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2.排出口から出る水や煙のように

 妄想の淵の周りを散歩している時があった。淵に足を踏み入れることは少なかった。気を許すと、淵に足を踏み入れそうになった。その時に気づけば、先に行かないようにした。先に進んでしまうと、どうしようも無い世界に入ってしまい、とても疲れることになった。

 淵に足を踏み入れそうになると、私は小説を読んだ。眠くなるまで読んだ。眠くなれば横になった。興味が湧けば読み続けた。読むことに疲れたら書いた。書いた文章を煮詰めた。

 読むと書くを続けると、妄想の淵の周りで散歩し続けることができた。淵に入ることなく、過ごすことができた。もし淵に足を踏み入れたら、すぐにそこから引き返した。目の前のスクリーンで魅力的な展開をみせる映画、いままさに謎が解かれようとしても、冒険がやっとはじまっても、哀しいラストシーンでも、私は席から立ち上がり、誰にもみつからないようにして、映画館の出口に向かった。そこから立ち去った。そして小説を読んだ。文章を書いた。次の描写がはじまった。書くということの実体をつくり、文章を煮詰めた。

 深呼吸した。待ち人はやってこなかった。私の指向する世界にアウトレットパークは存在しなかった。私と同じ指向を持つ人と生活を共にすれば、アウトレットパークには向かわないはずだった。面白いとは到底思えないアウトレットパークで過ごす私は、世界を感じていた。

 身体が強張っていた。私が座るカウンター席の向こう側は店外のショーウィンドウだった。そこにはパンとスープのセットメニューが掲示されていた。私の目の前で人が立ち止まり、メニューをながめる様子が小さな隙間からみえた。

 ショーウィンドウの前で何を食べようかと思案する妻と子どもたち。その後ろには家族をアウトレットパークに連れて来て、自らの役目は果たしたという表情の夫がいた。その役目を楽しめたのだろうか。買い物を楽しむということは私にもできた。アウトレットパークでの買い物は楽しかったのか。夫はその場からいなくなり、どこかに向かった。夫は誰だったのか。

 「ひさしぶりだね」

 女の声が聞こえた。私が座るカウンター席の左隣に男と女が並んで座った。声の感じからすると女は40代後半と思われた。ひさしぶりにアウトレットパークに買い物にきたようで、男と女が久しぶりに会ったのではなかった。アウトレットパーク内のパン屋に併設されたカフェに、会うことだけを目的にしてやってくる男と女はいない。

 ショーウィンドーの前には奇抜な模様の服を着た若い男が立っていた。黒地に白い模様の入ったジャージ風の上下、サングラス、茶色い財布を右手に持って、髪型は短髪、背はかなり高かった。靴は白いズック靴だった。アウトレットパークにふさわしい男の出で立ちだった。

 私が座る席の左隣に座る男は私と近い年齢で、男の隣に座っている女は赤いジャケットを着て茶色いベレー帽を被っていた。女の身体は男の方を向いていて、左肘をついて男をみつめていた。

 私は妄想の淵の周りを歩いていた。怖がることはなかった。淵に向かうタイミングがあった。タイミングを間違えると帰って来れなくなった。うかつに足を踏み入れないほうがよかった。

 淵の周りを歩いた。淵のなかに入りそうになると、読む書くを繰り返した。そして待ち、試され、信じて、離れ、また淵に入ろうとした。私は淵のなかに入りたかった。

 青い空の下に子連れの家族がみえた。子どもは、大人の買い物に付き合わされていた。アウトレットパークは何もない。子どもたちはレゴショップでごまかされていた。「面白いでしょ?」と大人は子どもに言った。

 アウトレットパークに美味しいものはなかった。ラーメンを食べるか、カレーを食べるか、硬い牛肉を高値で食べるか、一つの大きな食堂に集って、美味しくないものを餌のように食べて、どうせこんなもんだという世界に馴染んでいった。

 家人たちから連絡はなかった。アウトレットパークに来なくても良かった私は、一体何をしていたのか。食事を終えた男と女が店外のテラスで話をしていた。「次はこれを買いたいの」「あの店にあったあれがいいよ」「いやそうではなくて、あっちの方がいいの」と話をしているのか、特に楽しそうではなかった。男は私の顔だった。私は買い物をして、うれしかったはずだった。アウトレットパークには欲しいものはなかった。アウトレットパークでは適当なものが見つかり、買ってしまうという作業の繰り返しだった。これがいい、これだけがいい、そんな気持ちを持って、アウトレットパークで過ごすことはなかった。アウトレットパークは考える場所だった。家人からの連絡はなかった。

「早く帰りたい」

子どもの声が聞こえた。

 車を操って帰路についた。家に帰れば少しだけ横になろうと思った。晩ご飯をつくる力は誰にも残っていなかった。食事をするために、どこかの店に向かうことになった。家族で晩ご飯を食べながら「暖かいブランケットに良い色のズック靴、ブラウン色のコーヒーケトルを安く買えた」と話すのだろうか。今日、私は他にやりたいことがあったのに。

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