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とおまど、M-1に出る。 準決勝編

総目次

前話(シーズン4編) あらすじ
ノクチル一同で『カードメソッド』に基づくネタ制作に臨んだ結果、奔放な面々が提案するシュールな『思い出』によって奇矯なコント漫才が完成する。懸念が晴れ希望を胸にする樋口だったが、幼なじみの羽ばたきと自身の醜い内面に向き合うこととなった彼女は動揺する──


──────⑭ ハシルウマ


 
「──
 今の通知って、結果?」
 
「……あ、ああ──」
 
「あー
 ダメだったんだ」
 
「──い、いや……! じゃなくて!
 通過だ、『M-1準決勝』に出られるぞ……!」
 
「え……」
 
「やったな透、円香……! ははっ!」
 
「…………」
 
「え……うん──」
 
「──って、どうしたんだ?
 もっと喜んでいいんだぞ!」
 
「そっか……ふふっ
 嬉しい
 なんか実感ないだけ」
 
「あぁ、まぁ……
 俺も実感って言われるとな」
 
「あーあ あなたのせいですね」
 
「……そ、そうなのか?」
 
「はい 私はここまでくる気はありませんでした
 だから費やした時間も労力も、結果も
 全て、あなたのせい」
 
「うーん
 円香と透が出した結果だと思うけどなあ」
 
「私たちのせいってことですか?」
 
「そうだな、じゃあ円香たちのせいだ」
 
「……
 ふふっ
 ま、私もリタイアしなかったので願ったようなものですかね」
 
「かもしれないな」
 
「そこは断言してほしかったですね ミスター・ドリーマー?
 まあいいですけど」
 
「──
 それに、まだてっぺんじゃないし
 ……のぼらなきゃ、もっと」
 
「……円香、透」
 
「もっともっと、たくさんのぼるんでしょ?」
 
「ああ」
 
「樋口と一緒に」
 
「…………」
 
「うん、一緒にだ──」
 
「ふふっ
 忙しいね、樋口」
 
「…………」
 
「──……ネタ作り、増えるからさ」
 
 準決勝出場の決め手はネタにまつわるモチベーションによるものが大きい。4人で捻り出した思い出を軸にアイデアを凝集させて作った奇形的なコント漫才。幼気なイマジネーションがエキセントリックなとがりとして受容されたのも一つの理由だろうが、特に透の腰が乗った点がこれ以上なく大きい。それは大会に対する士気にも自然とつながったようだし、あのネタづくりが透にとって一つの転機となった感じがする。透は漫才ネタに『幼なじみの絆』を見たのだ。事実、準々決勝において透が畳み掛けたボケの乱打は恐ろしいほど冴えていて、会場の爆笑を恣にした。
 
 一方で私は『幼なじみ』をいいように支配してきた私自身という、臆病で醜い存在について向き合うことになった。パフォーマンスでの輝き方を俄に思い出し始めた透の傍ら、その透明な美しさに気圧され、羨み、ひどく取り乱しそうになる自分を抑えつつネタを終えた。


《──────これは、まどちゃんの『闘争』なんだよ》


 再びハードルが立ちはだかることもまたどうしようもなく私を憂鬱にする。越えられないハードルなんてない? 何度でもチャレンジしよう? プロデューサーはそう言うが、私たちが挑むこの戦いは、やり直しが効かないたった一度きりの、到底越えがたいハードルに相違ないのだ。
 準決勝出場はなんとか乗り越えることができた。その並大抵でない僥倖に対する達成感はもちろんある。しかしながらどちらかというとその栄誉に身の程が見合うか自問せしめる重圧が勝つ。勝因がひたすら『透の漫才』だったからだ。そこに私は必ずしも必要なかった。
 
 そんな演者の内面なんてまるで無視してプログラムは漸進していく。準決勝の速報記事はそろそろ出ているだろうし、『とおまど』は31組の通過者の筆頭として見出しに挙がる名前でさえあるかもしれない。それは次の進出が期待できる実力者の扱いなどでは当然なく、アイドルの知名度と話題性に乗っかったページビューを引き込む、商業的打算に基づくバリューに他ならない。
 
『続いては──』
 
「あ、この芸人さんは知ってるか?
 人気急上昇中で」
 
「………………」
 
「オーバーな一発芸が売りの」
 
『パーフェクト──パワーズ!!!!!』
 
「うぉふっ──……!!」
 
「────え!?!?」
 
「けふっ……、…………! こふっ、ぉふ…………」
 
「ど、どうした……!?」
 
「けふっ、こふっ………
 気管に……入っただ……けふっ……
 こんっ……んっ…… 、はあ……」
 
「──ははっ、まったく……
 笑いたい時には笑っていいのに、素直じゃないんだな」
 
「は?」
 
「すまん」
 
「……と、とりあえず拭くものを持ってくるよ」
 
「……
 すみません」
 
「いや仕方ないよ、この芸人さんは面白い」
 
「…………
 面白くありません」
 
 そういう贔屓をお笑いファンは面白く思わない。有名人の即席コンビだとか、視聴者投票によるワイルドカードや敗者復活上位に来るような芸人だって、実力以上の人気にあかせて票を獲得するいけ好かないユニットとして多かれ少なかれ叩かれてきた。
 ツイスタでエゴサでもしようものなら、アイドルコンビが次の舞台に立てること自体の是非を問う世論が囂々と渦巻いているに違いない。絶対に見たくない。
 望まないのに、ちやほやされて、祭り上げられて、そして事故を期待されて……『とおまど』は紛れもなく、本大会における──悪い意味での──台風の目なのだ。

 しかし──── 


《気ままに振る舞うとおるんに、なす術もなく振り回されるまどちゃん──
一時のらしくないノリで、漫才をやるハメになったまどちゃん──
透明感が売りのアイドルなのに、俗な芸人の力学に引き摺り下ろされたまどちゃん──
芸能界の構造の中で翻弄される『まどちゃん自身』を、観客は『笑う』んだよ》


 視聴者にとって優越の快を催す樋口円香の価値下落、それが『とおまど』漫才のメカニズム? そう思わせたままにしとくわけないでしょ。笑わせるのと笑われるのとじゃ、天と地ほどの違いがある。
 なればこそ、私たちはできることをこなしていかなければならない。少しでも身の程を合わせていくために。
 
 ──そして、ただの実力で世間をねじ伏せるために。
 
「…………はぁ
 ──ちょっと出かけてきます」
 
「ん、これからか?
 家に帰るんじゃなく……」
 
「今はそういう気分じゃないので
 あ、はづきさんに伝えておいてください──」
 
「『レッスン室の鍵、借ります』──か?」
 
「……!
 …………『レッスン室の鍵、明日返します』で」
 
「……はは、了解」
 
「…………いつから気付いてたの
 ……そういうところが嫌い」
 
* * *
 
 漫才の4分間。ただ突っ立って喋るだけに見えるそれには、意外なほどのカロリーを要する。それに加えて、私たちがこれまで臨んできたアイドルとしての公演とはまた異なる筋肉や神経を凝らさなければならない。
 
 例えば、コンサートライブとの比較──
 まず楽曲には一定のリズムがある。さらには曲構成の中のメロディセクションをバースで分割することができ、1番と2番の各コーラス、そしてAメロ・Bメロ・サビなど、全体の構成に対する現在位置を把握できる明瞭な目印が常に存在する。そんな心強いオフボ音源とフィードバックがステージ足元のフロアモニタースピーカーから私たち演者を心強く下支えてくれるため、ステップ、息継ぎ、パート連携などといったタイミングを測ることはそう難しくない。
 
 ところが漫才に音源はない。カウントもない。曲構成ほど明確なネタの位置基準もない。楽曲の再生時間が染みついた体内時計には今のところ助けられてこそいるが、実際に新ネタをそれへ完璧に沿わせられるかというとまた別の話だ。
 例えば去年の決勝におけるヨネダ2000『餅つき』ではリズムキープのため、本番前の楽屋にてBPM160カウントのメトロノームを聴き込んでいたともいう。それでも彼女ら曰く本番ではBPM159になってしまっていたそうで、後日そのことへの慚愧を口にしていた。このように漫才の時間管理は非常に難しい。

 あるいは、演劇との比較──
 日本の演芸文化の土壌で高度に奇形化した漫才は、台本で規定される観念的な言語ゲームの面白さというより、演者と観客の関係性──もちろん演者同士の関係性までも──を相互に結びつける『いま』、『ここ』の身体的な迫真性が肝となっている。それは脚本からの逸脱を許さない現代口語演劇の緻密な統率とはコンセプトを違えるものといえるかもしれない。
 会場ごとに、客ごとに、ネタ順ごとに、モチーフごとに、舞台における雰囲気はまるで異なる。観客の無言の要請に応えてテンポや声量を調節したりネタを転換したりと、空気を読んだ上での即興的な判断が必要になってくる。もちろんそうした選択によってネタ時間の中での会話密度が左右されるわけだが、少しでも相方に出遅れれば訝しい間が開き過ぎてしまうし、速すぎれば観客に伝わらない。そしてトチった時のリカバリーで生じる混乱……漫才というパフォーマンスは水物なのだ。
 
 『仕上がったネタ』の精度によってしっかりと客席の笑いをモノにしてきた私たちは、思えば『重い』観客の洗礼をまだ浴びずに済んでいる。それは自社劇場公演でのトライアンドエラーにより磨かれていく吉本芸人から大きく遅れをとる、『場数不足』という致命的な弱点だ。ステージ経験で鍛えられるスキルとはすなわち客席に対する『即応力』。これはネタ帳に向かって筆を走らせることで身につくものでは当然ない。
 行動選択と決定の主体を台本に預けきってしまったとき、演者は乗りそびれた観客を置き去りにすることとなる。そもそも台本が透けて見える漫才は端的に言って退屈だ。だからこそ演者は主体を演者自身に取り戻さなくてはならない。硬直した観念的セリフではなく、柔軟な身体的セリフにこそ客はのめり込むからだ。
 
 繰り返しになるが、それにはアイドルとしての公演と異なる筋肉や神経が必要となる。そういうわけで私は即興的判断を自在にする運動神経の獲得を次の課題に設定した。まあ、次のネタがまだできてないからでもあるんだけど。
 
「ちょうどダンスレッスン終わったって、2人とも」
 
「ん」
 
 事務所を後にした私と透は、一路レッスンルームへ向かう。
 まだ昼、せいぜい薄暮と思いたい時刻ではあるが、日増しに冬めいてきている今となっては日没がすっかり早い。辺りには既に街明かりが灯っていて、それをささやかに照らし返す黄葉の絨毯を踏み締めながら、足早に夜寒の冷気を突っ切る。透の頬と耳をやや赤らしめているのは、その冷気のためか、それとも選考結果への興奮か。心なしか足取りも弾んでいるように見える彼女を、私は自分の手をさすりながら追いかけた。
 
 この後行うのは思考・発声・身体の向上を一挙に図るとびきりハードな自主練メニューである。平常レッスンの外部トレーナーに頼んで組んでもらった、演劇の基礎訓練を参照したトレーニング。ここしばらくはそれを週何度かの頻度で続けている。
 レッスンルームでは今日のカリキュラムを終えた小糸と雛菜が待ってくれていた。2人にはトレーナーに代わってメニューの号令を掛けてもらったり、フッテージ撮影を消化してもらったりと、私と透で完結できない部分を補ってもらう。
 普段練習を終えたらとっとと帰りたがる雛菜が意外にも付き合ってくれるのは、手近にオモチャがあるからだろう。オモチャというのはタブレット端末がそうだし、ふらふらになるまで消耗する私たちでもある。
 柔軟体操と軽いウォームアップを済ませ、早速プログラムに移る。
 
「はい、それじゃ
 ニートゥーエルボー、20回。用意────」
 
 小糸の合図が放たれた。ワックスが艶めくフローリングにシューズの音が響き渡る。
 
 短距離走、発声、エチュードを織り交ぜたサーキットトレーニング。あたかも強豪高校演劇部のようなメニューだ。無酸素運動と有酸素運動を交互に繰り返し、短時間で心拍数を高める。心肺機能を上げることによってステージ上での息切れがしにくくなり、瞬発力と持久力を同時に鍛えることもできる。
 
「発声、ア行……!」
 
「あめんぼ あかいな アイウエオ──」
 
「あめんぼ あかいな アイウエオ」
 
「うきもに こえびも およいでる──」
 
「うきもに こえびも およいでる」
 
「ダッシュ往復──」
 
「はっ……はっ…………
 ────」
 
「…………っ……
 はっ……────」
 
(ミジンコには、
 心臓があるか)
 
「バーピージャンプ、20回──」
 
「…………っ
 ──────…………」
 
 動きの激しい漫才をやるかはわからないが、舞台上での行動に反射スピードが必要とされる以上、身体の制御性を高めておくことは決して無駄にならない。疲労が溜まると呂律も怪しくなってくる。特にネタ終盤のトチりは致命的だから、疲労に負けない心技体づくりが必要だ。
 
「エチュード、学校の購買、生徒同士、2分──」
(※エチュード:場面や人物設定に合わせた即興劇)
 
「お」
 
「「クリームパン────」」
 
「……最後の一つなんだけど」
 
「え? うん
 樋口も? クリームパン」
 
「まあ
 この間、売り切れてたから」
 
「あー」
 
「浅倉はよく食べてるでしょ
 他のにしたら 今日は」
 
「んー
 食べてないから 最近」
 
「最近っていつ? 昨日?」
 
「あー
 どうだろ だいぶ」
 
「「………………」」
 
「この前、500円貸した」
 
「あー
 でも、貸したじゃん
 傘 その後」
 
「傘は返した
 それで500円が帳消し?」
 
 ダッシュの無酸素運動が突然会話劇に移ったことで、呼吸と鼓動が胸の内に響いてうるさい。2人してうろうろ歩きながら乱れた循環を整えるが、そんな中で頭と口を回すインプロは、正直かなりしんどい。しかも合図はランダムにやってくる。
 
「後半1分、エチュードのままジブリッシュ、パ行──」
(※ジブリッシュ:意味のないデタラメな言葉を口に出すこと)
 
「ぴぇ?」
 
「ぴょぴゃぴぃぴぇぴょ」
 
「ぴゃー……」
 
「ぴゃぴゃぴゃぴょぴょぴゃ
 ぴゅぴゅぴゅっぴぇぴゅぅぴょぴょ、ぴゃぴ」
 
「……もう! 透ちゃん、円香ちゃん!
 それ、パ行じゃなくてピャ行だよ……!」
 
「あは〜〜〜!
 小糸ちゃんみたい〜」
 
「ぴぇ……」
 
「ぴょぷぷー」

  体はふらふら。胸式ではなく腹式呼吸を意識するが、矢継ぎ早のサーキットにどうしても呼吸が浅くなり、頭も呂律もバカになっている。今にも倒れ込みたいが、踏みとどまる。透より先にギブアップするわけにはいかない。私はツッコミである以上、絶対に最後まで立っていなければならない。
 
(その心臓は
 真面目に動いているか)
 
「ダッシュ往復──」
 
「また!?」
 
「はぁっ…………っ…………」
 
「……っ…………はぁっ…………
 や…………やば…………っ…………」
 
「バックエクステンション、20回──」
 
「────……っ………………
 ……っ…………」
 
「……った!!」
 
「!!
 ……何」
 
「ギューってきたわ、脇腹」
 
「……攣った?」
 
「ンギューって」
 
「はぁ……
 横隔膜のやつね 準備運動もっとちゃんとしな」
 
「……!
 ブレイク! インターバルだよ……!」
 
「……っ…………
 ……はーー」
 
「…………はぁっ……
 ──────ぁー…………」
 
「……あー
 なんかさ、すっごい溜まるやつあんじゃん、筋肉に」
 
「……ん」
 
「それ今、すごいわ
 なんだっけ……乳酸菌」
 
「違う、乳酸」
 
「ふふっ、体にピース」
 
「いやカルピスはアサヒ飲料
 ちゃんと大塚製薬推してけポカリを」
 
* * *
 
(きれいなツッコミが出ない)
 
(違う違う違う
 このツッコミじゃない)
 
(もっと
 精巧で、複雑で、繊細で)
 
(透明なツッコミじゃないと)
 
(もっと
 魂を削り出すように)
 
(面白く)


──────⑮ とおまど、準決勝に出る。


浅倉「楽しいよね、学校」
樋口「いや授業聞け
   ねえもっとこう文化祭とか色々あるでしょ
   さっきからずっと一般道走ってる、
   ちゃんと高速のほう乗って」
浅倉「まかしといて
   えー、あれだ
   すっごい先生溜まってるとこあんじゃん、学校」
樋口「職員室ね」
浅倉「オフィスのニセモノ」
樋口「おいコラ 公務員のオフィスですよ立派な」
浅倉「入ったらさ、用事で」
樋口「ん」
浅倉「めっちゃコーヒーの匂いするよね」
樋口「するね」
浅倉「楽しいよね」
樋口「一般道おい」
浅倉「でもあれずるくない? なんか」
樋口「いいでしょ別に
   カフェインキメてないと正気を保てないんでしょ」
浅倉「ブラックだ コーヒーだけに」
樋口「やかまし」
浅倉「で、相談しに行くんだけど 古文の先生に」
樋口「何相談すんの」
浅倉「体育のあと古文すんのやめてくださいって」
樋口「いとわろし」
両者「「どうも、あーしたー」」
 
「ストップ……!」
 
 小糸がストップウォッチを止める。

 会場となるNEW PIER HALL近辺に早く着きすぎた私たちは、竹芝客船ターミナルのボードウォークに寄り道をした。ネタ前の相談をしてくれと言わんばかりのベンチがそこかしこにあったので、手持ち無沙汰からまんまとネタ合わせをするに至ってしまったのだが、まあ、透の調子を確認できて上々。
 
 準々決勝ネタ同様、今回もまた『思い出』を足がかりとしたパッケージからなる台本がしっかり仕上がっている。透パートに自由発話はなく、順当になぞっていけば4分ちょうどで収まる尺にしてある。記憶力に関する信頼はまるでしていなかったのだが、透の熱血モードがオンになったことも相俟ってか、最近では意外にも台本をきちんと頭に入れてくるようになった。加えて『思い出』に関する場所や物事に基づく展開は透のモチベーションを刺激するらしく、それは透の持ち味であるリアルタイムでナチュラルな演技の迫真性に寄与している。
 セリフの滞りについて心配する必要がなくなったことで、透の方に文量を寄せたり細かい掛け合いを入れられる自由度が出てきた。話題の先陣を切らせるなど部分的に進行を託すこともできる。セリフの同士の間合いを詰めることも可能だ。技術的な点が対等に近くなったことで、透への不安が解消されつつある。
 
「……小糸、時間は?
 5秒くらいはみ出たと思うけど」
 
「えっとね……
 04分04秒だよ……!」
 
「ん まあ許容範囲」
 
「すご」
 
「あは〜〜
 円香先輩、なんか気持ちわるい〜〜!」
 
「うるさい」
 
 準決勝もこれまでの予選と同様、グループ前後半単位で受付時間がずらされている。Aグループ前半に属する私たちの受付は15:20に始まるのだが、大理石であしらわれた威圧感甚だしい内装のフロントロビーでふらふらしているわけにもいかず、このように外で時間を潰している。冬なりの寒さこそあれ天気も眺めもいいので屋内よりかは幾分気が晴れる。
 開場を待つ人波はNEW PIERノースタワーの方に集中していて、埠頭側に奥まった2階に位置するボードウォークのデッキなんかにわざわざ寄る者もいないから、特段人目を気にする必要もない。
 デッキから見えるのは東京湾だ。柵に身を乗り出すまでもなく湾の南の方にレインボーブリッジが架かっているのを望めて、そのふもとに小さくフジテレビ本社も見える。
 
 ゆりかもめが定期的に高架上を這うその手前、ノースタワーとサウスタワーに挟まれた円形広場の中央には、客船ターミナルを象徴するランドマークとしての『マスト』が聳え立っている。フラットな広場に突然柱がニョキッと生えているので、存在の唐突さに可笑しみを覚えつつ、私たちはその下に隠れているかもしれないガレオン船のシルエットを想像した。
 甲板のさらに下に、喫水を思い描く。
 
 私たちには海に見えてる。お互いのこと、漫才師みたいに呼び合って……どこかの海で、海賊と戦ってるつもりになってる。ほんとは、広場なのにね。
 
 …………でも、海を知らないわけじゃない。
 
(ドン……
 と
 轟く
 砲弾の音
 波間にひしめく
 荒くれ者たちの声
 ひるがえる
 海賊旗
 ────
 その海は、僕らの手に落ちる)


《ピース・オブ・エイト!
 ピース・オブ・エイト!》


「詰めた方がいい? 掛け合いの間」
 
「こんなもんでしょ、必要なら私の台詞で調整する」
 
「掛け合いの間って、なんか温泉旅館のお部屋みたいだね〜〜」
 
「そ……
 そうかな……?」
 
「おー、源泉掛け流し
 当館の名所、掛け合いの間」
 
「お湯でも掛け合うわけ?」
 
「ぴぇ……
 お部屋びっしょびしょになっちゃうよ……」
 
「効能、リューマチ
 ふふ
 …………あれ、何だろ、リューマチって」
 
「さあね
 竜でも待つんじゃないの」
 
(竜)
 
「────あー……
 それ
 とびぐるま?」
 
「────え……
 と、とび────?
 ────『飛車』ってことだよね……」
 
「うん
 ひっくり返るやつ」
 
(飛車
 ひっくり返ると、竜になる駒)
 
「いや知らんけど
 本番、またアドリブでひっくり返すのだけはホンッとにやめて」
 
「ふふっ、まかしといて」
 
「透先輩〜
 それ、どっちの意味で言ってるんですか〜〜?」
 
「あはは」
 
「絶対わかってない」
 
「掛け合お
 一緒に」
 
(風)
 
「……はぁ
 ────…………
 ……風強くなってきた
 中入ろう」
 
(風
 が
 くる)
 
(もしかすると
 本当の世界になる)


《ピース・オブ・エイト!
 オキロ ノロマ!》


(ピース・オブ・エイト
 それは
 世界を
 手にする者たちの
 言葉)
 
(死か
 栄光か)
 
* * *

○ON STAGE 00:00:00
────(Rock Jingle!!)────
●ON STAGE 00:00:01

 
両者「「どうも〜〜」」
浅倉「浅倉透と」
樋口「樋口円香で」   
浅倉「ラブリースマイリーベイビーです」
樋口「あ、違いますね
   ほののさん小学生だけど芸歴先輩なんで
   イジんないで、シバかれますんで」
浅倉「え うそ、じゃあなし
   えー、変ホ長調です」
樋口「いやもっと先輩出すな
   とおまどです」
両者「「よろしくお願いします」」
 
 単に芸能人であることを理由としてプロ出場を選択したわけだが、準決勝のハードルはアマチュア漫才師にとってあまりにも大き過ぎる関門である。
 改組前のM-1において、年間1〜3組程度のコンビしか到達し得なかった準決勝。準々決勝が導入された2010年以降に至っては、当時所属のなかったラランドの進出を唯一とする。まして決勝の舞台を踏んだアマチュアコンビは、M-1グランプリ通史において2006年の変ホ長調を数えるのみである。
 
 女性同士のコンビに対してもその門戸は狭い。決勝進出者は先の変ホ長調、アジアン、ハリセンボン、ヨネダ2000のみ。
 芸歴に関してはどうか。最短はキングコングの2年。
 コンビ歴に関してはどうか。最短はおいでやすこがの1年4ヶ月。
 年齢に関してはどうか。最年少はりあるキッズの18歳。
 
 結成半年に満たない、非吉本の、漫才師としての芸歴もない、女性アイドルの、現役高校生コンビがこの途轍もない勝負の舞台に立つということ。その奇跡あるいは作為じみた異常な状況を、観客は期待と疑問相半ばする視点で見定める。私だって、こんなところに立っているのがおかしいだなんて当たり前にわかっている。

 だから、私たちは世間に見せつけなければならない。『とおまど』の真価を。
 透明に輝く『浅倉透』。『とおまど』はそれを見せるためのシステムだ。ワードの配分も、堅牢な構成も、体力づくりも、全部全部、透を輝かせるための、透を知らしめるための下準備だ。
 
樋口「えー、芸能活動と学業の両立大変ですよね」
浅倉「まあでも楽しいよね、学校も」
樋口「ん 例えば?」
 
 だから、走れ。透。
 セクション1。
 
浅倉「あー なんかさ
   すっごい水溜まってるとこあんじゃん、学校に」
樋口「プールね」
浅倉「海のニセモノ」
樋口「評価厳しいな」
浅倉「そこで、体ふやかすじゃん、謎に」
樋口「それが目的では絶対ないけど」
浅倉「ポヤーってなるじゃん 耳んとこ」
樋口「たまにあるね、水が溜まって」
浅倉「取れないの、全然 トントンしても」
樋口「うん」
浅倉「楽しいよね」
樋口「話狭っ」
浅倉「でさ、プールの後さ」
樋口「ああ続きあんのね」
浅倉「絶対国語なの 次」
樋口「時間割によるでしょ」
浅倉「古文」
樋口「……古文だわー
   プールの後ってなんか古文だわ絶対」
 
●ON STAGE 00:01:00
 
浅倉「前やったとこ、なんだっけ
   あの、光るやつ」
樋口「竹取物語?」
浅倉「ちがくて 光るやつ
   桐壺帝の皇子で、なんか六条院の」
樋口「……光源氏?」
浅倉「それ 源氏物語」
樋口「ド真ん中だけ出てこないのおかしくない?」
 
 ……客が重い。いや、これはネタの問題かもしれない。1つのセクションを長くとったことで、話題の出口が見えづらくなっている可能性がある。セクションの中で話題が体育から古文に移り変わるが、思えばその流れの強引さが否めない……
 
 システムの強みは笑いどころを明確化できるところにある。だからやるべきは、1セクションを膨らませるより細かく区切って確実な笑いを増やしていくことだったのだ。システムを導入し始めた2、3回戦の3分ネタに引き摺られて、4分ネタになった今もセクションの個数を変えないままでいるという、これまで思い至らなかったウィークポイントに気づく。……やばいかもしれない。
 
 準々決勝ではネタ作りの段階で、ネタ時間を顧みずに異常な量のアイデアを詰め込んだことによる内容の密度があった。しかし今回は密度というより文脈を重視してしまっている。しかもその文脈も台本上の辻褄を合わせることに終始し、さらには4分におさめようと流れの接続を削ったりもしており結果的に強引さが生じてしまっている。実際に一つ一つのワードが笑いへ繋がりうるかも十分に精査していない。大きな笑いのない現状に対して俄に焦り始める。
 
浅倉「で、授業聞いてたらさ」
樋口「ん」
浅倉「開かれるの──突然、世界が」
樋口「何、急に」
浅倉「取り戻すの──失われた音を」
樋口「なんかの第一話?」
浅倉「いきなり出てくんの」
樋口「何が」
浅倉「ぬるい水」
樋口「耳に入った水の話か」
浅倉「コァァアアって」
樋口「リアリティ追求しないで」
浅倉「いとあはれなり」
樋口「やかまし」
浅倉「楽しいよね、学校」
樋口「エピソードが狭すぎるでしょ
   夜行バスくらい狭い、もう4列シートくらい狭い
   ちゃんと新幹線乗って」
 
 長文ツッコミでようやくいっぱしの笑いが起きた。厳しい観客たちだ。さすが7000円も払って来ているだけある。
 一方で透は客の重さに一切動じることなくうまくやっていて不自然さもない。だからせめてこの後も私が足を引っ張るわけにはいかない。前のセクションの轍が敷かれているので次こそは観客も着いてくるはず。勝負どころ。
 セクション2。
 
浅倉「あー じゃあなんかさ
   すっごい砂溜まってるとこあんじゃん、学校」
樋口「グラウンドね」
浅倉「砂浜のニセモノ」
樋口「海から離れましょうか」
浅倉「そこでさ、足を素早く動かしてさ
   前へ移動するじゃん、謎に」
樋口「『走る』の定義言ってますね 人間なりたて?」
浅倉「それやると、ギューってなるじゃん 脇腹」

 ●ON STAGE 00:02:00
 
樋口「あるね、痛くなるやつ」
浅倉「ンギューって」
樋口「なるね」
浅倉「しんどいよね」
樋口「楽しい話して?」
浅倉「で、終わったら古文でさ」
樋口「体育の後は古文確定ですからね」
浅倉「なんだっけ、あの
   アブラモヴィッチみたいなやつ」
樋口「いや古文にカタカナの人名出てこないから、例外なく
   古文で聞いたことある? 下唇噛む『ヴ』」
浅倉「春はあけヴォの……」
樋口「違うから」
 
 ──空気が重い! 笑え!
 
樋口「てかどうすんの百人一首とかにそんなロシア系出てきたら
   『ピロシキの〜』でバシーンでしょ
   決まり字『ピ』だからね」
 
 客席のどよめき笑い。ツッコミは笑いどころのマーカーであるという機能を度外視しても、やはり大きい笑いが透のボケへよりも私の長文ツッコミへと偏りすぎているように思える。想定外のフィードバックで崩れそうになるフォーム。目ぼしいウケに対して笑い待ちをしそうになるところではあるが、意にも介せず透が切り込んでくる。……いいタイミングだ、うまい。
 
浅倉「ふふ、やばい いやちがくて」
樋口「何」
浅倉「中宮定子んとこの、小納言の、なんか随筆で」
樋口「……枕草子?」
浅倉「それ」
 
 だがダメだ、台本がよくない。パッケージを半端に繰り返すことによって古文というトピックのややこしさが浮き彫りになってくる。誰々の何々の題名がわかったところで何だというのだろう、こんなのは確かに笑いに繋がりようがない。観客の予想を裏切る笑いでもなければ、ヒントを元として答えに気付く喜びも薄い。オール巨人あたりが酷評しそうな論理先行のつまらないネタ運びだ。頭でっかちなネタを書いてしまった羞恥を誤魔化そうとしてか、いやに舌が回りたがる。
 
樋口「だから真ん中だけスッカスカなんだって
   ねえ外堀ばっかなの
   覚えてるとこ飯田橋とか赤坂見附なの
   ちゃんと一番肝心な千代田区千代田を覚えといてよ皇居部分を」
 
 不意にこれまでとは全く質の違う笑い声で客席が湧くや否や、一陣の風が肩上を通り抜けるような錯覚を味わった。そしてそれを境として明らかに空気の感触が軽くなったのを感じた。あんなに重かったのに、急にどうしたというのか。
 
浅倉「ふふ、何それ ごめんって」
 
 呆気に取られていた私を透が引き戻す。『掛け合いの間』のベスト……!

浅倉「でさ、授業聞いてたらさ」
樋口「うん聞いときな」
浅倉「いざなわれるの──夢の世界に」
樋口「寝落ちをカッコよく仰ってますね」
浅倉「突然、崩れてくの──大地が」
 
●ON STAGE 00:03:00
 
樋口「何」
浅倉「──ガタンッ! って」
樋口「いや寝てる時ビクってなるやつ」
浅倉「こう、肘んとこで、ギリだったペンケース
   ドサッ! って」
樋口「わかったから」
浅倉「いとわろし」
樋口「やかまし」
 
 透の声量とスピードも乗ってくる。笑いの量もついてくる。さっきだ。さっきの外堀センテンスでハマったんだ。ここのところ立て続けに長文ツッコミがウケてきたことで、樋口が捲し立てたらそれは笑いどころだ、という観客の合意が形成されたのかもしれない。観客が腹の底から笑うためには、目の前の漫才が『どういう漫才なのか』を捉える必要があった。
 『夜行バス』、『ピロシキ』、そして『外堀』。天丼を例とするように、形式は連続すると期待感を煽る。2度目の捲し立てにあたる『ピロシキ』で客はこの漫才を『そういうリズムの漫才』だと解釈し、次の長文ツッコミを待っていたのだ。そして私は自覚せずして期待感に応えた。


《あの漫才は、『円香の漫才』でもあるんだ
 紛れもなく》


 リズムを掴んだ観客が笑い方を覚えた。そして笑いは次の笑いを呼び込む。
 ……恐ろしい。洋上の天候かのように激しく移り変わる会場の空気。颯爽と横切る下層雲の切れ目にふと見えた晴れ間。これを逃すわけにはいかない。帆を張って、いざ!
 
浅倉「楽しいよね、学校」
樋口「いや授業聞け
   ねえもっとこう文化祭とか色々あるでしょ
   さっきからずっと一般道走ってる、
   ちゃんと高速のほう乗って」
 
 台本でのこのセンテンスはここまで。『夜行バスくらい狭い、ちゃんと新幹線乗って』の流れをそのまま踏襲しており、カブセを理解した観客による笑いもその時の量とやや等しい。
 ……もっと欲しい──行けるか? 透が次のセクションに移ろうとするのを遮って続ける。
 
樋口「ここ今インターチェンジだからね、飯田橋インター
   主線入ってください頼みます」
 
 発話を中断された透が微妙な表情をしたことによるウケも含め、アドリブは奏功し前よりも笑いの量が増した手応えを得た。やはりここの観客は長文ツッコミを期待していた。
 しかし既に漫才は最終セクションに差し掛かろうとしている。オチを次の流れに内蔵してしまっているので、もはや長々しくツッコむ余地が残されていない。
 構成をチャートにすると、こうだ。
 
・ツカミ『先輩アマチュア漫才師』
・セクション1A『学校(記憶の偏り):体育/ポヤー』
・セクション1B『学校(記憶の偏り):古文/源氏物語』
・セクション1C『学校(記憶の偏り):古文/コァァ』
・セクション2A『学校(記憶の偏り):体育/ギュー』
・セクション2B『学校(記憶の偏り):古文/枕草子』
・セクション2C『学校(記憶の偏り):古文/ビクッ』
・セクション3『学校(記憶の偏り):職員室/コーヒー』
・オチ『職員室/体育と古文』
 
 これまでに得ることができた笑いの総合量は、決勝に手が届きうる水準に達していない。この後発声のニュアンスどうこうで挽回できるものとも到底思えない。
 時間も開始から3分半、楽曲『あの花のように』でいうと、ラスサビの『鮮やかに夜を彩る』あたりだ。やばい!
 セクション3!

浅倉「まかしといて
   えーと、あれだ
   すっごい先生溜まってるとこあんじゃん、学校」
樋口「職員室ね」
浅倉「オフィスのニセモノ」
樋口「おいコラ 公務員のオフィスですよ立派な」
浅倉「入ったらさ、用事で」
樋口「ん」
浅倉「めっちゃコーヒーの匂いするよね」
樋口「するね」
浅倉「楽しいよね」
樋口「一般道おい」
浅倉「でもあれずるくない? なんか」
樋口「いいでしょ別に
   カフェインキメてないと正気を保てないんでしょ」
 
 台本でのこのセンテンスはここまで。ここに透の『ブラックだ』が来てオチに移る。脳内再生している『あの花のように』はボーカルが終わりインストのアウトロに入っている。先ほどのアドリブで6秒はみ出たので、このペースでオチまでやり遂げると楽曲時間と同じ04分07秒ぐらいになるはず。だが……
 
 透が動かない。こちらを見て、待っている。
 何をよ。
 何を待ってるの。
 
 私か。
 私なのか。
 
 ────わかったってば。
 
樋口「教員の過酷な業務負担、どうなってるんですかこの国は
   ただでさえ教材研究や部活動の引率で忙しいんですよ」
 
 弁に体重がのる。アクセルがベタ踏みになる。
 
樋口「そこに家庭の問題、いじめ、新型コロナへの対応
   聖職者の使命感に甘えて負荷を強いる文科省や教育委員会」
 
 舌が回るにつれて観客のどよめきが増してくる。脳がバチバチくる。だが、まだだ!
 考えろ。
 この台本を通して、漫才を通して、パッケージを横断した通底的な、未処理の線はないか。その文脈を一挙に綴じる手はないか。
 ──考えろ。思考の海にダイヴする。
 
●ON STAGE 00:04:00
 
 ────学校、体育、古文、リアリティ、グラウンド、走る、痛くなる、しんどいよね、下唇噛む、崩れてくの、寝落ち、職員室、用事で、先生、教育、業務、負担、オフィス、コーヒーの匂い、カフェイン、プロデューサー、……プロデューサー?
 
樋口「人間には休みが必要なんです」
 
 ────過酷な、どうなっているんですか、ただでさえ、忙しい、対応、聖職者、使命感、甘えて、負荷を強いる、休みが必要、あなたは……
 
樋口「その権利すら守れない制度なんてニセモノに過ぎない」
 
 ────労働、問題、教育、現場、溜まって、すっごい溜まって、すっごい溜まってるとこ、すっごい溜まってるとこあんじゃん、プール、砂浜、海から離れ、海から、海、うみ、ウミ……

  ────……!!!!
 
樋口「すっごい学校に溜まってるもんといえば!
   労働問題という教育現場の膿でしょ!!」
 
 ドシーン!!
 ステージを力強く踏み締める。会場がどっと揺れる!
 ここだ、来い、浅倉透!!!!
 
浅倉「ブラックだ コーヒーだけに」
樋口「やかまし」
 
 ──……これだ……!!
 ────────っ
 ゾクゾクする……!
 ──NEW PIER HALLフルキャパ796人全員の拍手が、ステージ上の私たちの身に一挙に届いて浸透した。
 自分の内側と透に対する過集中ですっかり疎かになっていた客席方向への聴覚は、会場全体が震うような拍手の残響をまるでさざなみの凡庸な音のようにも聞こえさせた。それは入眠前のホワイトノイズみたいに、昂りすぎた血流を癒した。
 
────(Beep Beep Beep!!)────
●ON STAGE 00:04:15
──警告。

 
浅倉「で、相談しに行くんだけど 古文の先生に」
樋口「何相談すんの」
浅倉「体育のあと古文すんのやめてくださいって」
樋口「いとわろし」
両者「「どうも、あーしたー」」
 
●ON STAGE 00:04:25
○ON STAGE 00:04:26
──終了。

 
(風
 気持ちいい)
 
 無風なはずのステージ上で、私は確かに、甲板に吹くような心地よい気流を感じた。
 
* * *
 
 出番終了後、会場を出て浜松町駅近辺で夕食を済ませた私たちは尚も、再集合までの長すぎる待ち時間を持て余していた。今夜同会場において選考結果通知および決勝進出者発表記者会見が執り行われるため、それまでの間各々焦れた時間を過ごさなければいけないわけだが、芸人と取材班しかいないアウェーな雰囲気の楽屋に戻るのもどうかと思って4人して周囲を彷徨う。
 
「めっちゃひっくり返してたじゃん、樋口が」
 
「アドリブを要求したのは浅倉でしょ」
 
「え うそ
 してないよ、ふふっ」
 
「じゃあジッと見てたのは何」
 
「そうだっけ?
 ……あー、飛んでたかも、ネタ」
 
「…………はぁー……」
 
 後から種を明かせばこんなものだ。
 しかし今回に関しては、そのまま演って十分にウケるネタを用意できなかった私の落ち度。まさか透が空気に呑まれたなんてことは万が一にも考えられないが、地肩を崩しつつあった私に釣られたということはありうるだろう。そのツケを即座に私自身でペイしたというだけのこと。普段の私からすると想像もつかないくらい猛然とした、思いもよらぬ起死回生だったけど──
 
 準決勝を観覧していたプロデューサーから連絡が来たことで終演時間の訪れを知った。会場に引き返し到着する頃には観客の追い出しが概ね済んでおり、上がった照明のあけすけな眩しさが閉幕の空気感を如実に物語っていた。
 会場ではフラットスペースを埋め尽くしていた赤い椅子が片付けられていき、発表会見の準備が着々と進んでいる。設営スタッフがフロアを行き交う慌ただしさをよそに、出入り口に近い壁際の方では芸人のマネージャーと思しき人々と制作関係者らが名刺を交換している。その中にはプロデューサーが混ざっていて、こちらに気がつくや歓談をぷっつり切り上げ、何もない床で躓きかけながらも満面の喜色でこちらへ駆け寄ってきた。その表情と態度が彼の感想の全てを物語る。
 疲労した心身に暑苦しい賛辞は毒なので、第一声を遮って問いかけた。
 
「聞こえました?
 最後のステップで、……思い切りステージを踏みつけた、音」
 
「えっ、あ……?
 それは見ていたけど音か……いや、音は……」
 
「あ、聞こえなかったなら結構です」
 
「すまん、笑いも歓声もすごかったから……」
 
「はい、でしょうね
 と言うか私の耳にも聞こえませんでしたし」
 
「え?
 そ、そうか……?
 いや……
 でもなんだかいつもよりダイナミックで……」
 
「……ダメでしたか?」
 
「いや、すごく良かった
 なんというか……
 ゾウがドシーンって感じで……!」
 
「ゾウ?」
 
「ゾウ」
 
「「………………
 ……ふっ
 ふふっ……」」
 
────M-1グランプリ2023、決勝進出者発表が始まる。

──────● ピックアップコンテンツ(5)


【とおまど】
M-1準決勝ネタ
タイトル: 『pooool』
ネタ時間: 04:26
開催日程: 2023/12/07
開演時間: 16:00
開催会場: NEW PIER HALL(東京)
グループ: A

○ON STAGE 00:00:00
 
両者「「どうも〜〜」」
浅倉「浅倉透と」
樋口「樋口円香で」   
浅倉「ラブリースマイリーベイビーです」
樋口「あ、違いますね
   ほののさん小学生だけど芸歴先輩なんで
   イジんないで、シバかれますんで」
浅倉「え うそ、じゃあなし
   えー、変ホ長調です」
樋口「いやもっと先輩出すな
   とおまどです」
両者「「よろしくお願いします」」
樋口「えー、芸能活動と学業の両立大変ですよね」
浅倉「まあでも楽しいよね、学校も」
樋口「ん 例えば?」
浅倉「あー なんかさ
   すっごい水溜まってるとこあんじゃん、学校に」
樋口「プールね」
浅倉「海のニセモノ」
樋口「評価厳しいな」
浅倉「そこで、体ふやかすじゃん、謎に」
樋口「それが目的では絶対ないけど」
浅倉「ポヤーってなるじゃん 耳んとこ」
樋口「たまにあるね、水が溜まって」
浅倉「取れないの、全然 トントンしても」
樋口「うん」
浅倉「楽しいよね」
樋口「話狭っ」
浅倉「でさ、プールの後さ」
樋口「ああ続きあんのね」
浅倉「絶対国語なの 次」
樋口「時間割によるでしょ」
浅倉「古文」
樋口「……古文だわー
   プールの後ってなんか古文だわ絶対」
浅倉「前やったとこ、なんだっけ
   あの、光るやつ」
樋口「竹取物語?」
浅倉「ちがくて 光るやつ
   桐壺帝の皇子で、なんか六条院の」
樋口「……光源氏?」
浅倉「それ 源氏物語」
樋口「ド真ん中だけ出てこないのおかしくない?」
浅倉「で、授業聞いてたらさ」
樋口「ん」
浅倉「開かれるの──突然、世界が」
樋口「何、急に」
浅倉「取り戻すの──失われた音を」
樋口「なんかの第一話?」
浅倉「いきなり出てくんの」
樋口「何が」
浅倉「ぬるい水」
樋口「耳に入った水の話か」
浅倉「コァァアアって」
樋口「リアリティ追求しないで」
浅倉「いとあはれなり」
樋口「やかまし」
浅倉「楽しいよね、学校」
樋口「エピソードが狭すぎるでしょ
   夜行バスくらい狭い、もう4列シートくらい狭い
   ちゃんと新幹線乗って」
浅倉「あー じゃあなんかさ
   すっごい砂溜まってるとこあんじゃん、学校」
樋口「グラウンドね」
浅倉「砂浜のニセモノ」
樋口「海から離れましょうか」
浅倉「そこでさ、足を素早く動かしてさ
   前へ移動するじゃん、謎に」
樋口「『走る』の定義言ってますね 人間なりたて?」
浅倉「それやると、ギューってなるじゃん 脇腹」
樋口「あるね、痛くなるやつ」
浅倉「ンギューって」
樋口「なるね」
浅倉「しんどいよね」
樋口「楽しい話して?」
浅倉「で、終わったら古文でさ」
樋口「体育の後は古文確定ですからね」
浅倉「なんだっけ、あの
   アブラモヴィッチみたいなやつ」
樋口「いや古文にカタカナの人名出てこないから、例外なく
   古文で聞いたことある? 下唇噛む『ヴ』」
浅倉「春はあけヴォの……」
樋口「違うから
   てかどうすんの百人一首とかにそんなロシア系出てきたら
   『ピロシキの〜』でバシーンでしょ
   決まり字『ピ』だからね」
浅倉「ふふ、やばい いやちがくて」
樋口「何」
浅倉「中宮定子んとこの、小納言の、なんか随筆で」
樋口「……枕草子?」
浅倉「それ」
樋口「だから真ん中だけスッカスカなんだって
   ねえ外堀ばっかなの
   覚えてるとこ飯田橋とか赤坂見附なの
   ちゃんと一番肝心な千代田区千代田を覚えといてよ皇居部分を」
浅倉「ふふ、何それ ごめんって
   でさ、授業聞いてたらさ」
樋口「うん聞いときな」
浅倉「いざなわれるの──夢の世界に」
樋口「寝落ちをカッコよく仰ってますね」
浅倉「突然、崩れてくの──大地が」
樋口「何」
浅倉「──ガタンッ! って」
樋口「いや寝てる時ビクってなるやつ」
浅倉「こう、肘んとこで、ギリだったペンケース
   ドサッ! って」
樋口「わかったから」
浅倉「いとわろし」
樋口「やかまし」
浅倉「楽しいよね、学校」
樋口「いや授業聞け
   ねえもっとこう文化祭とか色々あるでしょ
   さっきからずっと一般道走ってる、
   ちゃんと高速のほう乗って
   ここ今インターチェンジだからね、飯田橋インター
   主線入ってください頼みます」
浅倉「まかしといて
   えーと、あれだ
   すっごい先生溜まってるとこあんじゃん、学校」
樋口「職員室ね」
浅倉「オフィスのニセモノ」
樋口「おいコラ 公務員のオフィスですよ立派な」
浅倉「入ったらさ、用事で」
樋口「ん」
浅倉「めっちゃコーヒーの匂いするよね」
樋口「するね」
浅倉「楽しいよね」
樋口「一般道おい」
浅倉「でもあれずるくない? なんか」
樋口「いいでしょ別に
   カフェインキメてないと正気を保てないんでしょ
   教員の過酷な業務負担、どうなってるんですかこの国は
   ただでさえ教材研究や部活動の引率で忙しいんですよ
   そこに家庭の問題、いじめ、新型コロナへの対応
   聖職者の使命感に甘えて負荷を強いる文科省や教育委員会」
   人間には休みが必要なんです
   その権利すら守れない制度なんてニセモノに過ぎない
   すっごい学校に溜まってるもんといえば!
   労働問題という教育現場の膿でしょ!!」
浅倉「ブラックだ コーヒーだけに」
樋口「やかまし」
浅倉「で、相談しに行くんだけど 古文の先生に」
樋口「何相談すんの」
浅倉「体育のあと古文すんのやめてくださいって」
樋口「いとわろし」
両者「「どうも、あーしたー」」
 
○ON STAGE 00:04:26

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