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小説『ワンダリングノート・ファンタジー』(60)覚悟を決めて

Chapter60


──レナっ!! そこからみんなを連れて、逃げるんだ!!──

 トムの悲鳴に近いその声は、レナの頭の中に響き渡った。瞬間、彼女は予測していたかのように素早く子供たちを両腕で抱え込んだ。

「トムなのねっ!? やっぱり、このまま無事に終わるわけ⋯⋯ないわよね!」

「ど、どうしたのお姉ちゃん? 大丈夫だよ、僕はもう危ないことはしないから」

「お姉さん、痛いよ! もう、トムもだけど、みんな力が強すぎ!」

 トムの視点は俯瞰から元に戻り、レナたちの姿を後ろから見ていた。彼がすかさず前に回り込もうとした時、子供のレナが池を指差して言った。

「あれ見て! あの池に、誰か浮かんでるよ!」

 全員の視線が池に集中した。脅威の男、ダンは仰向けに浮かびながら、水面に片手をついてゆっくりと上体を起こし立ち上がった。そこはまるで固い地面であるかのように、水は一切の波紋を作らず彼の体重を支えている。その光景を目の当たりにした皆は、その場が浅瀬になっているのではないかと錯覚するほどだった。興奮気味の子供のトムが、それを指差して叫んだ。

「あの男の人、池の上に立ってるよ!? あと⋯⋯何か持ってる?」

 レナはその状況を一瞬で理解した。不気味な男の手に握られているモノが、朧げながら光を放っていた。

「あの男は⋯⋯『ダン』ね! そして、手に持っているあれは⋯⋯!」

 その異様な光景に、子供のトムの危機感が煽られた。レナを見上げた彼はその顔つきから避けられない事態を直感し、彼女の手を握った。さらに、隣で抱えられている少女のレナの手をも取り、二人の手を重ねた。

「大丈夫だよ、お姉ちゃん。ここまで上手くいったんだ。何があっても大丈夫だよ、大丈夫⋯⋯」

「やだ、トム! 足が震えてるじゃない? お姉さんと手を繋いでも、それでも足りないの?」

 レナはまず、子供二人の身の安全を最優先に考えた。この池のほとりには適当な隠れ場所がないことを彼女も知っていたが、一つの計画が頭に浮かんでいた。

「トム君、私たちがここへやってくる前にいた、あの『狭間の世界』へ一旦逃げましょう⋯⋯レナちゃんを連れて。あなたの、その端末装置⋯⋯「ミル」があれば、きっと戻れるわ。」

 レナの言葉を聞いた学生トムは、突然その子供のトムとリンクした。両側に鏡が立ち並ぶ陰気な通路で、彼女が赤い布を目に当てている様子と、自分の手が何かの端末を握っている記憶を得た。その後、ひとつの鏡に引き込まれてこの池にたどり着いた瞬間までが鮮明に思い出され、トムの言葉が自身の子供の口を通じて放たれた。

「レナっ! 僕にはこれがある! この赤いマントがあれば、子供の姿の君⋯⋯この『レナちゃん』も守れるさ!」

「え⋯⋯? トム君⋯⋯? 君は⋯⋯」

 子供のトムはズボンのポケットから、くしゃくしゃになった赤い布切れを取り出し、それをレナに広げて見せた。

「これがあるから、僕たちは大丈夫! レナ⋯⋯お姉ちゃんは、安心して目の前のことに集中して!」

 驚いたレナは戸惑いつつも、子供のトムの頭に優しく手を置き、何かを悟ったような表情で彼を見つめた。

「ありがとう⋯⋯『小さな勇者』さん。私を⋯⋯その子を守ってあげてね!」

 自分を勇気づけるために、本物のトムが子供の姿を通して伝えてくれていることにレナは気づいた。その瞬間彼女の不安は消え、決意が固まった。


──たった今、靴を新調したところだ──


 ダンの冷たい声は脳内に響き渡り、その場にいる全員を凍り付かせた。恐るべき威圧感が空間を支配し、重苦しい静寂が周囲を包み込む。レナはそのプレッシャーに押しつぶされそうになりながらも、目を背けたくなる感情を必死で抑え込んだ。
 フォーマルなスーツを着込んだダンは、池の上に素足で立っていた。彼は手に持っていた輝くモノを一旦、その水面に静かに浮かべた。

『娘よ⋯⋯お前に転ばされ、この汚れた足裏も念入りに洗った。おかげで新しく用意した靴下も、気持ちよく履くことができる』

 ダンはそれをゆっくりと、片足ずつ丁寧に履き始めた。彼の足元では、池の水面がほんのわずかに波打ちながらも、不思議なほど安定して彼を支えている。そして靴下を履き終えた後、彼は上着のポケットから小さな靴べらを取り出し、さりげなくそれを使って靴を履いた。その動作一つひとつが計算されており、完璧なほどに滑らかだった。


Look at that! Someone is floating in the pond!


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