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【掌編】廃墟座

 コーラの空き缶を捨てる場所を探していた。空き缶にも適切な捨て場所があるんじゃないかと思ったからだ。といっても、なにも今日突然そう思いついたわけじゃない。かねてから俺は、公園のゴミ箱やホームの下に、泥で汚れたり潰されたりして捨てられている空き缶を見ては、なんだかわけもなく感傷的な気分になったものだった。憐れみ? どうだろうな。そういう尊大な感情では空き缶に対して失礼だろう。もっとこう、シンパシーみたいなものだろうか。それで、今日はたまたま気分が向いたから――つまり暗い地割れの底で膝を抱えて座っているような気分になったから――、そういう一種の完璧な符号を求めて街をさ迷っているわけだ。なにせ空き缶に対して「失礼」だなんて感懐を抱いてしまうくらいだからな。
 公園の砂場のなか、郵便局の前にある掲示板の足元、誰かがベンチに置き忘れていったハンカチの横、小川に捨てられたおんぼろ自転車のカゴのなか、古書店の店先に出された本棚の空いたスペース、科学博物館のマスコットキャラクターの人形、その頭のてっぺん……。どれもいい線まで行っていたが、もう一歩のところで俺の納得を勝ち取りはしなかった。真夏のギラついた日射しが視界を白く覆っていた。この炎天下のなか、長時間歩いていたせいで、こめかみのあたりが痛くなってきた。汗でTシャツの背中がぐっしょり湿っている。
 コンビニに入って涼をとりつつ、漫画雑誌を適当に繰ってどうしようか思案していた。手に持っていた空き缶はズボンの大きめのポケットに無理やり差し込んで入れた。水滴で周りの布地がけっこう気になる程度に濡れた。
 ふと、以前街で耳にした噂が脳裏をかすめた。暑さで痛めつけられた頭はそれを一瞬逃しそうになったが、俺はパンくずみたいな矮小な意志力を働かせ(歩き回ったせいで脚も疲れているのだ)、なんとかそれを掴みとった。
 ――街はずれに廃墟があってね、そこに行くと女の人の声が聞こえるらしいよ。ほら、あの北にある神社のもっと奥――
 夏という季節も手伝ったのだろう。だいぶ怪談めいている。この噂を聞いたのもつい二週間ほど前のことだ。
 ともかく俺は、もう自分の想像力も体力も限界だったため、その噂を頼りに街はずれの廃墟に行ってみることにした。
 緩やかな坂を上り、神社を迂回してしばらく道を北に進むと、もう住宅もまばらになった領域のさらに奥のほうに、打ち捨てられたような石造りのアパートがあった。塀で囲まれ、外壁にはところどころひびが入り、蔦がからみ、バケツやら風呂の桶やらスナック菓子の袋やら飴玉の包装紙やらが多数、黒ずんだ状態で前庭に捨てられていた。
 俺は正面の塀の空いた入り口から敷地内に入ってみた。なんとなく落ち着いたような安堵した気分になった。俺みたいな人間がいるのにふさわしい場所だ。
 エレベーターがないため、階段を上り下りし、廊下を渡って一周アパートを回ってみた。花火の燃え殻やビー玉、小型ラジオや子供が遊ぶ人形などがところどころに転がっていた。南から日光が差し込んでいるが、それでも全体的に陰り、冷ややかさで閉ざされている印象は免れなかった。
 俺は一階の階段に腰かけ、ポケットからコーラの空き缶を取り出し、目の前に掲げた。陰気な灰色の暗さのなかでは、その缶の赤はあまりに発色がよかった。
 ふいに声が聞こえた。噂の通り、たしかに女の声だった。意外にも、最初からはっきりと聞こえた。透き通ったようで、しかし邪魔なものをどかして突っ切っていくような強靭さも合わせ持った声だった。
 ――あんた、聞こえる?
 俺は立ち上がり、しばらく様子を見てから、聞こえるよ、と返事をした。
 ――へえ。聞こえるんだ。あんた、この街のもん?
 ああ、そうだ、と俺は答えた。
 ――ふうん。平日のこんな時間に、暇人なわけね。
 まあ、そういう感じだな。
 ――逃げないの? ここに来るやつはだいたいあたしの声を聞いて逃げるけど。
 別に、暇だからな。
 ――なにしに来たわけ?
 空き缶の置き場所を探してた。そう言って俺は目の前の宙にコーラの空き缶を掲げた。彼女がどんなふうに見ているかはわからなかったが。
 ――なにそれ。あんた、おもしろいね。……ね、暇ならさ、あたしにつき合ってよ。あたしも暇なんだ。話し相手になってよ。
 俺たちは話をした。彼女は自分の素性を明かしはしなかったが、いくつか自分に関する些細なことを話してくれた。バイクの音を夜空に響かせる爽快さ、一番うまい煙草の銘柄、酒を飲み過ぎてこのアパートの庭で何度も嘔吐し、そのたびに管理人にしかられたこと、右腕に入れたオリオン座のタトゥー、そろそろ真面目に勉強でもしようかなと思って、やっぱり気が向かなかったこと……。
 ――暇ならあんたもバイクでかっ飛ばせばいいよ。
 免許持ってない、と俺は言った。
 ――つまんないなあ。
 ところで、コーラでも飲まないか? 新しいの買ってきてやるけど。俺はなんとなく提案した。
 ――いや、いいよ。……待って。じゃあ、あんたが飲んでるところを見せてよ。新しいの買ってきて。
 俺は眉根を寄せた。俺はさっき一本飲んだんだけど。ほら、だからこれ。
 ――いいじゃん。ほら、早くしなよ。
 ある意味パシリってわけですか? 俺はぶっきらぼうに言った。
 ――そうだね。それでいいから、早く。
 その笑い声を耳に残し、俺は近場のコンビニでもう一本コーラを買ってきた。
 戻ってくると、彼女は俺にしきりに飲むように勧めた。半分飲んだところで、俺は腹が炭酸で苦しくなった。
 もう飲めないな。
 ――いやいや、いいよ。残りはあとであたしが飲むからさ。
 沈黙が満ちた。真空のような空白が広がった。
 俺は妙に不安になった。なにか手放してはいけないものがするりと手のひらを抜けていくような……。
 なあ。
 ――ん?
 俺はほっと口から息を吐く。
 なんでもない。
 ――なによ。
 なんでも。
 ――ふうん。……ね、あんたさ、星、好き?
 星?
 ――うん。
 まあ、嫌いじゃないな。
 ――知ってる星座は?
 それこそ、オリオン座。あとは……。それ以上、なにも出てこなかった。
 ――あはは。星はいいよ、バイクでかっ飛びながら見る星は最高だ。
 たしかに、想像はつくな。
 ――想像よりもっとだよ。はあ。あんたを後ろに乗せて走ってみたかったなあ……。
 また沈黙……。
 気まずくなって俺は立ち上がった。こめかみが痛い。
 ここに来れば、また会えるのか?
 ――さあね。あんたが星の勉強でもしてくれば。
 ……また明日来るよ。
 ――もういないかもしれないけどね。
 俺はまっすぐ前を向いていた。
 ――ねえ。
 ん?
 ――あんたはパシリなんかじゃないよ。
 そりゃどうも。
 俺はポケットに手を突っ込んでアパートを出た。
 階段には、飲み干したものと半分だけ残されたコーラの空き缶が二本、並んで置かれていた。


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