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とおまど、M-1に出る。 True End編

総目次

前話(最終決戦編) あらすじ
本大会最高得点を記録し最終決戦に駒を進めた浅倉と樋口。それは数々の史上初記録を塗り替える前人未到の快挙であった。両者は1本目を遥かに凌ぐ怒涛のしゃべくり漫才で会場を圧倒し完全優勝を飾るが、二人が番組エンディングで放った衝撃の一言で会場は阿鼻叫喚となる──


──────㉔ True End


「……」

「おもんないねん
 大体な、わかってまうねん。上におっても、どこにおっても
 なんか……予想通りになって、色んなことが
 ないねん、あんま
 びっくりしたり、わーってなったり」

「あー」

「ステージおる時だけ
 ほら、浜田とか────
 ────41年横で屁ェこいてる相方」

「────41年」

「わかる?
 いつか嗅いでみてくれへん? 匂いだけ」

「……え?
 うん」

「自分すごいね……。
 作柄のええ年のブドウだけ使たヴィンテージちゃうねんぞ」

「……────」

「むしろ枯れるで、あれで今野菜とか高なってんちゃうかな
 やもんで息グッッ止めといて
 こうやって久々に外の空気吸うて……
 ……やっっとハナ効くようなる」

「……おー
 してるんだ、息
 うん
 わかる」

「わかる?」

「え、うん
 わかんないけど
 わかるよ
 嗅いだことないってことは」

「息止める時間違うたら、もうアカンねん」

「知ってたの? じゃ
 いつ止めたらいいか」

「ううん、わかれへん
 だから驚くの、いっつも」

「……」

 待機ルームに残した水のボトルは出番の隙に片付けられたようで、喉の渇きを覚えた私は誰に声をかけて良いやらわからずバックステージを暫し彷徨った。そうしている束の間、カリスマ同士の共鳴だろうか何故か審査員長が透にハマったとみえ、スタジオから楽屋への導線上でわざわざ足を止めやけに話し込む姿があった。失礼がないかヒヤヒヤするが、割って入るのはどうかと思い距離をとって眺めるにとどめる。お互い真剣な表情で何を話しているんだかと内心呆れているうち、徐にやってきた西の女流看板から声がかかる。

「お疲れ様、おめでとう!」

「──ともこ姐さん
 お疲れ様です、ありがとうございました」

「……あれホンマなん?
 解散するんって」

「いたって真剣です」

「いや毎週木曜夜ちゃうねん
 『とおまどのいたって真剣です』やないねん」

「まぁ、ご想像にお任せしますが」

「……残念やなぁ、マジやとしたら
 円香ちゃんには女芸人引っ張ってって欲しかったな
 …………うん
 ……バケモン出て来てもうたわ〜〜思てん正直
 海原千里の再来や────って」

「それ、上沼さんがバケモンという言い方になってますが
 色々大丈夫なんでしょうか」

「──……ああなるで、円香ちゃんも」

「やめてください本当に」

 かつて『天才少女漫才師』の肩書きを恣にした姉妹コンビ『海原千里・万里』。彼女らは『海原やすよ・ともこ』の血縁にあたる近代女流しゃべくり漫才の草分け『海原お浜・小浜』へ師事した、上方演芸の名門『海原一門』の系譜に属する漫才師であった。
 妹の海原千里こと上沼恵美子が初めて演芸場の舞台に立ったのは、私たちよりも更に若い14歳のことだったという。歌手を目指していた彼女は嫌々のうち漫才の世界に入ったのだが、結果として立板に水の類稀な超絶話術で漫才界へ革新をもたらし、無二の伝説となった。
 また、関西の女帝として君臨し畏れられている現代の姿から想像こそつかないものの、うら若き当時は『漫才界の白雪姫』と称され人気を博していたそう。多数のレコードをリリースし歌手としても成功──彼女の輝きはまさにアイドルのそれであったという。烏滸がましいが、恵まれた才気で早い時期から『いい席に座れた』という境遇には近いものを感じないでもない。

 そうこう話しているうちに審査委員長がこちらに気付いた。たった今察知しましたよとばかりにわざとらしく俊敏に身震いをし、こちらに視線を向けてくる。

「おーっと? 漫才クイーンやーん」

「……お疲れ様です」

「ンハハハ
 まーたなんか自分ら、お騒がせしてるじゃな〜い? なんか〜」

「……お騒がせしています」

「ンナハハハッ、いやー楽しませてもろたけどねぇ
 やってるやってるーって────
 ────えっ、あれ冗談やんね?」

「冗談だと思います?」

「ま、どっちでもええですけどね」

「……冗談です」

 突然のスンとした真顔に萎縮して、試すような発言をさすがに即刻訂正する。反射的な応答スピードがお笑い的に合格だったのか、彼は僅かに口元を和らげてみせ、無言のまま大きく肩を震わした。
 僧帽筋でパツパツになっているスーツが今にもはち切れそうで気を揉んでいると、プロデューサーが様子を見に来た。

「────すみません、
 そろそろ記者会見だと伺っている時間なんですが……
 ……透、円香、いたのか……!
 楽屋はこっちじゃ────」

「あー……
 ちょっとおしゃべりしてましてん
 あの……ほんなら、どうぞ
 よろしくお願いします〜」

「……あ、はい
 ────あのさ」

「ていうか何でずっとタメ口なん?
 地元の友達か?」

「……ううん
 じゃ、41年後に」

「……ンッハッハッハッハッハ!!」

「あ……じゃ、二人とも頑張ってな
 おめでとう、ほんならね」

 失礼の限界を突破している透の態度に絶句しているうち、ハラハラする姐さんをよそに審査委員長は何がおかしいのか高らかに笑いながら通り去っていった。プロデューサーも私も、透の非礼を詫びようにもただその巨躯を見送るほかなく、しばらくの間呆然とその場に立ち尽くした。

* * *

 我に帰ったプロデューサーは、改めて私たちの前に向き直った。

「透!
 ──円香……!」

「イエーイ」

「あ……
 見てましたか」

「ははっ、イエーイ!
 当たり前だ!!
 なあ、結果……!
 ──やったな」

「あ、はい。優勝です」

「ああ、優勝だ!
 やったな二人とも……!!
 みんなわかってくれたんだ!
 二人の、才能も、実力も、運も、全部全部っ──!」

「…………
 ハンカチ、貸しましょうか」

「ははっ……大丈夫だよ
 円香が使ってくれていいから」

「……いえ
 私……泣きませんので」

「なんか、
 あんまり現実感ないかも
 でも……──」

「ん?」

「プロデューサーの顔見てたら、
 なんかいいことしたかもって感じ、してきた」

「いいことだよ
 多くの人にとってもそうだし、何より──
 透と円香にとって、そうだ」

「……──
 うん
 そうだね
 うちに帰って……
 寝る頃にはさ
 わかってると思う
 私たちにとって、
 きっとすごく大事な日だったって──」

「──……
 ……たぶん今日は、帰って寝る暇なんてないけどね
 あと、こうやって今のんびり話してる暇もない」

 この後も関連番組の生収録が続く。スケジュールは分刻みだ。
 先ほど22:10に終了したテレ朝第一スタジオでのM-1本番組に続き、22:30からは同社2階プレゼンテーションルームで『優勝者記者会見』が開催される。その裏では別スタジオから『イヴより熱い大反省会』が24:00までLeminoで生配信され、さらにその後は『打ち上げ byストロングゼロ』の配信。その日の仕事がようやく終わるのは26:00ごろ。眠る間も無く翌朝05:25にはフジテレビ『めざましテレビ』生出演があり、各社の午前帯報道バラエティを梯子することになる。
 スタジオ、ロケ、リモートなど、あらゆる番組収録の押し寄せる波は途切れることがなく、ようやく見つかる合間合間でも雑誌やネットメディアのインタビューが入り、解放されるのはまた夜。『矢面に立つ売り物』にも程ってもんがあるでしょ。
 過去出場経験のあるファイナリストたちはその辺をよくわかっていて、手短に、しかしそれでいて力強く送り出してくれる。既知の通り、本当の戦いはここからでもあるからだ。

 続く会見は同社屋内で行われるが、地下1階の第一スタジオから地上2階のプレゼンルームへ移動するだけでもそれなりの距離がある。辺りは祝賀ムードに包まれている反面、未だ作業が残るスタッフの行き交う様子は当然物々しく、先程までいたスタジオから一転していやに狭く思える廊下の窮屈感が焦燥を煽る感じもある。
 加えて面倒なことに会見後の『大反省会』配信はテレ朝本社でなくアークスタジオで行われるようで、楽屋に戻るや荷物移送のため指定の袋に私物を纏めるよう指示を受けた。手に取ったスマホをふと見るとチェインの通知バッジが3桁を回っていて血の気が引いた。見なかったことにして電源を切り袋へ放り込む。ポケットに忍ばせたところでスーツのシルエットが崩れるだけだ。
 透を見遣ると、呆けながら動きを止め何か考え込んでいる様子だ。ぼーっとしてる場合じゃなさすぎるでしょ、時間もないのに。訝しんだプロデューサーが声を掛ける。

「……透?」

「うん、行く
 いいよ
 会見会場いてくれて」

「おう……!
 楽しみにしてる」

「ねー」

「ん?」

「ごめん」

「……?」

* * *

 準備の済んだ私たちは楽屋を出て、カメラや会見の司会が帯同しようとしてくるのをそれとなく振り切りエレベーターに滑り込んだ。スーツの裾を引く感覚を訝しんで振り返ったら、そこには別の楽屋から流れてきたプレゼンター2人がいた。

「「「「……!!」」」」

 透、私、小糸、雛菜。ノクチルの4人だけになる空間は随分久方ぶりのことのように思える。そんな悠長なことを考えるべき刻ではないけど、それでも。

「「「「…………」」」」

「「「「──……ふふっ」」」」

「「「「あははっ……」」」」

 顔を見合わせて、4人して笑い転げた。
 何がおかしいんだかわからないけど──少なくとも4人して畏まったスーツ姿であることの可笑しみはあったが──、私たちが紡いだ、私たちが編んだ、全ての物語が愛しくて、面白くて、楽しくて……とにかく笑った。
 ただ扉が閉まっただけの、誰をもどこにも連れて行かない静止したままのエレベーターの中で、宙ぶらりんの私たちは狂った振り子のように体を揺らして笑った。
 誰か、ボタン押しなって。押さないと上にも下にも行けないでしょ。

 この窮屈だが心地よい箱は、かつて私が欲望した聖域そのものであった。他の何者の賞賛も承認も要らなければ、この外の世界さえも要らなかった。時間が止まったまま、いつまでもドアが閉じたままならいいのにね。
 でも、もう潮時。私は名残惜しく無言で2階のボタンに手を這わせ、それが押し込まれてしまった感触を確かめて息をついた。そしてエレベーターは、小さく揺れた。

 床面の微細な振動とインジケーターの矢印で上昇を感じながら、私は背中で透の不意な身動きを感じた。内緒話だろうか、小糸と雛菜を引き寄せ何やら密かに耳打ちをしたかと思えば、それを聞いた小糸は驚いて絶句し、雛菜はくすくすと声を漏らした。
 そして透は私の肩を引いて振り向かせるなり表情を緩めた。

「何」

 ──その笑顔に、ゾッとするものを感じた。

 B1Fをさしていた階層表示が切り替わる前に、透は私の体をずいと押し退けて1階のボタンを押した。意味不明な行動へ面食らっているうちにエレベーターのドアが開く。

 その刹那、透は小糸と雛菜の手を引いて廊下に躍り出た──!

「──────」

「行こ」

「あは〜
 うん〜!」

「……!
 え……! ど、どこに────」

 一瞬凍りつく。
 しかし透のしようとしていることを即座に理解して総毛立つ。

 まさか。
 嘘でしょ。
 記者会見を前にして──
 怒涛の番組出演を前にして──

 ────透は、私たちを連れて逃げ出そうとしている!!

「────っ」

 咄嗟に触れた開ボタンを押し続ける右手が震える。ふざけないで。いい加減にして。
 ……即座の『解散』までならまだウケになる。加えて私にとって芸能界で消耗し続けることに対する執着は薄いし、4人が4人でいられるのならその居場所を変えることだって厭わない。
 でも、番組をボイコットして逃亡する不義理はあまりにも敵を作りすぎる。人生を賭けて挑戦した漫才師たちに泥を塗る。審査員にも、スタッフにも、スポンサーにも、事務所にも、あらゆる関係者に迷惑をかけすぎる。業界も世論も何もかも敵に回す。
 今度はかつて干された原因になった『口パク事件』の比じゃない。規模は一番組の利害に収まらない。日本の大衆メディア全体を巻き込んだ放送事故──私たちはどこにもいられなくなる。そのことをわかってる?

 あり得ない。
 あり得なさすぎる……
 ──それは『破滅』への道だ。

「まどかー!」

「……!」

 廊下から呼ぶ声。よりにもよってその呼び名で!

 手にした全てを捨てて、待ち構える何もかもを振り払って『終わり』へとひた走りゆく、その目も眩むような姿に私は戦慄を覚えた。
 小説『火花』のラストシーンにも似た、一切後戻りの出来ない決定的なカタストロフの退廃美……

「────どっか」


《海にしよう》


「逃げる〜!」

 しかし態度や思考と裏腹に、私の胸はなぜか言い表せない歓喜のような高鳴りで破れんばかりだった。ぞくりと震えた。

 ────正直、面白すぎる。
 こいつら、最高すぎる。

 上がりそうになる口角をどうにか抑えつつ、私は開ボタンから手を離した。
 ああ、本当は絶対に止めなきゃいけなかったんだろうな、これから私たちは勇んで滅びに向かっていくんだろうなと他人事のように思いながら、閉まりそうになるドアをすり抜けて、先を行こうとする透たちの背中を追いかけた────

「だ、誰か来ちゃうって……!」

「未成年を深夜に働かせちゃダメなんだし
 いいことでしょ」

「い、いいことなのかな……!?」

 労基法や自主規制基準に照らし合わせると、18歳未満のタレントの生出演は概ね22:00までというふうに定められている。時計は既に22:30を回っていた。

 テレ朝社屋の長辺を東西に横断する中央通路は今日受付をした関係者専用通用口へと続いていて、行き交うスタッフに引き止める間も与えず、私たちはそこへと疾走した。入口に立つ警備員も、入ってくる人を警戒するばかりで出る人を抑える想定なんてしていないだろうから、いやに簡単に逃亡を許した。

「脱出成功」

「え、ええ……!
 ……!
 い、いいことしてるって──」

「頑張って〜〜」

「ぴ、ぴぇ…………!」

 走りながら振り返ると、呆然と見送る警備員にスタッフが追いついて指示を飛ばしているのが見えた。かぶりを振ってこちらを二度見する警備員とともに、何人かのスタッフが追いかけてくる。

「逃げよ、一緒に
 ここはひとつ、飛ばしてくよ」

「カッコよく言うな」

 環状3号沿いの歩道を駆ける。左手には毛利庭園の暗がりを突き破るようにして森ビルが煌々と立ちはだかっていて、そのこちらにしなだれかかるが如く聳える巨大な光の柱は、暗に私たちの行路を反対側の方角に指し示しているようであった。

 上り坂に息を切らしているうちに階段が見えた。麻布トンネルだ。真っ直ぐトンネルを抜けてもいいが、直線では追いつかれる気がして階段を二段飛ばしで駆け上る。4人の吐息が石張りの壁に反響する。
 上の道に躍り出るとヒルズの駐車場へ続くと思しきロータリーがあり、環状3号の真上に跨る一般歩道が右手へと続いている。崖下を遮るアクリル柵からはテレ朝のアトリウム側を一望することができた。ダッシュで弾んだ息はそのまま白い靄となって麻布の夜闇へと溶け込んでいく。
 車通りは疎で人っ気も少ない。先程までの乱痴気とも言うべき会場の盛り上がりから一転した、祭りの後の静けさ。

「……ていうか、どこ向かってるの」

「六本木ヒルズだったら、逆〜?」

「あー……
 なんか
 続いてるし、道
 こっちに
 え、戻る?」

「……!
 う、ううん────!」

「……行くか
 戻るのも面倒だし」

「あは〜
 コンビニあったらジュース買う〜」

「……たぶん、追いかけてくるだろうけど」

「オッケー
 じゃ、逃げよう
 追いつかれるまで」

「どっちみち戻れない」

「ま、円香ちゃん……!
 透ちゃん……!」

「あは〜
 逃げた〜
 撮ろ〜!」

「ひ、雛菜ちゃん────!」

 歩道の突き当たりには下り階段があった。そこには私有道路みたいに慎ましいタイル張りの遊歩道があって、くねくねとした道筋を抜けた先はどうやら六本木通りから一本裏手に入った通りに続いているようだ。
 丁字路に行き当たって左奥に見えたのは恐らくヒルズのメトロハットだろう。ここまで来るともう知っている道で安心するが、夜の装いに召し替えた大人の街の、しかもクリスマス・イヴの特別な雰囲気は、普段夜遊びをしかねる未成年の私たちを辟易させつつも高揚させた。

(12月は
 ざわざわしてる
 色んなとこで
 色んなことが起こっている
 はずなの
 だが
 色んなとこで
 おんなじことをやっている)

 普段だったら率先して諌めてきそうな小糸も、いつの間にやら自ら弾むようにして前を駆けている。小さな背中なのにそれがなぜかとても頼もしく思えた。車通りのない裏道だからって、4人で道幅いっぱいに広がり威風堂々とアスファルトを蹴る。

「──ふふっ
 いいねー
 やる気、小糸ちゃん」

「う、うん……!
 それに……
 10時半だよ、10時半……!
 みんなで……!」

「──普段だったら、出歩けないからね」

「えへへ……
 うん……!」

「特別だから
 今日は」

「うん……!
 夜なのに道、
 きらきらしてるね────」

(────
 濡れてるみたいな
 光ってるみたいな道
 どれだけ先の音も伝えられる
 透明な空気
 何かが終わる時と
 始まる時がまざる
 いつでもない時間)

「してるね
 きらきら
 M-1優勝後の道
 どこにも
 つながってない道」

「……
 車、通らないのはいいかもね」

「うん……!
 もう少し行ったら六本木の真ん中じゃないかな……!」

「へぇ
 じゃ
 ジャンプしよ」

「……!
 え……?」

「真ん中で
 六本木の」

「ええ……」

「……!
 い、いいけど……」

「すごく悪目立ちする」

「「あははっ……」」

* * *

(みんな……!
 ──どこ行ったんだ
 優勝だぞ……?)

「────も、申し訳ございません
 その……」

「あー……」

「……私の不行き届きで、このような事態となり
 誠に申し訳ございません。一切の責任は私に────」

「おもろいね」

「────……」

「めっちゃ……おもろい、ほんま
 ──こんなんしばらく見たことないもんね
 紳助兄ィおったらガツーンいかれてたかもやけどね」

「……────」

* * *

 芋洗坂まで走り着くと、さすがに夜の街の喧騒が色めき立ってくる。辿り着いた六本木5丁目の5叉路に息を切らして立ち止まるのを、頭上の大型オーロラビジョンが照らし出す。肩で息をするパンツスーツ姿の娘4人組を怪訝に思ってか、通行人が次々と足を止めていく。

「おー、東京ファンだ イエー」

 そのうち私たちが『ノクチル』であると周囲にバレるのに時間はかからなかった。ある閾を境にざわめきは突沸し、交差点中に轟く歓声として臨界した。今出歩いている人々は時間帯的に概ねM-1を見ていないかもしれないが、既にネットでは速報が出回っているに違いなく、祝賀の狂騒は辺り一帯に波及し次々と人を呼び込んだ。いつしかそれはクリスマス・パレードの様相を呈し始めた。

 人の密度が俄に増してきて、歩道の真ん中あたりにいたはずの私たちはじりじりと路面店のシャッターに追いやられる。
 5丁目1番の北端に位置する歩道はみっしり埋まってきて、その場から溢れた周囲の野次馬も含めた人頭はおそらく2〜300を優に数えるだろう。各々がスマホを高く掲げて動画を撮影しているし、きっともうツイスタなどで言及されているであろうことは疑うべくもないから、関係者に現在地がバレるのも時間の問題だ。
 ──そして何を期待してか『ノクチル』コールと『とおまど』コールが手拍子とともに囂々と巻き起こり、首都高の高架下に響いた。流行ってる四文字の筆頭みたいに。

「やばい……
 飛ばなきゃ」

「そ、そうだった……!」

「へ〜
 何〜?」

「六本木の真ん中で
 ジャンプするんだって……!」

「そしたらどうなるの〜?」

「特別な感じになる」

「あは〜!
 じゃ雛菜もやる〜〜」

「難しいよ
 ぴったり、ジャストで
 地面から離れなきゃダメだから」

「何それ〜!」

「あと10秒」

●ON the STREET time remaining:00:00:10

「9、8……!」

●ON the STREET time remaining:00:00:08

「7、6……!」

 何も知らない周囲の群衆が、私たちの秒読みに加わり始める。

 それは渦となり──
 熱波となり──
 ──地響きとなった。

●ON the STREET time remaining:00:00:06

「5……」

●ON the STREET time remaining:00:00:05

「まどか」

●ON the STREET time remaining:00:00:04

「……」

●ON the STREET time remaining:00:00:03

「2」

●ON the STREET time remaining:00:00:02

「1────」

●ON the STREET time remaining:00:00:01

「「「「──────」」」」

────(Jump!!)────
○ON the STREET time remaining:00:00:00

「おめでと〜!」

「おめでとう……!」

「おめでとう」

「イエー」

(きっと
 すべては消えて)

「ふふっ
 ニューチャンピオン、イエー……!」

(ほんとの世界になる) 


──────㉕ Open End


「てか、あれみたいだったね
 ポテチル」

「湖池屋コラボのね」

「……あの撮影も、みんなで手を繋いで飛び跳ねたよね……!」

「ね〜〜」

「あれ、本当になんだったんだろ……?
 ──秋発売で、海で、氷河期って…………」

「「チルチルノクチルチル」」

「意味不明」

「「もぎたて♡にーチップス、召し上がれ〜〜」」

「うるさいな」

「やは〜〜」

「ふふっ」

 熱狂的な状況を鑑みれば渋ハロのようにもみくちゃにされてもおかしくなかったのだが、ビジョンの建物を背に4人で連んでいたことでどうもそこがライブステージ的に認識されたか、自然とマルキュー前の店頭イベントみたいに空間がキープされだし、歩道から溢れた人波は車道にまで及んだ。漫才なんかじゃ到底ないけど、4人のフリートークは自ずと耳目を集め、聞く態勢になった観衆を笑いで沸かせた。
 歩道をぐるりと囲んだ車線が人で満たされてきて安全を危ぶんでいたら、人集りをどうにか掻き分け前列に出てきた何名かが、麻布警察署の警官が騒動を聞きつけこちらに向かっているらしいことをわざわざ教えてくれた。ちょうどドンキ側の対岸への信号が変わりそうだったので急いで3人を引き連れ駆け出そうとしたら、人々は声を掛け合いながら横断歩道への導線を確保し、小さな道を作った。改組前のM-1にて、敗者復活を征し大井競馬場からテレ朝に向かう道中の人垣みたいだ。
 信号は点滅を始め、私たちは慌てて突っ切る。

「怖い街なのに、いたね いい人も」

「見かけで判断しちゃいけませんね」

 観衆一同はその場から破れんばかりの声援と指笛で見送る。横断歩道の途中で透と雛菜が振り返って手を振ると、皆々が大きく手を翳して応えた。

「どうも、あーしたー」

 追いかけて来ないのは私たちのために人垣で警官を食い止めようという一致団結なのかもしれない。あるいは私たちだけの時間を尊重しようという計らいなのかもしれない。ともかく歓楽街の民度を甘く見積もっていたことに恥じ入る。トー横や道玄坂よりは幾分大人だ。
 横断歩道を渡り切るとちょうど信号が赤に切り替わり、外苑東通りを車が流れ始めた。その少し後になって芋洗坂の方では警官が追いついたようで、警笛を鳴らしながら人集りを散らそうと試みる様子が窺われた。

「た、楽しかったよね……!」

「うん〜!
 みんなもすっごい楽しそうだったしね〜?」

「……うん!
 と、透ちゃんと円香ちゃんは
 どうだった?」

「んー
 樋口は?」

「よかったんじゃない
 野次馬も喜んでたっぽいし」

「え、えへへ……
 そ、そうだよね……よかった……」

「浅倉はどうだったの?」

「あー……
 ……なんだろ
 めっちゃいたね、人
 何、見えてたかな」

「ん〜?」

「み、みんな
 私たちのほう見てくれてたよ……?」

「あー……
 ふふっ
 なんか、こっちが見てたって感じだったから」

「……
 見てるぶん、見られてたんじゃない」

「え? そっか
 いいね
 見えてたのか
 あれ」

「ていうか、見られてる」

「へ〜〜?」

「警察こっち見てる」

「やば、走ろ」

「ぴぇ……!?」

「ふふっ
 おとなしく立ち退きなさーい」

「その説得ポリス側のやつだから」

 ぐだぐだと油断しながら屯していた六本木交差点から、麻布方面に向かって突如疾走する。先陣は透。悪ノリにも近い、サーキットトレーニングの成果を見せつけるような本気のスプリント。わーきゃー走り縋る小糸と雛菜。白い息を置き去りにして、繁華街の歩道を切り裂いて、私たちは冬の風になった。
 息が上がってきてドンキ横のファミマ辺りで足取りが緩んだ。一同膝に手をついて肩で喘ぐ。来た道に目を凝らしてもこれだけ距離をとってしまえばさすがに追手の気配はないし、黒いスーツは夜の街に紛れる。ていうかそもそも逃げるために走ったっていうよりは、走りたかったから走ったようなものでしょ、透は。一頻り気を晴らして満足そうに見える彼女の表情は、しかしまだ有り余る迸りを何かにぶつけたがっているようだった。

「──────」

「乗ろ……タクシー……」

「……!
 い、いいのかな……勝手に……」

「うん
 今日賞金、めっちゃ貰ったから
 超リッチなんだ」

「まだ貰えてはないでしょ」

「……タクシー!」

「タクシー……!」

 終着の見えない行路は依然続きそうだ。車道へ食い込むような勢いで放り出された雛菜の挙手を前にして、早速黒塗りのタクシーが停車した。ミニバン型のそれは4人でも余裕で座れそうだが……ところで何やら見覚えのあるフォルムだ。

「これ……
 ふふっ あははっ、あれじゃん
 アルフォートじゃん」

「いやアルファードね
 それだとブルボンの帆船になっちゃうから」

「アルファート……あれ?
 アルフォート……あれ?
 アルファード」

「まあだいぶ言えてなかったけど
 ほらドア開くよ」

「ういーん
 うぃんうぃんうぃんうぃん」

「ぴゃ……!」

「威嚇されたわー
 オラついてるね、この車」

「顔が世紀末の鉄仮面なんだわ
 ノクチルの治安が疑われるのよ」

「あ〜 ほんとだ〜
 アミアミみたいになってる〜〜!」

「ふふふっ
 砂漠の悪党だ、私たち
 マッド・ノクチル 怒りのデス・ロード」

「……んふっ……ふふ
 何がよ」

「い、いいから乗ろうよ……!?」

 めちゃくちゃすぎ。
 運転手はパンツスーツ姿ではしゃぐ私たちのことを飲み会終わりの酔ったOLとでも思っているのか、特段気にする様子もなく着座を待つ。お疲れ様です。
 4人ともアルファードに乗り込んで、中列に小糸と雛菜、後列に私と透で座った。──で、だ。

「でも、どこ行くの?」

「う、うん……!
 透ちゃん、どこ行くの……?
 遠いとこ……?」

「雛菜、すっごく楽しいとこがいい〜!」

「どこ、行くの────」

「えーっと……」

 こんな会話、したことがあったね。その答えは決まってる。
 みんな、知ってる。わかってる。

「海にしよう」

 やっぱりね──
 まあ、そんな漠然とした目的地を告げても運転手を狼狽させるだけなんだけど。案の定行き先を決めあぐねいた運転手は困った素振りで私たちの二の句を待つ。

「んー……
 ──じゃ、砂浜
 どこすか、砂浜あるとこ」

「……砂浜ねぇ
 葛西、お台場、若洲……
 あぁ城南島の『つばさ浜』なんてのも」

「……!」

「あは〜〜!」

「ふふっ
 もう、それじゃん 
 行こう、『283浜』」

「決まりね」

 アルファードは外苑東を走り出す。
 左手の車窓を見ていたら『三井ガーデンホテル』の角で左折した。日本橋の三井に翻弄されていた1回戦のことを思い出しほくそ笑む。行路はいつしか首都高の高架が沿う麻布通りに続いていた。

「──……
 ちゃんと高速のほう乗ってください
 ここ今インターチェンジですから 飯倉インター
 主線入ってください頼みます」

「ふふっ
 ふふふっ」

「湾岸線か羽田線、どちらになさいます?」

「どっちがどうなんですか〜〜?」

「時間は大差ないですが、
 湾岸線だとレインボーブリッジを渡ります」

「やは〜〜!
 雛菜そっちがいい〜〜〜!」

「おー
 じゃ、それで」

「……わぁ……!」

「たのしそ〜〜〜!」

 一ノ橋ジャンクションを超え赤羽橋に至った辺りから、珍しくもクリスマスカラーで発光する東京タワーが見え始めた。赤いベースカラーの投光に緑のポイントライトが等間隔で点っていて、尖塔のてっぺんが黄色く星めいて輝き、あたかもクリスマスツリーのように聳えて東京の街を彩る。首都高は柵こそ高いものの、広々と開けている芝公園一帯にビルは見当たらず、その鋭利な突端を十分に望める視界が確保されていた。

「ニョキ」

「とがってんな」

「ニョキ〜〜!!」

「とがってんな」

「……にょ、にょき……!」

「丸いな なんかとがってること言ってみて」

「……ぴぇ!?」

「ほら、ヤンキーみたいなさ」

「…………
 ……せ、先生がよぉ……」

「「「とがってんな」」」

「もう……!」

 ふざけているうちに浜崎橋ジャンクションの立体交差に差し掛かり、左前に座っている小糸が窓の外を見て声をあげた。

「……あ!
 この辺、準決勝やった会場あたりじゃないかな……!?」

「すご
 よくわかるね」

「……ほら……!
 にゅーぴやーサウスタワー、埠頭から見えた……!」

「そこまで覚えてない〜
 それよりレインボーブリッジ〜〜!」

「ん
 目の前に見える」

 皆々が左手に気を取られているばかりで目の前が疎かになっていたせいで、ブリッジの絶好なフロントビューは一瞬だけ見えたきりすぐさま通り去り、ビルによって遮蔽されてしまった。しかし夜に輝くランドマークの装いをその一瞬のうちに気付いた前の2人は、はしゃぎつつ身を寄せあう。

「ね、今……!」

「うん〜〜〜〜♡」

 隠れたレインボーブリッジはものの数分もしないうち、芝浦あたりで再び姿を現した。次第に近づいてくる橋梁は自らが発光しているかのようにライトを照らし返してその存在感を示す。

「おー」

「綺麗〜〜……」

「光ってる……!」

 これまでフジ本社や湾岸スタジオの収録に出たことがないわけではないし、そこへの行き来はプロデューサーの運転。道筋は当然湾岸線なのでレインボーブリッジなんて幾度も通ってきた。準決勝の日も埠頭からしっかりその景色を眺めることが叶ったし、東京住まいの私たちにとって特段珍しいものではない。
 けれど稀に見る夜の湾岸線は決まって仕事を終えた帰路で、こんな時間に往路からお台場を望むことなんてなかった。それに加えてとっぷり夜の暮れた臨海副都心の閑静な煌めきはいつだって非日常へと心を誘う。ましてこの夜空をキャンバスにしたシャボン玉色の夢みたいな思いがけない光景──光空記録──は、大きな達成と大きな喪失の狭間で燦然と煌めき胸を焦がす。

 アルファードは門のような主塔をくぐり、逆アーチを描くケーブルライトが近づいてはまた遠のく。それの終端にあたる2本目の主塔までの光陰はスローモーションのようでいて射られた矢のようでもあり、感傷へ浸るにはこの1km足らずの橋長は些か短すぎた。

 通過してしまった光架の名残を惜しむ間もなくアルファードはお台場の外周をぐるりと回り込み、有明ジャンクションを経てフジテレビの真裏に出た。青海地区の煌びやかな夜景はここまでで、私たちの視界はすぐさま東京港トンネルの暗く無機質な擁壁に遮られた。閉塞感はなんとなく場の空気を重くして、私たちを少しばかり現実に戻した。

「ふぁ……────」

「ここまできちゃったけど……
 ──ほ、ほんとに大丈夫、かな……」

「……あれ、朝まで続くんでしょ
 知らないけど」

「ん〜
 タイムテーブル、ぎっしりだった〜」

「そ、そっか……!」

「次、あれだっけ
 居酒屋でやるやつ」

「サントリーのね」

「ライバル企業だ、大塚製薬の」

「スポンサー意識してんな」

「メニューはサントリー製品のみとなっておりまーす」

「高校生が居酒屋あるあるはNGでしょ──
 ──ラベル上にしてお酌させられそう
 あとそういうの大悟よりノブのが気にしそう」

「……君たち高校生?」

「あ……すいません違います
 すこぶるサバ読みました
 全然OLです」

「バリキャリで〜〜〜す♡」

 トンネルを抜けようとも、大井埠頭は主にその面積を大規模な物流倉庫や車両基地、あるいは海浜緑地などが占めるようで、夜景としては幾分面白味に欠ける。湾岸線からは見えないが、京浜運河を挟んだ大森側には大井競馬場もあるらしい。大井南インターから下道に降りて城南大橋とやらに差し掛かると、その郊外的な茫漠とした景観がより一層寒々しくなってきた。

「これ、海?」

「……『前浜干潟保護区』、だって……!」

 小糸が現在地を表示したスマホを透に見せた。

「そっか
 そうなんだ
 干潟かー
 …………
 ──わかんないや、暗くて」

* * *

 スーツの成人女子4人組が固まっていればうら寂しい夜道の面倒見も要るまいと判断したのであろう、タクシーの運転手は迎車の番号だけ控えさせて私たちを海浜公園の駐車場前に残した。身元がバレれば即補導だ。
 トンネル内での問答のほかに危なっかしかったのは支払いの段、貴重品を楽屋へ置きっぱなしにしていることを思い出した透と私が二人して『ごめん、財布ないわ』と打ち明けたせいで、変なツボに入った小糸と雛菜がエグめの咽せ方をしてしまったことぐらいか。幸いにして両者は懐に貴重品を携えていて、なんなら小糸に至ってはいつぞやのバラエティ番組の際に配給されたタクシーチケットさえ帯行していたのだから、持つべきものは幼なじみだ。
 考えてみればあの番組のせいでM-1に参戦することとなった一方で、その時のタクチケが巡り巡ってM-1からの逃避行に力を貸しているのだから、妙な因果だ。

「……あ
 プロデューサーから」

 砂浜に向かって歩いているうちに小糸のスマホが鳴った。私たちは仕事用の着信音をそれとわかるように設定している。大方プロデューサーは一向に電話を取らず既読もつけない透と私に散々業を費やしたのだろう、レスポンスのいい小糸の方へ働きかけてみるのは普通に考えて当然だ。

「……そ、そろそろ
 出た方がいいんじゃないかな……?」

「……あ、切れた
 ────送る? メッセ
 大丈夫ですって」

「そ、そうだね……
 現在地とかは、いらないかな……?」

 小糸からスマホを受け取った透はそばにあった海浜公園の案内図を投げやりに撮り、ノイズだらけのザラついた画像をメッセージに放流した。

* * *

「……────
 電話、出ないか……
 ……何で────」

(────なんで、じゃない
 ……わかってるつもりなんだ
 ……着信────)

『ごめん。ヒア』

(────海……
 わかってるつもりなんだ
 ────海が必要だっていうのは)

* * *

「────海、寒いね〜」

「んー」

「……」

「けっこう、暗いね……」

「んー」

「……
 ま、まだ全然、大丈夫だけ────」

「体、冷えてきた〜」

「────ん……」

「……」

「あ、飴とかなかったかな……」

「さっきお菓子も買えばよかったね〜」

「んー……」

「……」

 時折羽田国際線の離発着が空を劈く。私たちは遣るかたなくそれをただただ眺める。ファンヒーターみたいな航空燃料の匂いの混じった潮風が容赦なく体温を奪っていくので、芯から冷えた手の行き場をスラックスのピスポケットに求めたら、その中に端切れとスペアボタンが入っていることに今更気付いて苦笑したりした。

 名も知らぬ人工島と羽田空港の他に浜辺のパノラマビューを遮るものはない。お台場海浜公園との大きな違いはまずそこで、遠望を跳ね返す対岸の夜景なんてものはなく、目の前には途方もない水平線だけが横たわっていた。
 そのぶんここは私たちの思う『海』により近い。埋め立てられたレクリエーションエリアの空々しさを隠そうともしない『海のニセモノ』や『砂浜のニセモノ』でお茶を濁すよりは、夜のつばさ浜が湛える景観の寂寥は私たちの心象にこの上なく即していた。まぁ、ここだって人工の砂浜に違いないんだけど。

 逃避行の高揚なんてものはとうに去って、その燃え滓みたいな心の灰燼が浜風に吹かれて飛ばされていく。きっと大人ならこういう痛々しいほど無為で白けた気分を紫煙に預けて凌ぐのだろう。生憎私は未成年だし、そんな賢しらな小道具がなくとも精神的な自傷に陶酔してしまえるくらいには子供だ。浅倉透についていえば、その程度はもっとひどい。自傷で済めばいい。彼女が試みてきたのは、自爆、あるいは破滅だ。

 私たちは意気揚々と旗を掲げ、海を統べた。でもそれが所詮作られた海で、埋め立てられたウォーターフロントに過ぎないと思い知ったとき、彼女は果たして安逸を貪っていられるだろうか。なんにせよ、この未だ窮屈な生簀に透を押しとどめておくことは度し難いことのように思えた。だからボイコット以外の選択肢はなかった。
 夜闇に揺れる透の瞳は暗く澄んでいて、海の奥の奥に今にも吸い込まれていきそうで、それがどうしようもなく怖くて、私は自分の心臓の辺りをぎゅっと掴んだ。

「……あ」

「あは〜……
プロデューサー」

「────みんな……」

「「「「──────……」」」」

 海への視線を切ってプロデューサーの方へ振り返った透に、心底安堵した。プロデューサーの到来をよすがに『陸』とのつながりを思い出した透の表情は、身の毛もよだつような幻視を危ういところで払った。
 ──突然海面が震い、意思を持った波が浜に躍り出て、透の細い足首を掴み、物凄い力で引き摺り込み、どす黒い海底へ連れ去らんとする幻視を……

「…………その
 乗ってくれ、って言ったら
 ……乗ってくれるか?」

「「「「…………」」」」

「……怒らないの?」

「……怒ってる
 でも……
 わかってやってることなら、説教じゃ止められない
 だから────
 ……だから、シンプルにいこう
 帰ってきてくれるか」

「「「「……」」」」

「……寒かったし、海
 暗いし」

「まあね」

「お腹減った〜」

「う、うん……」

「ここまで、今日は
 待ってた」

「よかった
 ……うん
 おかえり」


(────私に、海は用意できないです
 それは、彼女たちの心に広がっているもので……
 すごく大きい
 そして、大きな海だからこそ
 無数の進路があって
 ────いつまでも一緒にいるわけじゃないって知ってる
 幼なじみってことがじゃなくて
 この世界が、彼女たちをつなぎとめてくれてるんです
 だから────
 ────この世界が、少しでもいいものであるように
 少しでもいい食べ物があって、波が穏やかで……
 危険にさらされない場所に、誘導できるように
 そして……
 いつか旅を終えた時に、きちんと足が使えるように
 陸でいたい)


* * *

 こうして私たちのささやかな逃避行は終焉を迎えた。プロデューサーの車はお台場へと向かっていく。なんてことはない、目的地は翌朝フジ本社スタジオにおける『めざましテレビ』出演のため押さえられていたベイサイドのホテルだ。
 すっかり沈黙した私たちを乗せ、車は来た道を戻る。道中の車窓から一望できたはずのレインボーブリッジと東京タワーはイルミネーションの点灯を終え、常夜灯の無機質な発光を残して都市の冷たい夜闇に紛れていた。

「消えてたね、光」

「24時回ってるからね」

(空には数えきれないほどの色がある
 色は、混ざれば濁る
 そうして塗りつぶされた夜になった)

「解けたのかな、魔法が」


──────㉖ Bad End


 彼女たちをホテルへ送り届け、取り急ぎ『打ち上げ』の現場に電話報告を済ませたあと、俺はひとまず『大反省会』各位への対面謝罪を果たすためアーク放送センターへと急いだ。辛うじて現場に残っていた出演芸人一同はなぜだかこのアクシデントに対してありがたいことに洩れなく好意的で、美味しい出来事として面白がりさえしてくれる有様だった。OAでも上手く転がして笑い話に着地させてくれたらしい。

(────それに、よかった
 ノクチル最高だって、思ってしまった)

 とはいえ、番組進行を大いに妨げたことは到底楽観できることじゃない。演者に続き、身を引き締めて制作デスクへ赴こうとしたその時、ある人と鉢合った。

「あ、283さんー」

「──!
 ど、どうも……あの……
 大変……申し訳ございません……!」

「────あー……
 あはは、浅倉クンたちのことです?」

 それは『とおまど』M-1グランプリ出場の絵図を描いてみせた、生配信バラエティ番組のチーフディレクターであった。
 他局の制作がなぜこの場にいるのか。ネット配信のノウハウが買われてLeminoへ傭兵的に赴いていると考えれば不自然でないように思えるが、スタッフ証さえ身につけず局内を悠々闊歩する様子には得体の知れないものを感じる。

 ──283プロと連携しながら『外側』からM-1を盛り上げていきましょうという建前でいた彼だが、実のところスタッフリストに明示されない『内側』の人なのではないかとずっと睨んでいた。なぜって小糸と雛菜のキャスティングはやりすぎだし、改めて見る彼の異質さは、やはりその疑念を強める。

「……先ほど、審査員長には謝罪させていただきました
 せっかく番組を手配くださったのに、このような────」

「このような……って、ははは、もう真面目だなぁ……!
 確かにこれ、仕事ですしねぇ
 彼女らを目的に来てるわけだし
 フロアの人たちみんな、いいネタ聴いたなってだけに──
 ふふっ、でも期待してた方からすれば最高じゃないです?
 喜んでたでしょ、あの筋肉ダルマ」

「……筋肉──
 は、はい。それは──」

 ……運営側の人間であることを前提としたカマ掛けを軽くいなし、悪びれるでもなく話題を続けてくる。
 『とおまど』、いや、『ノクチル』をM-1グランプリという一大興行へと緊密に絡め取る力業。そんなの、発想したところでおいそれと実行できうるものなのだろうか? 彼は名目上ネット局制作統括の役職に収まってこそいるが、実際本来、系列会社への出向で回ってきているかなりの上役なんじゃないのか? それもテレビ朝日ではなく、朝日放送テレビの方の……
 吉本の大御所に軽口を叩けて、恐らくスポンサーにも顔が効いて。そして、芸能界たるものをよく知っていて。

「────いや、まぁまぁ。まぁ、わかりますよ
 マネジメントする方は気が気じゃないでしょうねぇ
 なに勝手なことやってくれてるんだっていう……
 ふふっ、こういうのやっぱお仕置きとかになるんです?」

 言葉をそのまま受け取るとすれば、これはこちらの失態に対する小言だ。だが、違う。彼の言葉には複雑な含意がある。業界人になりきれない俺という人間の青さを嗤っているようでいて、明らかに言外の『何か』を仕掛けてきている。でも、その何かがわからない。カードを伏せきったままポーカーが展開する。

「い、いえ……その────
 ────その、お仕置きというか……
 お約束をしたはずのことを、
 しなかったわけですから……」

「ま、ちゃんとした仕事なので
 信用問題ですからねぇ
 従順な売り物を作るって意味では、失敗かな?」

「…………」

 ……真意が読めない。俺は不敵な笑みを浮かべる彼を前に怯んだ。全てのきっかけとなったバラエティ番組において、この昏い眼光を放つ男の甘言に絆され、致命的な罠──大事なアイドルたちを何かの生贄に捧げてしまったのではないかという疑念が湧き起こる。

「……あはは、やっぱりそこが悩みどころですか
 『彼女たちは売り物じゃない』────」

「……」

「じゃ、何?
 ……っていうね
 あはは!
 いい顔だなぁー、283さん」

「……!」

 いや、間違っていないはずなんだ。俺は透を、円香を、みんなを──望む空に羽ばたかせてあげたかったんだ。これでよかったはずなんだ。これはみんなの自由意志の帰結でなければおかしいんだ。責任なら、全部俺が取ればいいんだからさ。
 しかしながら言いようのない呵責の念は消えず、わななく唇を諌めようと表情が強張る。

「あんなクジラみたいなの、
 入れとく生け簀なんてないですよ……あっはは」

 俺は『とおまど』について言及されているテイで話を合わせてきた。そして彼もまたそのことを望んでいる。でも、先程より彼の口から語られているのは『とおまど』のことではない。

 ……あなたは『誰』のことを言っているんだ? あなたは透や円香ではない『誰か』のことについて、核心に触れないよう極めて慎重に迂回しつつ暗示している。それって、一体──

* * *

「──円香……!」

「……何か用ですか
 もう帰るところなんですが」

「!
 ああ、それは……すまん
 ええと……じゃあ少しだけ──」

「ふふっ……
 涙、出るほどちゃんと笑ってくれましたか」

「……えっ……」

「え?
 まさか泣いてくれなかったんですか?」

「ん?
 あ、ええと……」

「あなたの情熱はこういう時こそ活用すべきですよね
 何やってるんですか?」

「な、泣いてないとは……
 ……その、恥ずかしいから内緒に……」

「驚きです。直球勝負しか能がないあなたに
 恥なんて高等な感情が残っていたとは」

「…………一応は…………」

「……まぁ、
 その後起きたことの笑えなさについては
 こちらも責任を感じていますが」

 ──『とおまど』出演予定番組を全バラシし、今後漫才師としてのオファーは一切退けさせていただく……という、彼女たちの意思を最大限尊重した前代未聞の提案は、意外にも一切の遺恨を残すことなく受け入れられた。

 弊社所属アイドルのキャスティング等に影響を及ぼすことが懸念され、社長も283プロ経営に対する打撃を覚悟の上で同意した議案だったのだが、蓋を開けてみれば短期的にはメディア各社による報復的措置もなく胸を撫で下ろした。
 そればかりか表舞台から突如雲隠れした『とおまど』のあれこれについてを、史上類を見ないミステリアスな商業戦略と『あえて誤読』した上であらゆる局がスクラムを組み、時代の寵児として持て囃す報道が加熱していった。それは瞬く間にして社会現象ともいうべき盛り上がりをみせ、他の話題を塗り潰さんばかりの圧倒的なキラートピックとなった。

 次年に向けた事務所での年内最終打ち合わせも一苦労で、今や好奇の目が集まりすぎる283プロでの入り待ち出待ちを躱すため、4人それぞれ時間をずらしてもらう措置をとる始末。決勝後の連日は人で溢れ返らんばかりで多摩中央署からの厳重注意が入ったくらいだ。ちなみにノクチル全員は狂騒のピークを知らずに済んでいる。幸か不幸か、みんなしてあの海の夜寒で風邪をひいて顔を出せなかったためだ。

 なお本件からの飛び火で所属アイドルの円盤やグッズに大幅な追注がかかったり、本業の方のオファーが続々舞い込んでくるなど弊社事業全般に対する嬉しい余波もある。この白熱ぶりは勿論感謝すべきことではあるのだが。

 ──出来過ぎている。あまりにも出来過ぎている。

 普通だったら、こうした思わぬ僥倖は素直に喜んでよかったのかもしれない。しかし正式な提案に至る以前、全バラシという暴挙を大袈裟に肯定し、あまつさえ他社との折衝を買って出たのが他でもない例のディレクターだったという点に、不気味なものを思わずにおれなかった。

 どうにも晴れない怪訝な気持ちにわだかまる中、俺はある記事を目にし愕然とした。
 そして驚きとともに、これまで感じていた違和感が一つの『線』に収束する直感を得た。
 ……例のディレクターの暗躍とその思惑についての仮説だ。

 以下は全て、俺の勝手な想像である────


《【参加女性が続々告発】
 1泊30万円の超高級ホテルで行われた「恐怖のゲーム」
 「週刊文春」編集部
 2023/12/26
 source:週刊文春 2024年1月4日・11日号
 genre:ニュース, 社会, 芸能》


 浅倉透と樋口円香にM-1グランプリ出場を嗾けた首謀者。以後彼を『D』とし、ネット局に籍を置きながらABCテレビにおいて何らかの決裁権を持つ立場であると前提立てて憶測を展開しよう。


《12月24日放送「M-1グランプリ」の
 審査員長をつとめるなど、
 日本の芸能界のトップに君臨する──》


 本件のファクターとなる審査員長──以後彼を『M』としよう──の醜聞は、リリースが待たれながら長きにわたり文春編集部でプールされていた。真偽は別として、記事化に十分なソースが集まりつつあることを掴んだMの支持者あるいは受益者Dは、記事を無効化するために一計を打つ。
 無効化のための手段とは何か──それは、更に大きな話題性のあるニュースをぶつけることだ。
 掲載時期はMに対する好意的な世論が温まりきった大会直後、そして次報を待つ読者の渇望心を煽る年末合併号こそ蓋然性が高いと踏まれた。その予測もあってDは、自身が動かせるM-1グランプリから何らかのキラートピックを炸裂させようと画策する。


《──が六本木の超高級ホテルの
 スイートルームにて飲み会を開催。
 後輩芸人に女性を集めさせ、
 「ゲーム」と称し、いきなり──》


 開催発表記者会見のすぐ前、Dは自身の手掛ける番組において『とおまど』という才能を見出す。初回出演時は番組展開上の陥穽に他意なく嵌め込んだに過ぎないのだろうが、その途上でカメラを釘付ける型破りなカリスマ性、そして『てっぺん』に手が届きうる堂々たる器量を確信し、計画に取り込む。
 戦果は上々で、それをバックアップする番組との相乗で話題性が臨界にまで高まっていく。その末に『とおまど』は、日本全国の期待を一身に背負って決勝の舞台に立った。

 戦績に関する何らかの操作──いいや、そんなの、疑うだけでもダメだ。そんなこと、考えるべきではない……『とおまど』は、彼女らの漫才はずっとホンモノだったのだから。


《──を迫っていたりした事実が
 「週刊文春」の取材で分かった。》


 もし『とおまど』が優勝すれば──コンビ結成から優勝までの最短記録、最年少優勝記録、最短芸歴優勝記録を大幅に更新したうえ、大会史上初の女性コンビ優勝者となる。そうなれば、過去最大に肥大化した賞レースドラマを塗り替える絶対的主人公として自ずと日本中の話題を席巻するだろうが、その類のポジティブなニュースが不発だった場合のために、もしかしたらネガティブなそれを炸裂させる準備もまたあったのかもしれない。
 今でこそ有耶無耶だが、小糸や雛菜の恣意的なキャスティングだって、やろうと思えば283プロの悪徳マーケティングだとして火の粉を被せられたろう。他にも俺が気付いていない罠がいくつも仕掛けられていたのかもしれない。

 ともかく完璧な優勝を飾ったうえ解散宣言をし、その直後に忽然と姿を消す破天荒は、醜聞を覆い隠すほどの大きな炎が欲しいDにとっては渡りに船だった。だから各社に働きかけてまで円満な形で話題が立ち上がるよう調停し、『とおまど』報道の過熱に薪を足した。


《複数の女性を含む参加者が取材に応じ、
 事実関係を認めた。》


 ところでこれは業界では有名な話だが、吉本興業の上層部がかつて番組制作を巡ってテレビ朝日と対立したため、Mはそこを出禁になっているのだという。Mは朝日系に出演していることもあるが、それは大概関西の朝日放送テレビ、つまりABCテレビ制作の番組である。吉本興業とテレビ朝日は険悪で、他方ABCテレビとは親密。そしてその両社もまた同じテレビ朝日ホールディングスの連結子会社でありながら関係が良くない。
 そのためDの立場は微妙なところにあった。ABCテレビ関係者としての義侠でMを擁護しようと立ち回ろうにも、事件を沈静化するメディアカルテルに吉本興業のステークホルダーではないテレビ朝日だけが乗ってこない。Mが失墜しようと何もダメージがないからだ。


《「週刊文春」の取材班が確認した
 いずれの飲み会でも、事前に──》


 そこで醜聞に関する完全なる第三者としての283プロが絡め取られる。いや、体裁としては283プロのマーケティングにメディア各社が乗っかるという形になろうか。何にせよMの報道を阻むという直接的手段ではなく『とおまど』を盛り上げるという間接的な大義名分をちらつかせた結果、テレビ朝日がその重い腰を上げた。降って沸いたような283プロの打診を隠れ蓑に、Dは自身のポリティクスをうまく秘匿しながら目的を全うした。

 なおこちらサイドにとって、アイドルたちの自由と尊厳を護持することは何に代えても優先させなければならない至上命題であった。
 ……だから俺は完璧な形で漫才を卒業したいという『とおまど』の意思を突き通すため、正体の見えない引っ掛かりを覚えていながら彼の口車に乗ることを選んだ──

(──そのはずだった
 それ以外に、どうするべきだっただろう──?
 ──なんと……なんとつめたいクリスマスだったことか
 ……何が正解だったのか──)


《──の参加を知らせないこと、
 後輩芸人が女性たちの携帯電話を事前に没収するなど、
 その手口は酷似している。》


 権力勾配に基づく支配と加害。ホモソーシャルの悪臭。酷く忌まわしい、はらわたが煮え繰り返るような事件だ。人々に夢を届ける芸能の世界に、こんな闇が存在していいはずがない。
 更に踏み込んで考えれば、Dの『受益』とはまさしく『そういうこと』だったのかもしれない。……うちのアイドルに直接その魔の手が向いたとしたら……? 総毛立つような嫌悪感で背筋が冷たくなる。

 だが、全ては所詮俺の憶測に過ぎない。何の証拠もなく、己の無力感にあかせて好き勝手妄想して出力した類推解釈に過ぎない。記事として暴露されているMの遍歴についても俺自身が確たる根拠を握っているわけではないから、推定無罪の原則に立ちただ法による厳格な審理を待たねばならない。センシティブな問題については、真偽がわからないことを前提として慎重に語らねばならない。
 Dの属性や思惑にしたって、何もかもが俺の青すぎる発想の飛躍、単なる事実無根の邪推なのだ。確証のない内幕を軽々しくアイドルに漏らして傷つけてしまう浅慮もあってはならない。全ては俺の胸の中にとどめ、何事もないかのように平静と沈黙を貫くしかない。ただ────


《女性たちは「芸能界に絶望した」
 「PTSDに悩まされている」などと
 苦しい胸の内を吐露している。》


 ……それでも、俺のプロデュースは正しかったのか。
 万事が取り越し苦労なのだったとしても、俺はプロデューサーとして、みんなに対して一点の後ろ暗さもない、清廉潔白な選択のみをしてきたといえるのか────

 ────俺は…………

「で、要件は?」

「!
 ああ……」

「『優勝おめでとう!』
 …………それしかないですよね」

「全く……はは、カッコつかないなあ」

「……」

「……素晴らしいステージだったよ
 まだ心臓がドキドキして、腹筋が痛くて……
 ……ははっ、これじゃ
 爆笑しているのと変わらないな」

 『とおまど』の漫才は間違いなくホンモノだった。始まりから終わりまで、全力で駆け抜けていくその様の全てが美しく、面白く、不安定で、不完全で、完璧だった。
 半年間、誰よりも濃密な時間で磨かれた原石たち。
 ブリリアントカットじみて乱反射する二人の思いは深く交差しあい、緻密で複雑な輝きを放った。

 それはつゆほども疑う余地のない、透と円香が自分達の力で到達した『闘争』の果ての『真実』だ。
 それは断じて誰にも汚辱されてはならない、唯一にして絶対不可侵の『価値』だ。

「……とりあえず、ひとつ言っておきますが
 私の実力ではここまで来ることはできませんでした
 すべてあなたのおかげです
 本当にありがとうございました」

「えっ……」

「──わ、私だって……
 嬉しくないわけじゃないんです……
 あからさまに喜ぶのも……
 ……ってだけで……その……
 これでも……嬉しいんです……だから
 あ、ありがとうございます……」

 いつまでもその瞳に透明で美しいものだけを映していてほしいと願いながら、どす黒い欲望が渦巻く芸能界へと繋ぎ止めるのは矛盾だと嗤われるかもしれない。
 だけど、そのあまりにも尊い輝きをもって醜怪な魔が潜む荒灘を晴らしてほしいと望んでしまうのは、俺のエゴだろうか。

「……とんでもない
 あのな、円香
 優勝は間違いなく円香たち自身の実力だ
 自分をたくさんたくさん……
 たーっくさん……褒めてやってくれ」

「…………
 はい、今日くらいは素直に聞いてあげます」

 だからせめて、せめて俺は『陸』となる。
 悪意の激浪から逃れるための盤石な防波堤を備えた『陸』に。
 いつだって決して気を緩めず、身命を賭して彼女たちを守り抜く。
 彼女たちの日常を、彼女たちの『いつも通り』を何としてでも守り抜く、揺るぎえぬ不断の覚悟。それが──

「はは……年明けからはいつも通りなのか?」

「もちろん、あなたの気が緩まないように
 ……それでは、お先に
 また来年からもよろしくお願いします
 良いお年を
 …………
 ………………プロデューサー」

 ──それこそが、プロデューサーの原罪に課される対価なのだから。

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