とおまど、M-1に出る。 決勝前コミュ編
前話(準決勝編) あらすじ
演劇レッスンメニューを参照したハードな特訓で心身を鍛えた浅倉と樋口。準々決勝以降目覚ましい成長を遂げた浅倉を心強く思う樋口だったが、準決勝の舞台ではネタの煩雑さや客の重さに起因する『スベり』を経験。樋口は挽回のため猛然とアドリブを繰り出し、そして覚醒する──
──────⑯ とおまど、記者会見に出る。
『皆さん、準決勝お疲れ様でした』
21時00分、張り詰めた静寂をアナウンスの声が破った。ホールに集められた芸人たちは息を呑んで背筋を正し、運命の言葉を待ち構える。
『今年は、史上最多8541組のエントリーでした
予選の段階からこれまでにない
激戦・激闘だったかと思います』
ヒリヒリするくらい殺気立ち、吐息の音さえ一帯へ響き渡りそうに静まり返ったアンビエンスは、ここが先程まで笑いで満たされていた会場と同一の空間であることを忘れさせる。
『本日は、本当に
皆さんそのトップ32組に、相応しい
凄みも感じる3時間半でした
皆さん32組、皆さん本っ当に面白かったです
その分、審査は難航を極めましたけれども
えー今から
12月24日、クリスマスイヴ
六本木のテレビ朝日の決勝スタジオに
進んでいただくファイナリスト10組を
1組ずつ発表したいと思います』
《聞こえてて、ずっと
あの時の音
似てるんだよね
走ってる時の息の音とか──
──今聞こえてるみたいな音とか
知らなかったから、色んなこと
なかった、あんまり
音とかも
静かだったよね、きっと
魚とか……ミジンコとか、生まれてくる前の海》
『…………
──では
まず1組目です
…………────』
『────
エントリーナンバー 2066
ダンビラムーチョ』
「……っ
ああああああああ!!!」
「よっし!!!」
『2組目です
エントリーナンバー 3920
カベポスター』
「……っし」
「…………」
『3組目です
エントリーナンバー 2109
くらげ』
「うおおおおおお!!
……マジで!!??」
「…………っ……!」
『4組目です
エントリーナンバー 2617
マユリカ』
「よっしゃあ!!!」
「うおお……!」
思い思いに感情を発露させる通過者たち。プレッシャーからの解放、飛び上がるような喜び、噛み締めるような万感、その全ては漫才に向き合ってきた各々の多難を自ずから体現する。
『5組目です
エントリーナンバー 2242
モグライダー』
「んお」
「ありゃざっす!」
『6組目です
エントリーナンバー 1955
令和ロマン』
「…………!」
「…………」
『7組目です
エントリーナンバー 3638
さや香』
「……っ」
「……」
『8組目です
エントリーナンバー 0024
真空ジェシカ』
「…………っ!!」
「……」
通過者発表も終盤、いよいよ僅かな残り枠に緊張感が増してくる。そんな場にあっても透は素知らぬ顔でぼーっと佇みシリアスさの欠片も匂わせないばかりか、ふと私の方に傾き掛かって「どういう順番なんだろ、これ」と明らかに今じゃない無内容な疑問を耳打つ。頼むからせめて集中させてくれない……?
『9組目です──』
だが確かに言われてみれば発表はエントリー番号順でも50音順でもない。考えられるとするとローマ字読みのアルファベット順だろうか。これまでダンビラムーチョの『D』、カベポスター・くらげの『K』、マユリカ・モグライダーの『M』、令和ロマンの『R』、さや香・真空ジェシカの『S』と続いてきていて、なるほど妥当な推測であるように思える。
残る『S』以降のユニットはシシガシラ、スタミナパン、トム・ブラウン、とおまど、ヤーレンズの5組のみに絞られ────
『──エントリーナンバー X283
とおまど』
────????
「「「──おおおおお!!!!!??????」」」
不意打ちの発表による放心をここ一番の歓声が払った。番狂わせな大穴の台頭に対する驚喜──こういうのは本来長く苦労したユニットに浴びせられるべきものでしょ。天井を仰ぎ見ながら息を吐き、シビアな表情を固めたまま黙礼する。
「………………」
「イエー」
緩慢な動きでダブルピースする透。余裕の態度が顰蹙を買わないか気を揉むが、そんなことを考えるのも野暮か。この場へ臨む深刻な切実さがあっても、ナイーブな新顔を掛け値なしに寿ぐ芸人たちの気持ちは本物だろう。準決勝で鎬を削って競い合ったライバル同士であるからこその連帯感が、力強い拍手となってホールに響く。
『最後10組目になります
エントリーナンバー 2613
ヤーレンズ』
「……〜〜〜っ!!」
「……!!」
誰もが面白く、誰が通ってもおかしくなかった。
当落、きっとそこに貴賎はない。一つ言えることとして、その場の誰もが満遍なく備えていたのは準決勝の客席から笑いを捥ぎ取るという漫才師としての責任を果たした誇らしき充足であった。
『以上10組が
M-1グランプリ2023のファイナリスト10組になります
本当におめでとうございます』
「ふふっ マジかー」
「……嘘でしょ
予想外すぎる」
大袈裟にガッツポーズを取るでもなく、ひしと抱き合うでもなく、締まりを欠いた反応で発表をやり過ごしてしまった私たちは改めて顔を見合わせてささやかな笑みを溢し、軽く握った拳で他愛無く小突き合った。
『12月24日
決勝のスタジオをですね
最高の舞台を
M-1スタッフ一同総力を挙げて
準備しておりますので
えーお待ちしております
今年の大会のキャッチフレーズは
『爆笑が爆発する』となっております
是非皆さんの漫才で
日本全国を爆笑・爆発させていただきたいと思っております
今日は以上になります
お疲れ様でした』
「ふふっ
当たり前みたいな……奇跡みたいな」
「…………」
「爆発するかも
私
なんか……
いつもそんな感じする。最近」
「……
起こしてくれるの? 事故とか」
「かも
起こすかも
でも……
取ってくれるんでしょ
責任
一緒に」
「…………うん」
「欲しい
もっと」
* * *
両者『『どうも〜〜、どうも』』
村上『マヂカルラヴリーでございまーす
よろしくお願いします』
野田『2020チャンピオンでございます』
村上『ありがとうございます
改めて、ありがとうございます そうなんです』
野田『これをやる資格があるという』
村上『ありがとうございます』
野田『公式からの』
村上『──優勝、というね 本当に険しき道を』
両者『勝ち抜いた!』
村上『勝って勝って 勝ちまくり、そこの頂に立ち』
野田『優勝できてませんからね! これから出る人たちは』
村上『今日は、んーと皆さんファイナリスト讃えるための
そういう会見でございますから』
野田『そうですね』
村上『えーよろしく』
両者『お願い致しますー』
村上『えーM-1グランプリ2023
決勝進出者発表会見でございます』
野田『はいお願いしますね』
21時30分、TVer生中継配信でのお披露目を兼ねる決勝進出者発表会見の幕が開けた。
村上『えー決勝戦はですね
この10組と敗者復活戦を勝ち抜いた1組の
計11組によるファーストラウンド
そしてファーストラウンドの上位4組による
最終決戦を制した1組だけが
賞金1000万円と漫才日本一の称号を手にします』
野田『んん』
村上『そんなM-1グランプリ2023は12月24日、日曜日
クリスマスイヴの夜06時30分から
ABCテレビ、テレビ朝日系列全国ネットで生放送でございます』
野田『はい』
袖幕では決勝進出が決定した10組のコンビがひしめく。準決勝からやや印象の異なるステージの装いもこれはこれで落ち着かないものがあって、ホールに居並ぶ報道カメラの存在が今ここにいない潜在視聴者の眼差しを否応なく意識させる。
村上『さあそれでは、お待たせしました』
野田『お!』
村上『8541組による厳しい予選を勝ち抜いた
ファイナリスト10組を発表いたします』
野田『いやーこの瞬間がね
いつもドキドキしますけどね』
村上『そうですねー
いま初めて全国にお披露目でございます
さあ、つい先程行われたばかりの
決勝進出者発表の瞬間をご覧いただきながら
1組ずつ登場してもらいます』
野田『はい』
村上『漫才頂上決戦M-1グランプリ2023
ファイナリストは、この10組です!!』
野田『応!』
先程の発表が放送され、読み上げられたコンビから袖幕を発ちステージに立っていく。発表順前半5組が上手側、後半5組が下手側に並んでいくよう案内があったため、9番目の私たちの立ち位置は壇上中ほどとなる。
アナウンスが掛かり歩み出ると、スポットやストロボの明滅が煌々と私たちを照らした。暗く落とされた全体照明との明暗差に目が眩んでたじろぐが、それとなく二人で示し合わせていた身ごなし──ランウェイみたいにエレガントなウォーキングからの、アイドルとしての宣材立ちポーズ──でシュールな撮りしろを提供する。
露出にあたって私たちが召し替えたスーツはリース品だ。準々決勝翌日の時点で発注したオーダースーツが結局決勝直前の納品となってしまうため、生地や丈が近い同店のサンプルを提供して頂くに至った。一時的な間に合わせではあるが今夜の目的に必要十分な着心地ではあるし、存外周囲と遜色ないと自賛できる出立ちは一同の注目を恣にした。
ステージ下は報道関係者をはじめABCテレビ陣その他で賑わっており、ここ数年遵守されていたソーシャルディスタンスもいよいよ除かれた様子で、いかにも賑わしいいつぶりかの祝祭的空気が私たちを出迎えた。
野田『錚々たる顔ぶれでございます』
村上『おめでとうございます〜〜〜
素晴らしい
みなさん清々しい顔をされておりますね』
野田『なんかね 解放された感じがね』
村上『さあそれではじゃあまずファイナリストの皆さんに
今の率直な気持ち 教えて頂こうと思います──』
* * *
MCから順々にマイクが渡されていき、各コンビの卒ない応答で度々笑いが起こった。1コンビあたりの尺は1分2分と短く、上手側から数えて7番目のコンビである私たちの順は思いの外早々に回ってきた。
村上『さあ続いて』
野田『とおまど』
村上『おめでとうございます』
浅倉「────
えーと……
んー……
やば
キーンとか言ってる。マイク』
野田『初出場で、決勝』
村上『一番若い、ですか歴代で』
樋口「芸歴、ええそうですね
0年目なので」
野田『0年目』
樋口「17です」
浅倉「うん
セブンティーン」
村上『十代で 優秀ですね
どうですか率直な気持ちは』
浅倉「あー……
考えてなくて、挨拶
やばい
……ふふっ
サンキューベリーマッチ
ありがと
まぁ、楽しも
次はない
くらいの感じで
────ヨロシクぅ」
野田『みんなそうです
みんなそうですけどね』
浅倉「そっか、ふふっ」
野田『みんな大体そうですけどね
一般的な考え方で挑むと』
浅倉「やらしていただきまーす、一般的な考え方で」
村上『樋口さんの方でもいいんで
ちゃんとこう意気込みをお願いします』
樋口「……お越しくださいましてありがとうございます
みなさんと会えたことをとても嬉しく思います
………………
私は…………
ネタは耳で聞くものではなく
心で、聞くものだと思います
みなさんの心を……
生き方を通して響くネタです
だから、世界にひとつとして同じネタはありません
──決勝の舞台で、あなたのネタを聞いてください」
浅倉「多いだけじゃん、文字数が」
村上『会話 会話しようよ』
浅倉「多いだけの喋りだったわ、文字数」
野田『なが普通』
村上『何 一人喋って終わろうとしてるの
会話したいのよ』
野田『長普通、長普通はいらないのよ』
村上『何そのスピーチみたいなのして終わろうとして』
樋口「いい大会、いいクリスマスにしたいですね」
浅倉「ふふっ、まだ喋ってる」
村上『いいよもう』
野田『マイク渡してください』
真面目腐った顔を決め込んだ悪ノリの中に、私は少しばかりの本音を隠した。
──漫才とは、人間性だ。生き様だ。
樋口円香の『闘争』は、ステージを通して『真実』となる──
(円香の思う『漫才』が、
生き様を──人間を見せるものだとして
ネタよりも、ギャグよりも、
人間そのものを見られるのだとしても
ステージにいるのは、
誰かの目に映るための円香じゃない
円香のための、円香なんだ)
村上『19代目の王者となるのは一体、誰なのか
今年はどんなドラマが待ち受けているのか
全ては12月24日の決勝戦
そして敗者復活戦で明らかとなります
歴史的瞬間をその目で、ご覧ください
以上、ファイナリスト10組発表記者会見
MCはマヂカルラヴリーでした、ありがとうございましたー』
野田『ありがとうございました』
村上『皆さんおめでとうございまーす
頑張ってください』
野田『お気をつけて』
* * *
TVerでの配信は22時00分現在を以て終了したが、会見自体は報道陣による質疑応答が続き、発表も含めると都合1時間半にもわたる丁場となった。それが幕引かれてもなお準決勝から続く長い長い一日はまだ終わらない。決勝に向けた準備の多くが今日この夜に圧縮されて行われるのだ。
「────浅倉さん、こちら視線お願いしまーす」
「樋口さん、こちらも視線お願いします!」
「────はい、プレスの方―
もう少々でこちら終了します、もう少々で────」
全ての采配を採るABCテレビの幹事たちの手慣れた段取りは異常なまでに効率的で、あたかも学校の健康診断のように最適化されたそれは長い大会史のうちに圧縮されてきたノウハウの結晶であった。スチルや出場者インタビューといった、公式サイト、各種メディア告知、本放送などの露出に用いる喫緊の素材撮りがシステマティックに捌かれていき、私たちはただ勢いに流されるままに必要を済ませた。未成年の私たちには労働基準法の関係で最優先で順が回ってきていて、そのスピード感の鬼気に拍車をかけていた面もあった。
私たちは普通にやっただけ。でも『宣材写真にしておくにはもったいない』素晴らしい出来栄えにまで限られた時間で持っていった撮影スタッフの手腕は褒められて然るべきだろう。
プロデューサーの調整で然るべき説明事項などを全て翌日以降にスキップし、他の芸人に先立ち私たちが解放されたのは23時30分。目まぐるしい進捗だったが深夜就労アウトのセンだ。明日は学校がないからまだいいし、随分な夜更かしになることは保護者も含めての納得ずくではあったのだが、いやにきまりが悪そうに畏まったプロデューサーのコメツキバッタみたいな低姿勢が滑稽で、その姿に溜まってもいなかった溜飲を下ろした。後から聞いたところによると他の芸人たちが全工程を終えたのは翌25時00分のことだったらしい。
* * *
「────」
「あは〜……
『とおまど』だ〜」
「う、うん……!
昨日の、もう記事になってるね……」
「ツイスタでも流れてきてるよ〜」
「そっか……!」
「写真見る〜?」
「────……
…………すごいな」
「うん〜
雛菜、この服すきだな〜」
「────う、うん……!
綺麗だね……
──あ……
円香ちゃん……!」
「ん……」
「……────
──『とおまど』、記事になってるね」
「ああ……
プレス向けのイベントね
変なこと言ったから
ニュースサイトのトップに出てるんじゃない」
「そ、そっか……
──────透ちゃんと円香ちゃん、どんどん……
どんどん────」
「透先輩と円香先輩は行っちゃうよ」
「……!」
「だからすき〜!」
──────⑰ バッドガールの羽ばたき
《あの音が好きだ
突っ込み、フリからオチ……それから笑い
それらが全部かみ合った時の》
《この音が好きだ
────とても》
* * *
透とのロードワークの道中、通りすがった公園からバスケットボール特有の金属的な跳音が聞こえてきた。ふと見遣ると金髪ショートヘアの見慣れた少女がシュートを放っていて、ボールはバックボードに触れることなく、スパッと気持ちの良い音のみを立ててゴールリングに吸い込まれた。
放物線のまま落ちて地面に弾んだそれは、次第に跳躍の間隔を狭めいつしか静止した。かと思えばそのもとに歩み寄った彼女がボールの上肌を軽いスナップで叩き起こし、一度のバウンドで腰ほどの高さに持ってきてドリブルを続ける。……上手い。
身を翻した彼女はこちらに気付いて手を振った。283プロダクションに所属する同い年のアイドル──『放課後クライマックスガールズ』の西城樹里だ。
ボーイッシュでクールな雰囲気を醸しつつ、真っ直ぐなスポーツマンシップと純情を兼ね備える樹里は、爆発的個性のグループメンバーを持ち前の弁えと責任感によって収拾する、同プロダクションにおける貴重なツッコミ要員。腰の乗った声量とリアクションの新鮮さに衒いはなく、その的確で冷静な対応力により、かのバラエティクイーン園田智代子をして『ツッコミ王』と言わしめる逸材だ。抜群な反射神経とレスポンシビリティはきっとスポーツ経験によって培われたもので、その実力もまた今目の前で示された通りである。
「……おー……!
透、円香!
聞いたぜ、やったな!
あとちょっとで決勝のステージ────」
「へい、パース」
「……な、なんだよ」
「マイボマイボー」
「今そういうのじゃなかっただろ!!
お祝いくらい言わせろよ!」
「……ていうか何してんの
一人でこんなところで」
「ん? あー……たまたまだよ
ジョギングで立ち寄ったらさ、
そこに忘れ物のボールが転がってたから、つい」
そう言いがてら樹里は透に軽やかなチェストパスを寄越した。片手でボールを受け取った透は大物然としてのんびりとドリブルをしながら公園に入っていき、ゴールを背にする樹里に正対して少しばかり息をつくと、突如猛然と抜きにかかる!
「おっ……!?」
「油断大敵ピョン」
「なんでスラダンの深津なんだよ」
外サイドに向かってロールターンした透のドリブルにすぐさま樹里がキャッチアップして進行方向を塞ぐ。抜けないとわかるやオーバーヘッドを示唆する視線で選択肢をブラすが、上方向にも隙のない樹里のポジショニングに業を煮やした透はピボットフットを起点にステップを試す。しかしふとキープが体幹から遠くなった瞬間に樹里の手が伸びてきてボールを弾いた。
樹里はそれにすぐさま追いつき、完全に自分のものとして低重心でドリブルしながら振り返る。その位置で構えてぐっと垂直に飛び上がったかと思うと、跳躍のピークからシュートを放ち、またもボールはリングに吸い込まれた。コートラインは3ポイントのレンジだ。
「山王を名乗るにゃ百年はえー」
シュートの構えのまま右手をクイクイ曲げる仕草で不敵に笑う。
「…………マジかー
……ワンモア」
「ああ、いくらでも付き合ってやるよ!」
透も学校の中ではバスケがかなり上手い方だ。女バスでさえ一目置くプレイに対し、体育とか球技大会なんかで黄色い声援が上がるのもごく見慣れた景色だった。そんな透を手玉に取る樹里には素直に感心するし、ストバス的なトリックムーブというよりも本当に勝つための堅実なプレイスタイルが実直な人間性を反映しているかのようだ。地に足の着いた感覚や面倒見の良さといった安定感は曲者揃いの事務所の中での清涼剤であり、常日頃仄かに寄せていた彼女への好感はプレイを眼前にして敬意へと変わろうとしていた。
「…………っ……
はっ……────」
「お、ギブアップか?」
「……ふふっ
もう全然いいわ 言うことないわ
やっぱコイツ強いわ、もうダメだ 強い」
「フリースタイルダンジョンの呂布カルマかよ」
何巡もしつこくプレイを繰り返すものの散々弄ばれてへばった透。ロードワークの前にレッスン室で行っていた特訓で既に消耗していたせいか、これ以上続けても流石に敵わないと悟ったのか素直に負けを認めた。肩で息をする透に対して樹里は一切呼吸を乱していない。『放クラ』の面々はフィジカルオバケと聞いていたが、まさかここまでとは。
それにしてもこういうところで一切手を抜かない樹里に大人気なさを感じないでもないが、それは正々堂々としたアスリート精神の眩しさでもある。青く爽やかなぶつかり合いに入っていけなくて遠巻きで眺めるにとどめていたら、不意に透からお鉢が回ってきた。
「えーと、パス」
「──ちょっと
何パスしてんの」
「買ってくるわ、飲み物
討っといて、仇」
のろのろと公園の外に歩いていく透。託されたボールを手に立ち尽くしていた私へ樹里が声を掛ける。
「……どーする?
やるか?
手加減しねーけどな」
「……冗談
敵いっこない」
「やってみなきゃわかんねーだろ」
そう言って樹里は屈託もなくいたずらに歯を見せる。皮肉でもなんでもなく、勝負とはわからないものだと完全に信じている顔だ。真っ直ぐすぎる。私に可能性を見出すプロデューサーの表情と重なる部分を感じて、二の句を継げなくなった。
ただ一方でこの頃エネルギッシュなスタンスに辟易ばかりしていられないと冷笑的態度を改めつつあったのは確かだし、静かに燻る情動のようなものを目の前の熱き少女に問うてみたくなってもいた。それに樹里とは一度、じっくり話してみたかった。一度、二度、ボールをゆっくりと地面に弾ませる。
「……準決勝、見た?」
「ああ チョコと配信でな
よかったよ すっげー面白かった
円香もああいうアツいとこあんだなって思ったよ」
「正直どう感じた?
忖度なく批評して」
「え、アタシの感想……?
そんなん、聞いたところで何の得が……」
「ツッコミとして、樹里の好みや感性を知っておきたい」
「おー……
そういうことなら……いいけどよ
つっても、突然感想って言われたって……
んー……
まぁ、その……感情移入はしやすいかもな
ツッコミが、今の自分と似てるところがあるっつーか……」
「自分と似てる……?
まさか……
樹里も、漫才ステージという枠組みを意識して
メンバーにツッコミをしてるってこと……?」
「なっ……はぁ!?
状況の中での役割のことだよ!
それ以外は、ぜんっぜん似てねーし……!!」
「そうだよね
早とちりした ごめん」
「あ、当たり前だろ
んなの…………ありえねーから……」
慌てて否定しにかかるのは謙遜だろう。樹里にとって『ツッコミ』とは日常会話の中での何気ない仕草に過ぎないのであって、スキルとして大げさに取り立てることへの抵抗があるのだ。それは芸人という職能を侵犯すまいとする慎みだし、息をするような当たり前の所作を気にも留めない、野生の強者としての態度だ。
「なら感情移入っていうのはどういうこと?」
「それも状況の話でさ
んー…… なんだろ
臨場感っていうか
その場で自分がなんとかしなきゃっていう
そういう焦りみたいなのが他人事と思えなくて」
「…………」
望まざる反応に少しばかり消沈する。ネタの内部ではなく『メタ』方向に意識が行くことは、未だ私が『優越理論』の範疇で七転八倒して見えている証左だ。伏し目がちで話を聞きながらボールのバウンドを断続させる。
「ただ……
そんなんじゃダメなんだよな」
「…………?」
ふと樹里は考え込むようにして虚空を見上げた。そして深く息を吐き、何かを思い定めたように私へ向き直った。身の竦む、刺すように真剣な面持ちでの睥睨──
「………………
……円香、心の中では相方のこと信頼してねーだろ」
「──……
…………違っ」
「違くねーよ
だったらなんで透がいねーとき狙って相談してきてんだ?」
「…………っは」
「透の隣に立つ資格ねーよ、アンタ」
「…………!!」
ボールを撞く手が空を切る。一瞬何を指摘されたのかわからなくて、しかしそのパンチラインの意味するところを即座に理解し、忽ち恥辱と憤怒で上気した。視界が赤らむ。
顔を上げて睨むと、奪い取ったボールを人差し指の上でスピンさせる樹里の姿があった。樹里はボールの下半分を叩いてさらに回転を加え、鋭いガンを飛ばし返してくる。
「図星みてーだな
怒ったか?
ツッコんでこいよ、1on1だ!!」
「……ふざけるな」
私と樹里の目線同士の間に火花が散る。樹里は足元にバウンドさせたボールを即座に片手で把持し直し、小刻みにフロントチェンジする。片足を交互に大きく踏み出し、腰を落として股の間を潜らせるシザーズ。全く必然もなくV字に往復するボール。先程までの誠実なハンドリングは嘘のように豹変し、そのスタイルからは私を完全に舐め切っているというただ一念のみが伝わってくる。樹里……こいつ、煽った…………!
「円香、アンタはさ、なんでも自分でやろうとするんだ」
「はっ……はっ…………
────」
急転してゴールに向かおうとする樹里に追いつき立ちはだかる。追いつけたのは彼女が敢えて待ったからだ。背中側でドリブルし私が伸ばす手をいなしている。かと思えば見え易い正面位置でバウンドさせてその下を上体を屈ませてくぐるトリック。どこまでも私を苛立たせる……!
「最後には自分しかいないって
ゲームメイカーは自分だって思ってるんだろ」
「…………っ……
はっ……────」
これ見よがしに内サイドへ持ち込もうとするモーションを感じ、すぐ逆へ反応することで樹里のジャブステップにへばりつくことが叶う。しかし大外で持っていたはずのボールがない。動揺する私をよそに樹里は再び内サイドに切り返してボールを拾っている。ボールはどこから現れた? さっき私が追いついた瞬間、ビハインドバックで内サイドへと放たれていたのだ。樹里はそのままゴール下までドリブルしレイアップシュートを決める。バックボードがバタンと音を立て、リングへとボールを弾き落とす。
「そのくせ見え見えなんだよな、ビビってんのが」
「…………っ
──────…………」
ボールを持った私をあからさまな挑発で焚きつける。……上等。
低くした姿勢のシンプルなドリブルで様子を見た後、急激なフローティングを仕掛ける。持ち込みたい方向から遠い位置に視線を釘付けにしたいがための誘導だが、しかし広く視野を持つ樹里の目を掻い潜れず、本命のクロスオーバーが潰えてズルズルと外に押し込まれる。無駄な手数から苦し紛れに打った情けないシュートはブロックされ、敢えなく攻守が転換する。
「円香がウケてんのはワードセンスじゃねー
それがバレるのが怖くて言葉を重ねてんだ」
「はぁっ…………っ…………」
私にじっくりミートして視線を合わせる樹里。今度はシュートを忽ち放ち、私の頭上を跨いだゴール方向を見つめている。急ぎ振り返るがボールはどこにもない。慌てて再び樹里の方に向き直ると余裕の表情で真上から落ちてきたボールを手に取った。シュートのフリをして私の意識を背後に逸らしつつ、ただ自分の頭上にボールをトスアップしていたのだ。全く意味のない、ただ魅せるためだけの舐めプ……
そして片手に取ったボールをそのまま振りかぶって私の肩上をかすめさせ、刹那、彼女はローリングで私を抜き去ってダッシュし、リングに当てて跳ね返したボールをタップシュートした。乾いたゴールネットの音が公園に響く。……空中戦じゃ分が悪すぎるでしょ。
「透と全然芯の太さがちげーんだよ」
「────……っ………………
……っ…………」
「見た目だけカッコつけた的場浩司
でもハートはチキン 名古屋コーチンってか?」
「……フリースタイルダンジョンのR-指定かっっ」
何度トライしても1本さえポイントを取れないまま、遂に体力の限界が訪れた。私は倒れ込んで下肢を投地した。
──強すぎる。それはもう、怒りさえ風化するくらいに。
しゃがみ込んで顔を寄せた樹里は、喘ぐような息で揺れる私の肩を拳で小突きながら『ナイスファイト』と言った。涼しい顔をしているように見える樹里も流石に額に汗して息を弾ませていた。
「…………
樹里、訊いてもいい?」
「なんだ?」
「どうして、ツッコミ役を引き受けているのか」
「や、別に引き受けてる訳じゃねーけど!?
……でも
あー……それは……
…………」
「……樹里、話したくないなら──」
「──笑いたいと、思ったから」
「…………うん」
「みんなで笑いたいって、
もっと仲良くなってみたいって思ったんだ
本当に『ツッコミひとつで笑える』ならって──……
けど……
面白いのかも
ちゃんと仲良くなれてるかも、……正直わからなかった」
「樹里…………」
「予選に勝ったらとか、一番得点を決めたらとかさ
そういう正解、……みたいなものが
平場には無いだろ
や……違うか
『アタシたちのトーク』には無い、から……」
「…………」
「メンバーに出会って
今のアタシでも、何か出来るんじゃないかって
……そう思ったのに
ゴールがどこにあるのか、
どこに話を持っていけばいいのか
どんなふうにオトしたいか
まだわかんなくて……
だから悪い……円香
全然、ツッコめてないんだ」
──
(リングをかすめたボール
届かなかったパス
返ってきた、音
望んでみても)
──
「…………
アタシさ、メンバーに会うまで……
今の自分には何があるんだろーって、ずっと思ってた
けど……最近、考えるようになったんだ
仲間の絆は、思ってたよりも強くて……
アタシはこれから、
色んな可能性に出会えるのかもしれないって
……円香が、透と決勝に受かってくれたみたいにな」
「……よく言う、あんな散々煽って」
「……その、悪かったな
……言い訳になるかもしれねーけどさ
ただマジに向かってきて欲しかったってだけなんだ
──なんならあれ、全部アタシのことだしな」
「……悪質」
「でもよ、何もかも背負い込みすぎって思ったのは本当だ
円香は結局のところ、透を信頼してない」
「…………!」
「……怖いのもわかるし
ケガだってさせられないけど──
自分がミスるからスベるとでも思ってるのか?
でも、それを含めて『チーム』なんだぞ」
「…………」
「アタシに展開を読み切る力はねーよ
つーか『正しい』ツッコミもわかんねー
でも、チョコが、夏葉が、凛世が、果穂が
必ず拾ってくれる アタシをゴールまで連れてってくれる
それがチームの『可能性』なんだ」
「──……
ふ、あれだけワンマンプレーで踊っといて
どういう嫌味?」
「ちっ……げーよ!!
なんでそうなるんだよ!」
「なんだっけ? 名古屋コーチン?」
「あーあー、聞こえねーなー!」
「FAKE 佐村河内
Shall we 死のダンス? 役所広司」
「うるせーな!!!!!!!!
ゴリゴリ来んなこの皮肉屋が!!!!」
和解し空気がほどけて談笑しているうち、コンビニまで飲み物を買いに行っていた透がレジ袋をぶら下げ帰ってきた。
「ういー
盛り上がってるね、なんか
ゴリがどうかした?」
「おー、遅かったな
湘北キャプテンの話はしてねーっつの」
「どこまで行ってたの」
「ふふっ、ごめん
財布なかったわ
取りに戻ってた レッスン室まで」
「どあほう
──……ねぇ樹里、これに頼れって……?」
「あー……
うん、でもまぁ……
そういうことだよ」
「………………はぁ」
「──お
持ってるじゃん、ボール
討ってくれた? 仇」
「ウソのようにボロ負けした」
「ふふっ 山王戦の後かーい
じゃーやっつけるか、一緒に
2on1で
へい、パース」
「ん」
2on1、か。
──透がいるということ。
行き詰まった時にパスを渡せる相方がいるということ。
一緒に戦うということ──
「まぁちょっと待てって
せっかく飲み物買ってきたんだから
まずは水分補給だろ?」
「あ、そうだったわ
買ってきたから 2人の分も」
「マジか、悪りーな
ノクチルといえば、もちろんあのドリンクだろ?
やっぱ冬でもさ、汗かいた時に冷た〜いスポーツ飲料は嬉しいよなっ
アタシもちょうどサッパリしたかったとこだぜ、ありがとな!」
「え」
「……樹里、もしかして展開を読み切って丁寧にフってる?」
「な、なんだよそれ
どういうことだよ……?」
「…………なんでもない
……浅倉、何買ってきたの」
「とろ〜りあったか
ほっと生姜湯」
「そうそうそう運動後にはコッテリ喉越しの温か〜いピリ辛飲料で風邪予防
って、おい!!!!!!!!
とびっきりジンジャーじゃねーか!!!!!!!!」
「超どあほう」
──────⑱ チョコレー党、起立!
「お呼びいただきありがとうございます、皆さん」
「いよっ、待ってました!」
283バラエティ三銃士──結華さん、智代子、にちか──のグループチェインから招待を受け、私と透はファミレスに顔を出した。祝勝会と壮行会を兼ねた集まりという触れ込みだが、到着してまず目に入ったのは智代子の目の前に屹立するパフェの器。既にコーンフレークの層に達しているスプーンの進みは主賓への遠慮というやつを微塵も感じさせない。もうわかってきたけど、その甘味への執着って最早プロ意識とかじゃないでしょ。
まぁ実際のところ、最近の業界の歓待ぶりに疲弊した私たちにはそのぐらいの気安さが丁度良くもあり、肩肘張らない関係性は素直に喜べるものだ。とはいえ私には果たさなければならないケジメがある。背を正し、頭を下げる。
「……ご無沙汰していました
不義理をお詫びします
ご存知の通り、私たち『とおまど』は
M-1グランプリ決勝に出場します」
「イエー」
「…………うん!
本当に……本当に、おめでとう」
「行くとこまで行っちゃいましたねー、ガチで……」
「皆さん、2・3回戦のネタ制作では大変お世話になりました」
「え
そんなんやってたの
知らなかったわー
呼んでよ、私も」
「浅倉の暴走対策会議だったんだから
本人呼んだってしょうがないでしょ」
「どうもー
ご本人登場でーす」
「あっはは! なんか久々に会った感じしないや!」
「ね! ずっと透ちゃんのこと、みんなで考えてたわけだし!」
「私なんて夢に出てきましたもん
いやー、でもやっぱ生だと違いますねオーラが」
「ともかく
皆さんが『システム漫才』を提案してくださり
その波に乗りここまで来ることができました
改めてお礼申し上げます」
「そんなとんでもない!
それはまどちゃんたちのセンスと努力あってのことで──」
「ありがとうございます
ですが、私はもう『システム』を棄てる決意をしました
そのことはまずお伝えしなければと思いまして」
そう、私は『システム』に限界をみた。透の意志も、私の情動も、型によって牽引・制御しなくてはならない段階を超えた。私たちの人間性、私たちの関係性によってしかあり得ない漫才。恐らくそれは、もっと透明で、自由なネタ。
「……え
そんな我慢してたんだ、めっちゃ
感じてたんだ、痛み」
「…………は?
何のこと?」
「ほら、あれ
呼吸法のやつ ロシアの」
「それは『システマ』
みなみかわじゃないのよ松竹芸能の
私が言ってるのは『システム』
まぁ我慢はしてなかったわけじゃないけど」
「……ネタ始まってますー?」
「あははっ!!
にしても──うん
そう、やっぱりね!
……それがいいよ、まどちゃんは正しい」
「──その『向こう側』に行った、ってことだよね、円香ちゃん」
「やはり含むところがありましたか」
合点した表情を見せる一同。2回戦ネタ制作会議の段階で、『システム漫才』と口にしてはみながら自ら難色を示す結華さんの様子が想起せられた。
「まぁねえ……?
暴走の抑制や時間管理のためとはいえ
型へ嵌めちゃうことへの躊躇はあったねー」
「そのことについてはあの場で確かにおっしゃってましたね」
「でも、『形式的な漫才』を体感しておくことは
円香ちゃんの成長のために不可欠だったと思う……!
古典落語じゃないけど
型を知ることで、型の外側の世界が見えるようになるから……」
「言わんとしていることは、まあわかるけど」
古めかしい例えをしてくる智代子。思えば彼女の趣味は全体的にオーソドックスでコンサバティブなところがある。それはありふれた属性という自己評価からくる戦略なのかもしれないが、私の目からは畢竟、自身の『素材の良さ』を引き立てる簡潔な加飾であるように見える。鬼に金棒、智代子にチョコ棒とやらだ。
「その辺は、王道を重んじるチョコの采配らしいっちゃそうかもね!
さっすが武将様の刀捌き!」
「ミサイルマン岩部みたいに言うのやめてくださいー」
「……にっちゃん、東京の女子高生なのに関テレ履修してるの……?
お姉さん怖くなってきちゃったよ……」
「必要な勉強ですしー」
「……勉強好きなんだねぇ」
「好きじゃありません!
あんなの全然面白くありませんから!」
通るかわからないネタを会話中に忍ばせてくる遊び心に、かつては自身の博識を隠しきろうとしていた結華さんの胸襟が解放されつつあるのを感じる。全く共感しかないにちかの感想にも、心の浅越ゴエが腕を組んで頷く。
「あっはは! じゃあ勉強の話をしちゃうと……
日本の喜劇の原型は武家政権が庇護してたわけだしね!
観阿弥・世阿弥の能と狂言
チョコ侍が笑いの型を重視するのも然もありなんって感じ?」
「私、そんなに武士っぽいかな……?」
「え 何
やってた? 剣道とか」
「浅倉さんなんでそれバッティングのフォームで聞いてるんですか」
「……や、やってないよっ!
コテはコテでもチョコ塗る時のやつしか使わないよ!」
「……??
塗るんだ、あれで
そっかー」
「智代子、そういうハイコンテクストなボケは浅倉に通じないから
今浅倉の脳内にはチョコでベッタベタな剣道の籠手が浮かんでる」
「え 違うの?」
「ついでに言うと
竹刀がポッキーみたいにチョココーティングされてるでしょ」
「やば エスパー?」
「あはは! あっはははは!!」
「甘く見てたっ……チョコだけに……!」
「……っはあー……!
いやー、ホンモノだね これよこれ!」
樽いっぱいのワインにスプーンひと匙の汚水を入れるとそれが樽いっぱいの汚水になるがごとく、透が混入した会話は透色に染まりきってしまう。それがわかっていたから会議に呼んでこなかったわけだが、なぜだかこの場では少し胸がすくような気分の良さがあって、私は内心鼻を高くした。
* * *
「────古典の型に話戻すとさ
いつだったか『放クラ』が落語『死神』の朗読やってたの聴いた?」
「ええ、アーカイヴでですが」
「あ、聴いてくれたんだ!? ありがとう!」
「ろうそくの火に見立てた男の命が『消える』はずのサゲを
視聴者参加の『燃えるぞー!』コールで復活させる翻案がされてて
あれも古典という型があってこその展開だよね!」
「うんうん! これは果穂のアイデア!」
「……ふうん」
「何で樋口さんが誇らしい表情してるんですー……?」
「樋口、好きだから 児童」
「人聞き悪いな」
ブラックなオチをオンラインミーティングならではのヒーローショー的なインタラクションで燃え上がらせた翻案は、古風な原案を昇華させる斬新な演出だった。そうした着想は結果的に『放クラ』の徳性とも合致していて感心させられたものだ。
「放クラのみんなで色んなバリエーションを聴き比べたんだけど
確か立川志らくがやったやつだっけかな……
お誕生日ケーキのノリでろうそくを自分で吹き消すアレンジとか
そういう自由な発想のサゲが結構あってね?」
「──なるほど
型を仕込まれたことで私はまんまとそこからの脱却を試みたと
『システム』という真新しいメソッドを古典に重ねることは
多少暴論と思わなくもないけど──」
漫才は伝統芸能というには歴史が浅い。あって100年そこそこだろう。お笑い戦略の前景化だってテレビ放映史からみてもここ最近の傾向のはずだし、理論や舞台裏をありがたがる風潮はそれこそM-1というドラマの肥大がもたらした視点によるものだ。
家庭にはほとんど必ずテレビがある。地上波放送は、スマホが身体の一部になっている私たちZ世代にもなお強権を揮うメディアに他ならず、案外学校での話題も昨日見た番組がどうだのといったことは全然ある。生まれた頃にはすでにM-1があって、M-1や吉本興業を中心として編成されてきた民放各社のバラエティは、『お笑い』のセオリーが社会にとって当たり前で重大な存在かのように刷り込んできたし、芸人崩れの人気YouTuberやTikTokerも結局はテレビメディアからの影響を断ち切れない。
──
《──えー!
雛菜ちゃん、そこつっこまなきゃでしょ
リアルの話じゃないんか〜い、って》
──
『システム』に限らず、ボケ、ツッコミ、回しなどの型は、さも会話術の正解のように──無論そこに深い歴史の裏付けなどなく──自然と一般大衆の社会生活に取り入れられていった。それはテレビに映る『人気者の振る舞い』を身につけたいという俗人の背伸びであり、人とのやり取りを規範に当てはめて済ませようとするコミュニケーションの怠慢であった。
しょうもないことを言った、噛んだ、失敗した、他の人と違うことをした……それらを悪し様に揶揄するのが正しく面白いとする、型の誤配により社会に蔓延した低劣な価値観。幼なじみの間柄には、良くも悪くもそれがなかった。
『型があるから型破りが出来る、型が無ければ単なる形無し』だのと宣ったのは歌舞伎役者だったか。その言を借りるとするなら、社会にとって私たちは形無しだったということだろう。一般大衆向けのネタを演るにあたって学んだ型は確かに会話を急激に『お笑い』らしく整え私を得心させたが、漠然とした息苦しさは生簀の狭さを強調した。
「──……何にせよ思惑通りなわけね」
「──それ以上だよ、まどちゃん!
『とおまど』はどんどん変化していった……!
準々決勝、準決勝と、私たちの手を離れた漫才は想像を遥かに超えてきたね」
「円香ちゃん、もうわかっててやってたかもしれないけど
準々決勝以降のネタは既に『システム』じゃなくなってたんだよね」
「…………?」
「うわー……わかってませんって顔ー……
そもそも『システム』のセクションはですね
あんなに複雑に奇形化するものじゃないんですよ
もうあれは、『しゃべくり漫才』です
完全に『正統派しゃべくり漫才』なんです」
「あえて大袈裟にいうなら……
準々決勝ネタ──不条理と非日常の混沌は立川談志の『イリュージョン』
準決勝ネタ──ジャジーな速射砲はツービートの『スタンダップコメディ』
……震えたね……!
────『天才』だって」
「どういう褒め方なのか知りませんが
身に余るということだけは何となくわかります」
「しかも、まだ納得してない
まだまだ足りないと思ってる
長らく接した型を決勝前のこの時期に棄てるって宣言は
そういうことだよね?
……何かを──求め続けてる」
「…………」
「────ずっと探していたでしょう?」
「そう……だったでしょうか」
「まどちゃんの中には戦い方の答えがあった
でも引き出し方だけがわからなくて──
それを探してた
戦いながら、ずっと」
私は、社会を否定したかった。社会に対する曖昧な怒りがあった。
私の思う社会とは幼なじみの関係性という聖域の外側全てであったし、くだらないコミュニケーションが幅を利かせる学校であったし、心を殺してプロ意識に殉じなければ認められない芸能界であった。
大きな声が沈黙を覆い隠し、剥き出しの豪胆さが繊細な詩情を押し退け、けばけばしい絵の具が透き通る水を濁らせる世界だ。
それは────透が輝けない世界だ。
「……………………
そうですね……
すみません、結華さんたちに教えてもらっていたのに、
なかなか……正しい戦い方ができなくて……
何か、もっと……
正しいネタがあるように思っていて……
ネタが持っているあるべきかたちというか……
いや、なんだろ……
すみません、よくわからないことを言いました」
「……ううん
……その『あるべきかたち』は、
ネタが持っているものではないかもね
円香ちゃんの、ここ」
「ここ……」
「そう、まどちゃんが胸の奥に持っているもの
まどちゃん自身のかたち
魂……のようなものと言ってもいいのかも
大事にしてね
いつか、まどちゃんの正解を演れる日が来る
それまで頑張って
…………戦い続けてね」
「………………
はい」
お笑いは見るほうである。
でもお笑いは嫌いだ。芸能界が嫌いだ。社会が嫌いだ。自分が嫌いだ。透が、嫌いだ。
何が大切で、何が心を動かして、何が愛おしいか……そんなこと臆面もなく声高に述べ表せる? 土台無理だ。直情的に魂のかたちを叫ぶなんて、複雑に屈折した私にとってはまるであり得ない痴態だ。
でもお笑いとは、そういう人による、そういう人のためのものなのかもしれない。真実を朗々と語るに躊躇う、暗く沈んだ理性のためのエアポケット。激情の矢面。ネタという虚構としてなら、口に出せる思い。
こんなエゴイスティックな怯懦が噴飯物であることは百も承知だ。けど、『世界にたった一つの正解』の隠し場所は、そこ、で、いい──
「……
樋口の、正解」
「……ん」
「あるんだったらさ
やろ、見つけて
『樋口の漫才』を」
「────違う」
「…………?」
「私の漫才じゃない
とお……『浅倉の』
──…………いや
────
……『浅倉と、私の漫才』だから
それを忘れないで」
「ふふっ そっか
そうだよね
ありがと
…………
……しゃー やるか
『とおまどの漫才』
一緒に」
(((…………とおまどの波動……ごちそうさまです!!)))
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