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私に語る私の文章

欲求が生きる源泉になるのであれば、それを明確に掴むことだし、掴めばそれを追求して行けばいいから、趣味であっても生きるための力にはなるだろうし、本当の欲望であれば、それを極めていくだろうし、何かの働きとして提供することができるようになるだろうから。

回りくどい言い方と、浅はかな思考でどこまで言葉にできるのか、今の働きは難しくて興味が沸かないし、興味が沸かないと続けることができないのだけれど、続けるために興味を沸かすのは、本末転倒のようにも思う。

生きることを仕事に合わせていくことは、当たり前のことだと言えるだろうし、一般的にはそう言うだろうけど、それを私に当てはめた時に思うのは、残された時間が僅かだから、本当にそれで良いのかと。

割り切って仕事に合わせて生きたとしても、一日8時間程度だ、と考えるか、一日8時間も、と考えるかで、8時間ゆるやかにはたらいて賃金を得て、週末の時間が確保されることに感謝して生きることはこの上なく贅沢のように思うけど、ただ、それで良いのか、ぬるま湯はじわじわと熱くなり、逃げられなくなって、もう既に脱出するのは困難のようで。

私はどうするのか、脱出するのか、その場に居るのか、場所の問題もあるが、場所の問題以外もあって、外にいるか、内にいるかの視点も大事だし、そこから影響することがあって、一度外に出ると、その状況で動かざるを得ず、そこからスタートする感覚はあって、逆に言うと、外に出ないと、そういう感覚は発生しないので、内にいて、その感覚になるのは、不可能だから、それはその通りで、ただ、外に出ることは難しいし、内にいても理屈上では外の動きを取り入れることはできるはずだった。

じっとして何もしないのか、調べたいことを、何か手がかりにして、調べていくか、働くことについて、よくわからなくて、なぜここにいるのかわからなくて、何をすれば良いのかがわからなくて、本当にわからないのか、組織に属しているので、組織の動きはわかるが、その根元にある、なにをすべきかの思想が私のなかにはないし、それで限界がやってきて、思想がないのだから、形成していくことだけど、思想は欲望と言い換えることはできないのか、私がどうありたいのか、まわりをどうしたいのか、そのような思想を形成して、欲望に置き換えていくことが必要なのではないか。

今更そんなことを言う私は、最後尾からのスタートで、まだピストルの音はならなくて、そんな音を待っていたら、一生スタートすることはなくて、もうスターターは家に帰ってしまっただろうし、走り出せ、歩き出せ、考えろ、どうする、何もしないのか、結局何もしないのか、組織に絡め取られて生きるのも良しだと諦めて。

欲望に触れろ、欲望を確かめろ、生きる力を思い出せ、いのちの力を感じろ、おまえの欲望はなんなんだ。

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