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詩人の恋/深水黎一郎

✳️本記事は2023年3月に投稿したアメブロ記事に基づいています


深水黎一郎氏の作品を読むのは今回が初めてで、事前情報が殆どない状態でタイトルに惹かれて読み、読了してからネットで調べて色々知ることができた。どうやらクラシック音楽にまつわる作品が幾つかあるようだ―「トスカの接吻 オペラ・ミステリオーザ」(2008)、「五声のリチェルカーレ」(2010)、「ジークフリートの剣」(2010) など―。趣味がピアノとドイツ・リートの弾き語りというだけあって、作品の節々から音楽への造詣の深さを感じられるものとなっている。ちなみにWikipediaによると、深水氏は「艦これ」のプレーヤーなのだそうだ。僕はこの独創的な内容をゲームではなくアニメで楽しんでいたが、それより先に「大和」クラシックスタイルオーケストラmodeのフィギュアを人生で初購入していた。

ヴァイオリンにスチール弦を張ろうと思っていたが、まだ取り組めていない。


今回の「詩人の恋」は2020年作品で、なんと構想に30年かかったという。まるでブラームスの第1交響曲のようだ―そちらは構想に20年、作曲に6年かかった―。深水氏曰く、若い頃「詩人の恋」を弾き歌いしている時に、天啓のように閃いたアイディアを元にしているのだという。そしてドイツ語や英語を含む論文や評論、研究書を全部読むだけでも10年近くかかったとのことだ―巻末には31の参考文献が記載されている―。本書ではシューマンに関わるあらゆる史実が述べられ、特に第七部では「詩人の恋」の詳細な楽曲解釈が登場するが、深水氏自身のインスピレーションと作品分析、伝記的事実との折り合いが丁寧に構築されていると感じられたのは、その下積みの成果なのかもしれない。

「詩人の恋は小説と音楽書の融合を目指したもの」と深水氏は語る。一読してその目的は達成されているように感じられる。シューマンを題材にした小説というと「奥泉光/シューマンの指」が挙げられるが、読後感はこちらの方が心地良い。何故かと色々思い巡らして気づいたのは(フィクションながらも)シューマン亡き後のクララやと子供たちとブラームスとの場面があるからだろう―「シューマンの指」は現代のみを時代背景にしていた―。第二部にて、ブラームスとシューマンとの邂逅以降の出来事が「伝記的事実」として客観的に述べられているのも参考になり、知識を補完することができた(もちろん「シューマンの指」でもそうだった。僕の好きなシューマンのピアノ作品が熱く語られるのを食い入るように読んだものだ)。

小澤征爾/サイトウ・キネン・オーケストラによるブラームス/交響曲第1番。確か僕が初めて購入したブラ1のCDが小澤盤だった記憶がある。


本書の構成は全七部からなり、第一部はシューマン家を訪ねるヨハネス・ブラームスの視点から物語が始まる―師であるロベルト・シューマンが亡くなった1856年秋の「デュッセルドルフ」が背景として設定されている―何故か中国語読みの「杜塞道夫」と表記されているが―。クララ・シューマンのもとに届いた一通の手紙によって謎が提示される。差出人はシューマンよりも早く亡くなっている彼の友人だったルートヴィッヒ・シュンケだった。明らかに偽名だが、驚くべきはその内容―全16曲の歌曲集の中でシューマンは「やってはいけないことをやって」おり、法外な口止め料を要求、証拠となる手紙との取引を求める脅迫状めいたものだった。ブラームスはただちにその歌曲集が「詩人の恋」であることに気づき、心配するクララを宥めつつ、手紙の奪還を決意する。

ブラームスの次の独白は印象的だ―。

主人公の恋は実らないが、ハッピーな結末だったら、果たしてあそこまでの傑作になっただろうか。
私は決して結実しない私の愛を、創作活動へと昇華させよう。クララに対する私の愛は、私なりの「詩人の恋」なのだ。

シュンケ/ピアノ・ソナタ ト短調Op.3~第1楽章。
このテーマが後にシューマン/ピアノ協奏曲のカデンツァで現れる。



第二部は(前述のように)「伝記的事実」が語られ、第三部でいきなり現代の男子高校生が主人公になる―これは意外だった。てっきりヨハネス視点での物語が続くものと思い込んでいたからだ(そんな保証はどこにもなかったのだが)。作家曰く、本書の構成は「一章ごとに別々の恋愛小説として読めるようになっている」とのこと。それぞれの視点でその人にとっての「詩人の恋」が語られてゆくことになるようだ。ここでは恋愛真っ最中の高校生がタイトルに惹かれて衝動買いした「詩人の恋」のCD(ヴンダーリヒ盤)の感想を1日1曲ずつ日記の形で語られる―これも第七部への伏線となる―。依然として「敷居が高い」とされているクラシック音楽が、高校生視点で親しみ深く表現されているのは作家の意図かもしれない。失恋で終わる「詩人の恋」とは異なり、若者たちの恋は、とある事件」をきっかけに成就し、爽やかな結末を迎える。

さて、僕にとっての「詩人の恋」とは―?

最初に聞いたのはディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(DFD) &エッシェンバッハ盤だった。DFDの名唱は見事だったが、僕は寧ろ伴奏を超えた存在のピアノに魅せられていた。DFDには他にブレンデルとの共演盤もあったが、やはりバリトンよりテノールで聞きたかったのでボストリッジ盤を入手し、長らくこれが愛聴盤となった。「詩人の恋」は僕にとってシューベルト/「美しき水車小屋の娘」と同じ位置にある―つまり多少気恥ずかしさを感じる音楽と詩なので、今では進んで聞くことはまずない。それでもカーネギーホール・ライヴでのDFD&ホロヴィッツ盤は面白かったが。「詩人の恋」がシューマンのリートの中でも屈指の名作であることを否定はしないが、僕にとっては「リーダークライスOp.39」が最高峰である。

ヴンダーリヒによる「詩人の恋」をスコア付きで―。CD盤とは異なるライヴ音源のようだ。

現代作曲家クリスティアン・ヨストによるテノール&室内アンサンブル版の「詩人の恋」。

こちらはヴィオラ&ピアノ版。チェロ版も演奏されるようになってきた。



第四部では、シューマンによる直筆の手紙が明かされる(もちろんフィクション)。「詩人の恋」に織り込むことにした「秘密」―それは彼の友人が犯してしまった「ある出来事」に関わることだった(第三部に挿入されていた「事件」が1つの伏線となっているように感じる)。シューマンはその「激情の物語」に共感し、下手をすれば自分こそがそうなっていたかもしれない、とまで率直に心情を吐露する。シューマンがこれから行おうとしていたことは、当時の価値観をはるかに凌駕した大胆な計画だったのである。

親愛なる友よ、いつの日か僕が歌曲集に籠めた秘密が明らかになり、君と僕の友情が、人々の間に永遠に記憶されんことを。

その秘密は第七部で解き明かされることになる―。



第五部では再び現代へ―。大学の合唱サークルが「詩人の恋」を取り上げるシーンが描かれる(この小説を読んで初めて合唱版があることを知った。日本人による男声合唱用編曲版で数種類あるらしい)。そこでハイネの詩に基づく歌詞がシューマンにより改竄されている可能性に気づく。原詩の順番を替えるのはまだしも、歌詞を変えるとは…そのシューマンの意図はどこに?楽譜の監修を行ったブラームスが気づかないはずはないのでは?じゃあ、クララに内緒で?…といった疑問が提示される(勿論これも伏線だ)―学生たちだけでなく、先生たちも巻き込んで。もちろんサークル仲間同士の淡く純真な恋愛感情や、先生同士の恋愛事情を描くことも忘れない。面白いのは恋愛慣れしていない学生同士の恋愛が進展するのに(第三部での「事件」が一役買う)、先生の方は片思いに終始するところだ―しかもその先生はドイツ文学科の准教授で大のシューマニアーナだったりする。また、さり気なく第二部の出来事がネットの掲示板の恋愛スレッド「シューマンの≪詩人の恋≫のお陰で彼女とヨリを戻せた件」に載ってたことに触れるのも巧みだ。各部は確かに独立した1つの物語として読むことも可能だが、現代パートでは関連をもって時系列的に配列されている。特にこの第五部では「芸術探偵」の異名を持つ神泉寺瞬一郎が登場し、これが解決編の第七部の前座となるわけだ(ちなみに深水氏の小説には「芸術探偵シリーズ」があり、ファンの方々にはお馴染みのキャラクターのようである)。彼がベルリンでシューマンの手稿を調べた結果、改竄はなく、むしろ出版された楽譜の方に問題があることが判明する…。

「詩人の恋」のア・カペラ版。僕も初めて聞く―。



第六部では舞台を現代のベルリンに移す―例の准教授が大学図書館に収める貴重本を購入するため、ベルリンにある古書店を訪れる。クラシック通を唸らせる選曲のBGMをバックに店主と音楽談議に花開き、一息ついた後、近々この店を畳むという店主からある古い手紙を見せられる―そう、第四部に登場したシューマン直筆のあの手紙である。シューマニアーナである自分すら初めて見るその手紙の内容に准教授は驚愕する―そしてこの思いがけない出会いが、今まで示してきた学問とシューマンの楽曲に対する全幅の愛へのご褒美だと感じる―。それが贋作ではないことを確信した彼は、歴史的発見ともいえるその未発表の書簡を高額で譲ってもらうことになるはずだったのだが…。

シューマン/ピアノ三重奏曲第1番~フィナーレ。「Mit Feuer」の演奏指示。その「手紙」がどうなったかを僕なりに暗示してみた。



最後の第七部では国際的テノール歌手、藤枝和行が「詩人の恋」に取り組む様子が描かれる。伴奏のピアニストが急病を患ったため、代役を探すことに。ここで抜擢されるのが「芸術探偵」神泉寺瞬一郎なのである―しかも従来の「詩人の恋」を根底から覆す新解釈を披露する=(僕たちにとっては)謎解きとなる。
実はこの2人、2010年作品「ジークフリートの剣」で既に登場しているらしい。合わせの練習の中で、詳細がダメ出しの形で示される―その場面はなんと30ページにも及ぶ。ユーモアを交えつつなされる2人のやり取りはそれなりに面白い。全16曲を1曲ずつ、ドイツ語のアーティキュレーションの付け方から、演奏解釈に至るまで、微に入り細を穿つ表現で溢れる。教本を参考にして書いた内容だろうが、リスナー視点では知り得ない豊富な内容で圧倒される―やはり深水氏が実際に歌い、弾いた経験が生かされているのだと思う。僕は脳内で「詩人の恋」を再生しながら読んでいた。実際に聴きながら読むと格別かもしれない。

練習中、藤枝和行は今は亡き妻を想う―彼女の無念を晴らしてくれたのが、今ここでピアノを弾きながら講釈を垂れている「芸術探偵」だったのだ。

和行はランプ台上の有希子の遺骨袋に、ちらりと目をやった。愚かにも自分は、有希子が死んで初めて彼女を、本当の意味で愛し始めたのだ。

全16曲をおさらいした後、ついに本題に入る―神泉寺瞬一郎はシューマンが当初作曲したものの、最終的に「詩人の恋」に含めなかった4曲に注目し、それらを含めたハイネによる原詩「抒情的間奏曲」(全65詩)の本来の順番を視覚化して見せる。集中して選ばれている部分とそうでない部分、順番が入れ替わっている部分…それらの歌詞に注目しながら再度丁寧に読み込んでいった時に2人の眼前に現れたのは、シューマンが直筆の手紙にしたためた「秘密」であったのだ―。

原作者ハイネの意図を一見尊重しているように見せかけながら、シューマンが詩の取捨選択と順序の入れ替え、ほんの少しの詩句の改変だけで、甘ったるい恋愛と失恋の歌曲集という表の貌の下、ひそかに殺人犯の激情と絶望の物語をそこに埋め込んだのだとすれば……。

削除曲の1曲「君の顔」Op.127-2。テノール&室内アンサンブル版で。

「君の頬に寄せて」Op.142-2。前曲と共に「詩人の恋」の4曲~5曲の間に配置されていた。

ちなみに超有名なこれも「抒情的間奏曲」の9番目に位置している。

「ミルテの花」Op.25~第7曲「蓮の花」
「抒情的間奏曲」の10番目。

「僕の恋は輝いている」Op.127-3。「詩人の恋」の第12曲の後に配置されていた。ハイネ詩では46番目。

「僕の馬車はゆっくりと行く」Op.142-4。前曲の後に配置されていた。「抒情的間奏曲」の54番目。



神泉寺瞬一郎は奇しくも、永遠に失われた書簡(「チェロとピアノのための5つのロマンス」を思わせる結末)に記されたシューマンの願いを現代に叶える存在となったのである。

いつの日か遠いどこかの国で、僕が歌曲集にかけた魔法が発動し、秘められた真実が明らかになる。…その時代には、人間の悪や愚や負の感情ですら、芸術作品の素材として立派に認められるようになっていることだろう。…僕が作品に籠める秘密は、隠すべき事柄どころか、むしろ作品に深みと奥行きを与えるものとして、作品が煉獄に入ることを防ぐ役目を果たしてくれることだろう。

本書にはシューマンが命を懸けて記そうとした友人が誰であるかは明らかにされていない(僕はシューマンの分身だと思っている)。そしてクララの下に届いた脅迫の手紙を書いたのが本当は誰であるか?ということも示されていない―シューマンによる自作自演という見方が濃厚であるが、疑問がないわけではない―。最終判断は読者に委ねられているのかもしれない。


物語の最後のページではブラームスの時代にいきなり戻る。ブラームスはシューマン直筆の手紙を入手し、彼の目論見を完全に理解する。クララにも嘘をついて、手紙の存在を無かったことにしたのだ―彼女は十中八九その手紙を処分するに決まっているからだ。
作者がブラームスをシューマンの「共犯者」として描いて本書を終わっているのが、なかなか奥の深い設定だと感じる―ここにブラームスとシューマンの間に存在した師弟愛のようなものを感じるのは僕だけではあるまい。あのクララですら入り込めないのだ―。

シューマニアーナはもちろん、シューマンや歌曲に関心のある方々には特にお勧めしたい一冊といえよう。


結びに、ハイネ詩によるシューマン/リーダークライスOp.24~第9曲「ミルテとバラを持って」。大好きなボストリッジの歌唱で。

そこでは次のように歌われている―。

いつの日か君はこの本を手にするだろう
遠い国にいるやさしい恋人よ
その時こそ、歌に籠められた魔法の呪縛が解けて
蒼褪めた文字が君を凝視め
悲しみと愛の息吹きを囁きかけることだろう


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