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【雑談】『荒野の七人』と『七人の侍』を見比べてみた

前置き

最近私と父の間で、父セレクション映画を二人でちびちび見ることが流行っている。
父はかなり渋い映画趣味で、例えばジャン・コクトーの『美女と野獣』や1970年公開の仏映画『ロバと王女』などがお気に入りである。
そんな父がCSチャンネルで流れている渋い映画を見つけては録画し、それを二人で鑑賞するのだが、これがなかなか面白い。
父は大体物語の筋を知っていたり、その当時の時代背景に詳しかったりするので、なぜこう展開するのかといったことを解説してくれるのである。解説付きの映画鑑賞、マジでよい。

というわけで、この間は1960年公開の『荒野の七人』を丸々鑑賞し、その後リメイク元の黒澤明の『七人の侍』も家にあるから見よう、というのでちびちび見ることになった。その見比べが案外よかったので、その感想をここに残しておこうと思った次第である。こんなことは過去に何百回・何千回も行われてきたことと思うが、「私」の感想として読み流していただければ幸いである。
(黒澤明の『七人の侍』は1954年に公開され、その後ハリウッドでリメイクされて公開されたのが『荒野の七人』である)

『七人の侍』について

結論から言うと、やはり原版の『七人の侍』のほうが物語に厚みがあり、黒澤作品として世界に衝撃を与え、その名を轟かせたというのもうなづける傑作だった。それぞれの登場人物にちゃんと背景が見え、凄みを感じさせるのも『七人の侍』のほうであった。凄みを感じるのは白黒とカラーの違いというのもあるのかもしれないが、特に『七人の侍』に登場する村の長と『荒野の七人』の長老との問題解決の仕方の違いに、切実さの描き方の違いを感じた。

ただ、では黒澤作品など当時の邦画に詳しくない人が、『七人の侍』すごいらしいからとすんなり見られるかというと、かなり難しいのではないかと思う。
私は4,5回に分けて観たのでそこまで負担に感じなかったが、『七人の侍』は3時間半ほどの長さを誇る超大作である。しかも私が見たのは父がVHSで録画していたものをDVDに落としたものなので音質・画質ともに荒く、全セリフの半分ほどは何と言っているかさっぱり聞き取れなかった。
いきなり取っ組み合おうと思っても、解説なしの私なら力尽きていたかもしれない。

『荒野の七人』について

そういう意味でいうと、『荒野の七人』はそれをうまくエンタメ方向に味付けて短くまとめており、かなり見やすく、見終わった後も爽快感にあふれているのではないかと思う。

話の大筋は同じで、貧しい農村に山賊(野武士)が現れ、今年の収穫時期にはまたたっぷり作物をいただくぞと予告され、どうにかしようとガンマン(侍)に護衛や銃の使い方の教授を依頼する、という流れだ。しかし『七人の侍』では身分制度の違いを大きく出した話であったのが、『荒野の七人』では国境近くのメキシコの村が舞台となっており、ガンマンと農民は属する国・民族が違う存在として現れてくる。その分、当時のハリウッド映画を消費するマジョリティであっただろう白人層にとっては、農民たちの悲哀はそこまで思い入れの強いものではなく、半ば他人事として描かれているように感じた。
つまり、昔から需要のある、かっこいいガンマンの出てくる西部劇に変換し、かわいそうな「異民族」を助けるヒーローの話として昇華したのが『荒野の七人』というわけである。

この雰囲気の違いはBGMにも表れている。『七人の侍』は総じておどろおどろしい重低音と鳴り響く蹄の音、百姓たちが集まって騒ぐ声といったように決して楽しいとは言えないものだが、『荒野の七人』のBGMはとても爽快であり、父によればこの背景音楽も有名らしい。予告編を見ていただければ言いたいことはお判りいただけるかと思う。

『荒野の七人』の限界

あえて一つだけ『荒野の七人』の限界として挙げるとすれば、それは『七人の侍』における三船敏郎演じる菊千代をハリウッド映画で変換できなかったことである。

三船敏郎を私はよく知らないが、なんか見たことある顔だな、この役ヤバいと思ってこの人誰?と父に聞いたら、驚き呆れながら「三船敏郎知らないの⁉」と言われた。そういう存在である。
菊千代は、百姓の生まれでありながら刀を使うことを選んだ、歴史用語でいういわゆる「婆娑羅」「悪党」といった存在であり、ちゃんとした袴も履いておらず、刀の持ち方もオリジナリティにあふれている。そこらへんのつまらん侍とは違うんだ、ということを声高に訴えたいが、しかし訴えるだけの侍としての能力は持ち合わせていないという何とも歪んだ役柄であるが、三船敏郎はそんな奇怪な役を見事に演じてみせている。

この菊千代がいることで、百姓であることの悲しさ・つらさ、侍であることの特権性が浮き彫りとなるのだが、上述の通り『荒野の七人』ではその橋渡し役を必要としていなかったためか、変換できなかったためか、とにかく同様の役柄を持つ登場人物は出てこない。
これが『荒野の七人』の限界かな、と感じた。

なお、身分制・人種意識に関する『荒野の七人』の無邪気さについては、現代の視点から当然批判されてしかるべきものがあるが、そこは今回指摘したい部分ではないので省かせていただく。

結論

すでに結論は先に言ってしまっているが、二つを総評して改めての結論を述べるとすれば、『荒野の七人』→『七人の侍』という鑑賞順は結果的に功を奏したということである。
『荒野の七人』は2時間弱ほどの映画なので、気軽に観られてストーリーの筋も単純である。やや性急にまとめてしまった感は否めないが、この長さに収めるなら仕方ないことなのだろう。
そうやって物語やそれぞれの登場人物像を大体つかんだうえで『七人の侍』を見ると、『荒野の七人』が踏襲していた部分、していない部分、形だけ踏襲しているが変換されていた部分が浮き彫りになり、鑑賞するのが少し楽になるのではないだろうか。

前章の菊千代は踏襲されなかった部分だが、他の例として、例えば双方の主役人物はどちらも坊主頭であるが、『七人の侍』ではそこに至る物語が用意されているのに対し、『荒野の七人』では何の説明もなく坊主頭にカウボーイハットを被っている。説明はしないが、形だけは踏襲しているため、『七人の侍』を見て初めてその理由がわかるわけである。

『七人の侍』は評価が高いので興味があるけど踏み出せない、という方には、ぜひこの鑑賞順をおすすめする。ちなみに私の中で評価が高いのは『七人の侍』だが、どちらも見て面白かったと言える作品である。『荒野の七人』もぜひ見てみてほしい。
(個人的には主役のユル・ブリンナーの渋さ・カッコよさにめちゃくちゃしびれた)

終わりに

ちなみにこの『荒野の七人』の原題は"The Magnificent Seven"である。何が言いたいのかというと、この『荒野の七人』はなんと同じ原題で2016年に再度リメイクされているのである。
こちらはデンゼル・ワシントンが主役であり、インディオやアジア系も登場人物として出てきており、しかもガンマンへ護衛を依頼するのは復讐に燃える女性なのである。現代の視点に耐えうる形で再度変換して再現した西部劇、私は未鑑賞であるが、興味がある人はそちらもぜひ参照されたい。


(緑青)


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