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【ポエム】自己・時間・苦痛;苦痛は自己ではなくまた苦痛は永遠に持続するものでもない

あなたは無限の価値を持っています。なぜならば、あなたは価値を生産したり消費したりする主体ではありますが、あなた自身は「価値」そのものではないからです。言い換えれば、あなたは価値を超越しているとも言えますし、無価値なだけだとも言えます。例えば、あなたの身体のパーツには値段がつくかもしれませんし、あなたの生産物や行為には値段がつくかもしれませんが、 あなた自身には値段がつきません。プライスレスです。つまり、あなたは数量的に価値測定されないのです。すなわち、あなたは無限定の「価値」を持っています。

商品を取り扱う商人それ自体に〝商品としての〟価値はありません。
マンガ「ハイパーインフレーション」

ただ、それに対する諸々の肉体や環境や対人関係上の妨害や障害物があります。これらは否定しようもない事実であり、例えば病気や生活苦や人間関係や就労環境や地域の治安があなたに無数の苦痛をもたらします。

もちろん、あなたが快適さや自分らしさを目指して生きていくに当たって必要なことは、それらの妨害や障害を減らすか、無くすか、とにもかくにもそこから文字通り物理的地理的に離れることです。それが徐々にではあってもできているならそれ以上赤の他人や行政が何か口出しする必要はないでしょう。素晴らしい人生です。しかし、一方で、一種のこじらせてしまった人はそれらの苦痛を自分自身と同一視することがあります。しかし、苦痛はあなた自身ではありません。なぜならば、苦痛にはマイナスの値段がつくからです。マイナスの値段がつくということはそれは金銭を支払って除去可能であるということです。一方、あなたは金銭を支払って除去可能な存在ではありません。あなたには人権があり、あなたの「意識」を確実に無くす手段を人類はまだ発見していないからです。したがって、苦痛はあなた自身ではありません。あなたは痛みでもキズでもトラウマでも悪行でもありません。

長時間の正座は脚をしびれさせることがあります。

とはいえ、苦痛と手を切れないことはあります。あなたが苦痛から仮に離れられないとしても、しかし、それは時間の問題に過ぎません。一時的なことです。一定時間、その苦痛と「つきあわざるを得ない」というだけのことです。つきあう相手は自分自身ではない何かであって、つきあう相手を自分自身だ思うのはやはり勘違いです。例えば、長時間正座した後に脚がしびれてしまった経験はないでしょうか。多くの人は実際に自分自身で経験したことがあるかと思います。この「しびれ」は確かに一定時間「つきあう」必要がある相手です。厄介な相手です。正座せずに済めばよかったし、足のしびれを一瞬で解消する特効薬があればよかったかもしれません。でもそれはたとえあるとしても、必要なタイミングで必要な場所になかったのです。だから、あなたは顔をしかめてしびれに耐えなければなりません……。しかしだからといって、当然、あなたは「しびれ」そのものではありません。

ここでしびれている当人が「私は一生脚が思うように動かせないんだ」と悲観する必要はあるといったら、さすがにバカバカしいのではないでしょうか。しかし、他の大怪我であろうと、精神的外傷(トラウマ)であろうと、これと構図は似ています。ただ、大怪我やトラウマには回復に長期間と複雑な治癒プロセスを必要とするというだけなのです。つまり、そのように規模の違いがあっても、あなたは自分自身が負った大怪我やトラウマと自分自身とを同一視する必要もないし、そう思いたくなるかもしれませんが、そう思うべき理にかなった根拠、理由はどこにもないのです。

もし自分自身とキズとを同一視してしまったらどうなるでしょうか? 実際にそう考えずにはいられない人もいるようです。そのような人々はキズが治っても、自分自身でまた新たにキズをつくってしまうのです。なぜならば、キズは自分そのものなのですから、キズを持たない自分は自分ではないと考えるからです。したがって、彼らは自傷行為や「かさぶたはがし」に夢中になったり、それに依存するかもしれません。そのような人生が快適で幸福なものかどうかは何とも言えませんが、私は一種の病的さを感じますし、周囲の人々も理解にたいへん苦労する行為でしょう。その上、本人自身も苦しんでいて今の状態から脱出したいと思っているなら、ますます誰も得しない状態です。

私たちはこの俗世間に生れ落ちると共に多くの抵抗や摩擦や苦痛を授かります。それらはキラキラしているかもしれず、トゲトゲしているかもしれません。しかし、苦痛と同様に何等かの良きモノがあなたに与えられたとしても、それと自分自身とを同一視するのは危険です。なぜならば、どのような良きモノも奪われるかもしれる、壊されるかもしれず、劣化するかもしれず、あなたの元を立ち去るかもしれないからです。

このように「自己」についてそれが何であるかを考えてみると、それをこの世の中に存在する何か──肉体を含めて──と同一視することは危険であることがわかります。ですから、「自己」は究極的にはこの世の中に存在する何者でもありません。つまり「自己」とは「無」です。仮にこの結論にあなたが同意してくれるとしても、あなたは「無」としての自分自身を継続的に生きることができるでしょうか? それは人間にとって可能なのでしょうか? 常にそのような境地をキープするのは難しいかもしれませんが、自分が病的な状態や依存症に陥っていると思ったときは検討してみることを提案いたします。

(2,266字、[2024年11月11日 16:09])

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