダヤ人もキリスト教徒と同じ人間だ! ユダヤ人がキリスト教徒に悪を働けば復讐される。キリスト教徒がユダヤ人に悪を働けば、どうだ? おれはキリスト教徒のお手本に従って、教わったとおりに復讐するぞ。でなけりゃ腹の虫がおさまらん!

まことにご立派なご意見ですが、だからって復讐のやり方がよろしくありません。そこで裁判官は「そんなら肉を切り取ってもよろしい。ただし、契約書には血について書かれておらぬ。もし肉を切った時に血が一滴でも流れれば、契約違反として全財産を没収する」とシャイロックに宣告します。

生きた人間から肉を切り取って、血が流れぬはずもありません。困ったシャイロックは「わかりました、カネでいいです」と降参しますが、裁判官は「お前はさっきカネを受け取るのを拒否したから認められぬ」と告げ、さらに「復讐心により、キリスト教徒であるアントーニオの命を奪おうとした罪は明白だ。殺人未遂罪で死刑とし、全財産は没収とする」と宣告します。

慈悲深いアントーニオはシャイロックをかばい、死刑の代わりにキリスト教徒に改宗すること、財産の半分を彼の娘ジェシカとその夫に与えることを求めます。やむなくシャイロックは娘ともども改宗します。そこへ沈没したはずのアントーニオの船が戻ってきて、めでたしめでたしというお話です。

原話では名無しのユダヤ人を、なかなか魅力的な悪党に仕立て上げていますね。現代的な視点からすればシャイロックが一方的にいじめられているように思えますが、当時のキリスト教徒の価値観からすれば「ユダヤ人が改宗して救われるとは、実に慈悲深くめでたいことだ」と思われたでしょう。なお当時のイングランドには、1290年の追放令によりユダヤ人はほとんど住んでいません。ヴェネツィアにはいますが、このような扱いは受けていません。

シャイロック(Shylock)とはユダヤ人の名前らしくありませんが、一説によれば当時債務問題で揉めていたマイケル・ロックという商人がモデルだともいいます。彼は「カナダで金鉱石を発見した」とうそぶく海賊兼探検家のフロビッシャーに投資しましたが、持ち帰られたのは黄金ではなく黄鉄鉱だったため、会社が破綻して大きな借金を背負っています。シャイ(shy)は「内気・臆病」ではなくシャイスター(shyster)、「いかさま師、詐欺師」から来ている、というのです。真偽の程は定かでありませんが、このマイケル・ロックの孫が有名な哲学者ジョン・ロックです。

◆Bill◆

◆Bruford◆

西欧ではプロテスタントとカトリックの対立で肩身が狭く、改宗しても怪しまれたユダヤ人でしたが、ヴェネツィアとポーランドとオスマン帝国では一定の権利が保証され、それなりに繁栄しています。特にポーランドでは貴族と農民の間にあって様々な特権を享受し、この国は「ユダヤ人の楽園」と呼ばれました。次回はポーランドにおけるユダヤ人の様子を見てみましょう。

【続く】

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