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JKが忘れたくなかった瞬間の話〜夏の夕方、スイカバー〜

 午後6時半。セミの大合唱を背に駅から家まで歩く影は、夏の夕空によって長く長く地面に映し出されている。
 駅前の商店街には、相変わらずオルゴール調の音楽とそれによって醸し出されるのんびりした空気が流れている。
 
 約7時間の部活を終えて家路に着く足取りは、行きのそれとは比べものにならないほど重い。おまけに夏のうだるような熱気がまとわりついて足をすくう。脳内には、「マジ無理」とか「しんどすぎんだけど」といった、JKという言葉の存在を全肯定するかのような言葉が次々と浮かんでは消える。暑すぎてまじでしんどみ。無理みすぎんだけど。アイス買って帰ろ。アゲ〜。

 夏の風の匂いが鼻の奥をかすめる。徒歩3分付近にある1つ目のコンビニを通り過ぎ、徒歩5分地点にある2つ目のコンビニに立ち寄る。この春初めてできた2つ目のコンビニは、1つ目のコンビニに比べて全体的に価格帯が安いという世紀の大発見をしてしまったのだ。開店直後のセールでは、鮭のおにぎりが1個70円で買えてしまったことを思い出した。
 コンビニに入る。いろんな食品の混ざり合った匂いとともに、一気に冷気が身体中に入り込んでくる。鼻の奥が痛いくらいに冷たくて、一歩進むたびに熱を持った体が急速に冷まされていく。無機質な店員の「いらっしゃいませ」の声を聞きながら、待ち侘びた高揚感は、未だ熱気を含んだローファーとともに運ばれていく。最も温度が低いから入り口から一番離れた場所にあるショーケース。主役はなかなか姿を現さない。それでいいしそれがいい。このワクワクがたまらない。
 
 満を持してショーケースを覗き込む。いろとりどりの甘くて冷たいご褒美を前にすると、目移りが止まらない。チョコレートもいい。バニラもいい。シャーベットもいいな。けれどスイカバーの文字を見た瞬間、迷っていたのが嘘かのようにすっと手が伸びた。夏の風物詩。大きな赤い三角形に混じるチョコのアクセントがたまらない。それに1つ目のコンビニでは130円のスイカバーが、このコンビニでは110円で買える。それを思い出すと、35°の屋外も25°かのような涼しい顔で歩けそうな気がしてくる。

 コンビニを出ると、幾分か暑さは和らいでいる。前髪が優しい風に吹かれるのを感じながらピンク色に染まった空を見上げると、遠くに一番星が光っている。公園の前を通ると明日と明後日のお祭りに向けて赤や黄色やオレンジの提灯が用意されている。中央の神輿の周りには自治会の人たちが集まって話していて、虫除けスプレーの鼻をつくような、でも決して不快ではない匂いがそれをよりくっきりとさせる。公園を通り過ぎて振り返ると、夕闇の中に提灯と神輿がぼんやりと溶けている。いつもは灰色の景色に、今日は色がついて光っている。近所の家からは夕飯の匂いと子供の声がしている。それと犬の遠吠えとセミの鳴き声。

 マンションの階段を上る。片手に持ったアイスは、エレベーターを待つ時間を1秒たりとも与えない。熱さと疲労をローファーの中になんとか押し込み、踏みしめるように階段を上る。カバンをまさぐって鍵を取り出しドアをあける。今度は溜まっていた家の匂いを含んだ生ぬるい空気が全身を包み込む。カバンを放り投げ、冷凍庫の中にアイスを入れ、冷房をつけ、シャワーを浴びる。シャワーから出ると和室に寝転ぶ。視界の左上に映る茜色の空がまだかすかに明るい。

 ふと、忘れたくないなと思った。1年に1度しかない夏の、なんでもないたった1日のすべてを忘れたくないと思った。日常を生きるなかで、変わらないものなどなく、必ずなにかの終わりとはじまりに向かって時間は進んでいる。それでもまるで永遠かのように感じることのできる穏やかな日が存在すること。特に何もなかった日の何気ない瞬間を記憶すること。それはなんでもないけど素晴らしい行為。
 
 立ち上がり、キッチンへ向かう。夏の暑さで少し溶けかけたそれは、再び綺麗な三角形を取り戻している。袋から取り出して冷たさを予感しながら1口かじる。疲れた体に甘さと冷たさが一気に染み渡る。


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