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アジサイとシャボン
布を通して生まれたシャボンは、アジサイのような見た目をしていた。
言葉をおぼえるどころか、仕事をおぼえるまで成長したぼくにあるきれいな思い出のひとつだった。
忙しない毎日に追われるばかりで息つく暇を見つけることで精いっぱいの日々は、ときどきそんなことを思い出させてくる。郷愁の念にかられているのだと思う。とにかく、やさしくて、きれいな思い出がぼくには必要だった。
「きれいでしょ。お隣さんからもらったの。庭に埋めたのはいいんだけど、大きくなりすぎて間引かなきゃいけなかったみたいで」
母が嬉しそうに話してくれた。
ぼくとおなじように働いているのに、母はいつも平穏な日常の中にぼくを連れ戻してくれた。
それがどれだけすごいことで、尊敬すべきところであるのか、この年になってはじめて知った。
「あのシャボンみたいじゃない?あんた好きだったでしょ。紙の上にシャボンを拭いて、これはぼくだけのものだからしまってってねだって来たこと覚えてるわ」
「そんな昔のこと、引っ張り出してこなくていいから」
ちょうど思い出していたところをつついてくるようで、こそばゆかった。
母は思い出したかのように料理の手をとめ、パタパタとどこかへ姿を消していく。
どうせ、持ってくるんだろうな。あきれながらも待っていると、母よりも先に帰ってきた父が姿を現した。
「おお、アジサイか。お隣さんのだな」
父も母と同じようなことを言いはじめかねなかったのでひやひやしていると、おり悪く母が台所に戻ってくる。
「あらおかえりなさい。ねえ、なんだかこのアジサイにそっくりじゃない」
「たしかにな。おまえ、これ好きだったもんな。テーブルの上にもやってたからよく覚えてる」
両親はぼくの恥ずかしい気持ちなんて無視して、楽しそうに笑う。
「なあ、もうやめないか。いい加減お腹が空いた。はやく作ってよ」
「やだねえ、ちょっと手をとめるくらいいいじゃない。まったく誰に似たんだか」
「もしかして俺のことを言っているのか?」
仲の良い両親のとうてい子離れできていなさそうなやりとりに、とても懐かしいにおいがする。
ふいに、平穏な日常に警鐘を鳴らすかのように、鍋が甲高い声で鳴き始めた。
「あらやだ。火にかけっぱなしだったのね」
「おう、おう、おう、おう」
不思議な声を出しながら、父は急いで火を止める。
咎めるような父の視線に、母は「まだ大丈夫」と胸を張って応える。
ぼくはその様子にほっと胸をなでおろしていた。
容赦なくぼくにさまざまなことを求める日常は、そこにはない。ただ、この平穏な日常がどこでもいいから、誰もでもいいから日々の営みの中で失われてしまわないことを静かにねがった。
収録マガジン
「ひつじにからまって」に収録しています。
いつの間にかものがたりが絡まっていたので紹介しました。
また絡まっていたら、紹介するつもりです。
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